まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第8番「圓明寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(いにしえの山陽道)

2021年05月20日 | 広島新四国八十八ヶ所

5月の大型連休明け、実質月初めの通勤となった6日、7日を終えて次の週末。広島新四国八十八ヶ所めぐりも進めておこう。前回までの廿日市市シリーズの往路を終えて、広島市に入る。最も西にある佐伯区からで、目指すのは第8番の圓明寺(えんみょうじ)。

5月8日、朝ゆっくり出発する。広電で向かったのは楽々園。佐伯区は前の広島勤務時代、つまり初めての社会人生活の時に過ごしたところ。当時住んでいた建物(会社寮)はずいぶん前に取り壊され、跡地にマンションが建っているのも見たことがある。楽々園方面もたまに来ていて、宮島街道沿いのごちゃごちゃした感じも懐かしいところである。

圓明寺へは楽々園からバスで近くまで行けそうだが、本数も1時間に1本とかだし、まあせっかくなのでそのまま歩いて行く。広島工業大学のキャンパスを横に見ながら進む。学生向けなのか、住宅地の中にワンルームマンションも結構目立つ。

そろそろ上り坂が強くなるが、その中を結構クルマが行き交う。この先に住宅団地が広がっており、歩いている道はちょうど海側に出る抜け道の一つになっている。

20分あまりかけて、国道2号線バイパス(西広島バイパス)まで出る。クルマで走ると(当たり前だが)そのまま通り抜ける道路なので、立ち止まって景色を見るのは初めて。正面にそびえるのは鈴が峰。ゴルフコースもある。

この辺りは古代の山陽道「影面(かげとも)の道」が通っていたとされる。今は平野から高台にかけて住宅地が広がり、そこを西広島バイパスが突き抜けるイメージだが、「影面の道」の平安時代の9世紀頃までは、広電やJRが走る平野部のほとんどは海で、さらに昔は、現在の観音、八幡、石内という山麓地区まで湾が入り組んでいた。その辺りには海沿いに住んでいた人々の遺跡が残っている。

この「影面の道」、都と大宰府を最短で結ぶルートで造られたのだが、後に瀬戸内の海上ルートが整備されると移動の主力はそちらに移り、律令制の終わりとともに官道としての役割も終えた。ただ、20世紀になり、現在の山陽自動車道が建設されるにあたり取ったルートは、くしくもこの「影面の道」に沿うものだった。

平安時代後期になって、現在眺めている辺りまでが海岸線となり、江戸時代に広電、JRの線路辺りに来た。現在の国道2号線(宮島街道)はちょうど海べりを通る形で整備されたことになる。そして現在は埋め立てが進み、海岸線がさらに沖にまで後退している。こうした長い歴史があるとは初めて知った。

バイパスの側道に沿って進むと圓明寺に到着。すぐ手前に墓地がある立派な寺があるが、こちらは「延命寺」。読みも似ていてまぎらわしい。目指す圓明寺はその隣、小さな公園はあるものの山門もなく、お堂が一つ建つだけである。

寺があるのは佐伯区の三宅というところで、境内にはその地名の由来を記した石板がある。三宅という地名はあちこちにあるが、古代朝廷の領地だった屯倉から来ている。それだけ古くから開かれていた土地で、「影面の道」も通って文化も開けていたところとされている。この圓明寺も平安時代初期に弘法大師により開かれたとある。当時の海岸線がこの辺りまで来ていたとすれば、宮島とは目と鼻の先である。この地に弘法大師が訪ねていたとしても不思議ではないだろう。

本尊は弘法大師作と伝わる如意輪観音。こちらも秘仏のようで、本堂の外からムニャムニャとお勤めである。

本堂の横には、任助法親王の宝篋印塔が安置されている。任助法親王は室町~戦国時代の人で、京都の仁和寺の門主も務めた。「西の御室(仁和寺)」とも称される宮島の大聖院に滞在していた時に亡くなり、その供養として建てられたのがこの宝篋印塔である。ちょうど宮島と対峙する場所が選ばれたということかな。

江戸時代までは伽藍を持ち、支院もあったようだが、明治の廃仏毀釈でほとんど廃寺状態となった。その後再興され、現在に至っている。本堂の裏に小さな墓地があり、歴代住職の名前が刻まれているが、再興してからのものだろう。

さて朱印だが、一応隣の家屋が本坊で納経所として対応する造りにもなっているが、広島新西国の常として、箱に収められた書き置きをいただく。ともかくこれで8ヶ所まで来て、広島新四国の10分の1を終えた。ここからは広島市内のあちこちを回ることになる。

帰りも下りということでそのまま歩いて戻る。この辺りはかつて観音村と呼ばれ、今は新たに山側に観音台という住宅地もある。どこかに観音を祀る寺でもあるのかなと思って調べてみたが、その観音とはここから西にある極楽寺山、この広島新四国でも訪ねた極楽寺の本尊十一面観音のことだという。その麓を観音下と呼んだこともあり、明治時代に6つの村が合併して観音村となった(その後五日市町~広島市佐伯区となる)。

その中に観音神社というのがある。観音さんと神社なんて神仏習合かいなと思うが、もともと各集落ごとにあった氏神が合祀され、戦後になってこの名前がつけられたところ。元となる神社が鎮座してからは1100年を超えるという。

境内は公民館、保育園と一体化しており、その中にまだ新しい拝殿がある。開運厄除、子育て安産の神様として地元の信仰を集め、これからも受け継がれていくところである。

この神社の狛犬が珍スポットだという。よく見ると頭に皿状の凹みができている。昔、人々が狛犬の頭に米などの穀物を置いて指先でさすり、幸せを祈願したという。それが重なって徐々にすり減ったのが今の形だとか。中にはこの凹みに小銭をお供えする人もいるという。信仰の形もいろいろあるものだ。

今回は楽々園駅からの散歩のような形となり、電停に戻る。帰宅前にいったん線路の南側に出る。

向かったのは「塩屋天然温泉 ほの湯」。昨年広島に移ってから何回か訪ねているところで、地下1100メートルの花崗岩層から汲み上げた天然の塩化温泉である。今回散歩の後ということで汗を落とす。

これからの市内編では、できるだけ鉄道、バスを使って回りたいところ・・・。

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