広島から三原に向かう「シースピカ」が、2度目の寄港地である大久野島に到着。大久野島へは忠海からフェリーで行くのが一般的だが、そことは異なる桟橋に着いた。30分の停泊である。
大久野島は「うさぎの島」として知られている。実は「シースピカ」が寄港するにあたり、船内でうさぎの餌を100円で売っていてガイドさんも薦めていたが、別にいいかなとそのまま下船した。
現在うさぎは500羽ほど生息しているそうで、桟橋の近くにもちょこちょこ見つかる。観光客が餌やりをする光景も見られる。ただ、3年前は1000羽近くいたのに比べると大幅に数が減っているそうだ。
コロナ禍で島を訪ねる観光客が減ったことで餌の量も減り、それで数が減ったということのようだが、一方では食べ物を求めて生息域を山の中に移し、人前に姿を見せなくなっただけという説もあるようだ。別に動物園ではないのだから個体を管理しているわけではなく、自然のままにということだろう。
大久野島には前回の広島勤務時、勤務先の組合の行事で国民休暇村に来て以来だから20年以上ぶりのことである。その時、平和学習として見学に訪れたのが毒ガス資料館である。今回の寄港にあたり、私としてはこちらの見学を優先したため、うさぎの餌を買わなかった。まあ、島の中でうさぎの餌を売っているところがあるだろうから、時間ができたらそこで買えばいいやという思いもあったのだが・・。
島には明治時代に灯台や砲台が建造されたが、昭和に入ると陸軍の手により毒ガスが秘密裏に製造された。「地図から消された島」ということでご存知の方も多いだろう。昭和恐慌の後ということもあり、高給を餌に多くの工員を雇い入れたが、当然ながら過酷な労働環境、また機密保持のため憲兵の厳しい監視下にあったという。一応、防毒用の衣服やマスク、手袋などは着用していたが、それでもその隙間から有毒成分が入り込み、皮膚、目、喉などがやられてしまう人が多かった。
当時の人の思いはどうだったのだろうか。お国のためということで誇りを持って従事した人もいるだろうし、カネのためと割り切っていた人もいるかもしれない。ただある意味、この人たちも戦争の犠牲者といえる。
敗戦の際に、毒ガスを製造していたことがバレたら国際問題になるといって、化学物質を海中や土中に廃棄し、当時の記録の多くも隠匿や焼却したという。ただ、製造された化学兵器は中国(地方ではなく大陸のほう)に数多く遺棄されたままで、長い年月をかけてその回収処理が行われたそうだ。その中で、発掘されたドラム缶から化学物質が流出し、作業にあたっていた中国人の死傷者も出て、日本政府が解決金を支払った事象もあったと紹介されいる。私も展示を見て初めて知ったが、こういうところにも戦後処理があったのかと思う。
資料館を出て、海沿いを少し歩く。正面の島は大三島で、ここが広島県と愛媛県の境界である。それにしても波が早く、複雑な動きをしている。
滞在時間はあっという間に過ぎ、出航する。「シースピカ」は遠くに県境の多々羅大橋を望み、生口島に向かう。斜面にレモン畑が目立つ。
前方に耕三寺の「未来心の丘」、そして中国観音霊場めぐりで訪ねた向上寺の国宝三重塔が見えて、瀬戸田港に到着。ここで半数の客が下船した。「シースピカ」では、東向きコース、西向きコースとも、瀬戸田~三原・尾道の定期船との乗り継ぎプランがあり、瀬戸田、生口島をゆっくり回ることができる。
瀬戸田~三原は定期船で通ったこともあるが、こうしたクルーズ船から眺めるのもまたいいものである。広島から三原まで船で行く・・・改めて広島県の広さ、風景の多様さを感じることができたし、半日の時間を贅沢に過ごすことができた。
クルーズ船と聞くと、豪華客船でコロナ患者が発生して騒ぎに・・ということもありいいイメージを持たない方もいるかもしれないが、瀬戸内を走るこうした船はデッキで過ごすのが快適である。開放感あるし、密も避けられるし。この航行中、ほとんどの時間をデッキで過ごしていた(客室は客室でシートもゆったりしているし、景色もよく見える。また空調も効いており、居心地はいい)。
・・・潮風に吹かれればということで、途中こんなこともしていた。事実、船内では広島の地酒も売られていた。ただし、この記事を掲載する5月下旬にあっては、緊急事態宣言のために船内ではアルコールの販売は取り止め中。船について「飲み鉄」に相当する言葉が思いつかないのだが、潮風に吹かれながら一献という方は、事前のご用意を。
三原港に到着。桟橋では折り返しの西向きコースを待つ人の姿も見える。その中、歩いて三原駅に向かう。これからようやく観光列車「etSETOra」に乗るのだが、その始発である尾道まで移動する・・・。