まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第10回中国観音霊場めぐり~今回は観光でも王道コース

2020年02月10日 | 中国観音霊場

早いもので10回目となる中国観音霊場めぐりの訪問。今回で中国5県のうち2つ目の県である広島県の札所はコンプリートとなる(そこまでに10回を費やしているというのもどうかと思うが)。

今回の行き先は第13番の三瀧寺、第14番の大聖院。三瀧寺は広島市街地と太田川放水路を隔てた山の手にあって地元では「三瀧観音」として知られているし、大聖院は宮島・厳島神社からもう少し奥に入ったところにある。つまり今回は広島市内と宮島という、観光としても王道のエリアを回ることになる。

また広島は私の最初の勤務地として20歳代のほとんどを過ごしたところである。三瀧寺や大聖院もその時に訪問したことがある・・と言うことができればよいのだが、実は両方とも恥ずかしながら初めて行くところである。広島勤務時は札所めぐりそのものに興味があったわけでもなく、また山登りが趣味というわけでもなく、どこかに出かけるのもJR線の乗りつぶしがメインで、ドライブで国道をひた走ることがあったものの、鉄道、クルマともに観光はつけ足しでしかなかった。正直なところ、三瀧は駅名や地名で知る程度、宮島も厳島神社には行ってもその奥にある寺は知らない・・というもの。だから今回は曽遊の地といいつつも初めて訪ねるのと同じ感覚だ。こういうところに出かけることができるのも、札所めぐりの楽しみなのだが。

当初は2月後半、天皇誕生日の連休を利用して行くことを考えていた。宮島に行くのなら厳島神社と大聖院だけでなく、弥山の頂上にも行こうかと思った。そもそも宮島は島全体が信仰の対象のようなもので、弘法大師空海が開いたお堂もある。ロープウェーを使って山頂を目指すのも、札所めぐりのオプションとしてもいいだろう。

そこで宮島ロープウェーの運賃や時間などをホームページで確認したのだが、何と、2月10日~2月28日まで定期点検整備のために運休するとある。シーズンオフに合わせてのことかと思うが、行こうとしていた期間にモロかぶりである。時期を変えることにしよう。

ただ運休期間終了後となると私の予定が厳しいので、前倒しで運休直前の2月8日~9日に出かけることにした。

さて、宿泊は宮島、広島いろいろ考えたが広島駅近くのホテルを押さえた。それにしても、予約サイトを見ると両地区の掲載されている宿にはやたらホステル型やカプセルホテルが目立つ。宿泊費を安く押さえようという向きが多い外国人相手なのかな。

後は往復の交通機関。三瀧寺、大聖院と1日に一つずつ回るとなると、往路、広島には昼過ぎに着いても三瀧寺を訪ねるだけの時間は十分にある。ならば新幹線で急ぐこともなく、とは言いながらも鈍行で広島まではしんどいので、別の方法として高速バスを使うことにする。大阪から広島へは西日本JRバスの「グラン昼特急」がある。大阪駅を朝の7時30分に出発して、広島駅には12時32分着。5時間の長丁場だが、快適なシートのバスなら、まあ大丈夫だろう。帰りは、宮島や広島の滞在時間をしっかり取ろうと、夕方の新幹線で戻ることにする。

さて2月8日、ニュースでは新型コロナウイルスが依然として猛威をふるい、クルーズ中の豪華客船でも感染者が見つかったため横浜港で留め置きされているというのが大きく取り上げられている。その感染者も連日新たに報告されているという。個人的には、あそこで留め置きしていたから船内で新たに感染した人が増えたのではないかと思うが、どうだろうか。

ああした密閉空間での出来事だが、これから乗る高速バスもある意味密閉空間で、大丈夫とは思うがどうだろうか。まあ、あまり心配しすぎても仕方ないので、ともかく朝の大阪駅に向かう・・・。

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第44番「神護寺」~西国四十九薬師めぐり・14(西明寺、高山寺の冬景色)

2020年02月08日 | 西国四十九薬師

清滝川に沿って歩く。この辺りも紅葉のスポットだし、夏は川床もやっている様子だが、冬の時季というのはひっそりとしている。料理店も営業はしているものの客の姿はほとんど見かけない。

赤い欄干の橋があり、三尾の一つである槇尾山西明寺に続く。「河原でバーベキューはしないでください」の看板がいくつもある。夏場などそれだけバーベキューがしたくなるスポットとも取れる。

石段を上がると西明寺の山門に着く。平安時代、弘法大師空海の弟子の一人である智泉により、神護寺の別院として開かれたのが始まりとされる。後に和泉の槇尾山寺(つまり、西国4番の施福寺)の我宝自性にて再興された。このつながりで槇尾山の名前がついたようだ。

正面の本堂は江戸時代に桂昌院(徳川綱吉の母)の寄進により再建された。桂昌院は西国20番の善峯寺の再興にも登場するが、信仰心の篤い人だったとされる。こうしたところにも寄進がされていたとは、やはり財力も大きなものがあったのだろう。

正面横の扉が開いていて拝観受付とあったが、有料ということもありどうしようかと迷った末、正面で手だけ合わせて入らなかった。もう札所めぐりが神護寺で済んだというのがあったかもしれない。

西明寺で目に留まったのは苔。特に石灯籠に絡んだ様子がよい。新緑の時季に訪ねれば、より映えた風情が感じられるのではないだろうか。

西明寺を後にして、三尾の最後、栂ノ尾の高山寺に向かう。京都トレイルのコースにもなっていて、トレッキング姿のグループとも行き交う。西明寺から10分ほどで、バス停や駐車場のある一角に着く。

駐車場から裏参道を行くのだが、ここで「工事中」の看板に出会う。

2018年9月の台風21号、関西に大きな被害を及ぼした台風である。知らなかったのだが、ここ高山寺では、国宝の石水院や仏像・寺宝は無事だったものの、200本以上の倒木やお堂の損壊、地盤の崩落などの大きな被害があった。クラウドファンディングも使いながら復興工事が進められていて、境内の大半が立入禁止になっている。看板では今年の3月末までが工事期間と書かれている。

拝観できるのは石水院だけだが、それでも拝観料が変わらぬ800円というのを受付で聞いて引き返す人もいたが、私はそのまま入る。先ほどの西明寺との差は何やねんというところだが、国宝の建物なら見ておこうというものである。

高山寺も平安時代は神護寺の別院だった。神護寺を再興した文覚上人の弟子で、鎌倉時代の華厳宗を代表する明恵上人が後鳥羽上皇から寺の一帯を賜ったのが現在まで続く高山寺の始まりとされている。石水院は高山寺で鎌倉時代から唯一現存する建物で、本来は経蔵だったのを住居として改造し、明恵上人も住んでいたという。明治時代に現在地に移されたそうだが、建物を本坊に囲い込むことで保存するのだろう。

石水院には私が渡ると軋みそうな廊下を伝っていく。庭を見ながら縁側を通ると、正面に当たるところに「日出先照高山之寺」と書かれた、後鳥羽上皇の額がある。華厳経の一節から取ったもので、「朝日が昇って、真っ先に照らすのは高い山の頂上だ」という意味だとか。そうした寺になるようにとの願いが込められていて、高山寺の名前はここから来た。シンプルといえばシンプルだ。

また高山寺で有名なのは「鳥獣戯画」。ウサギ、カエル、サルなどを擬人化して面白おかしく描いたもので、日本の漫画の元祖ともいわれている。用紙の切れ目に「高山寺」の印が押されている。原画は京都と東京の国立博物館にて保存されていて、今年の春も東京で展覧会が行われる。

明恵上人は無私無欲で、厳しく戒律を守った人だという。一方で、自分が打ち立てた華厳密教は、俗人や在家の人たちにも理解しやすい教えや修行にしようとの思いが込められているという。高山寺に入ったのも、当時の栂ノ尾はおそらく今よりも俗世とは離れていたところで、自らの修行に合っていたのだろう。

今回は仕切りの先には入れず繰り返しになるが、1日も早い復興を願う。

栂ノ尾で折り返しのJRバスにて、高雄、槇尾、栂尾の「三尾」を後にする。このまま京都駅まで戻ってもよかったが、ルートを変えようと四条大宮で降りて、阪急で大阪に戻った・・・。

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第44番「神護寺」~西国四十九薬師めぐり・14(かわらけ投げよりサイコロで運だめし)

2020年02月07日 | 西国四十九薬師

山城高雄のバス停に到着する。神護寺へはバス停から徒歩15~20分かかるとある。それは別にいいのだが、バス停からいったん清滝川まで下り、また同じくらいかそれ以上の高さを上る。位置エネルギーを無駄に消費するようだ。

桜や紅葉の時季は賑わう一帯である。階段を下りて清滝川にかかる赤い欄干の橋に出る。川の流れは冬のためか水量も少なくおとなしい。「女人禁制」と書かれた石碑が立つ。今はもちろんそのようなことはないが、かつてそうした歴史があったのかな。

いかにも老舗というたたずまいの高雄観光ホテルの横から参道の石段が続く。難所といえば難所だ。

ここで神護寺の歴史について。神護寺を開いたのは奈良時代の政治家・和気清麻呂である。清麻呂が歴史上で名を残すのは、称徳天皇の信任が厚かった僧・道鏡を次の天皇にせよとのお告げがあり、それが本当かどうか確かめるために宇佐八幡に派遣された時。宇佐から戻った清麻呂が「道鏡を天皇にしてはならない」と返答したために天皇や道鏡の怒りを買い、流罪となった。

後に許されて復権すると寺の建立を願い出て、神願寺を建立した(場所は河内とも山城とも言われている)。その後、以前からこの地にあり和気氏とも関係がある高雄山寺が合併する形で今の神護寺となった。なお高雄山寺には伝経大師最澄が招かれて法華経の講義を行ったり、弘法大師空海も一時期住んで密教の拠点とした。

時代が下ると勢力も衰えたが、これを再興したのが武士出身の文覚。当時伊豆に流されていた源頼朝に挙兵を促した人である。後に頼朝や後白河法皇の援助を受けて寺を再興することができた。ただ、その後は応仁の乱の兵火などの被害があり、現在の建物は江戸時代以降のものがならぶ。

さて石段を上りきって山門に着く。現在修復中で覆いがかけられている。

ここで拝観料を納めて境内に入る。まず目につく赤い建物は和気清麻呂の墓所(廟)である。

不動明王を祀る明王堂がある。ちょうど白衣姿の人が聖不動経からの南無三十六童子を唱えているところ。神護寺は近畿三十六不動めぐりの札所ではないが、有名な成田山新勝寺の不動明王というのは、実は元々神護寺に祀られていたものだという。弘法大師空海が嵯峨天皇のために彫った不動明王が、後に平将門の乱を鎮めるために東国に持ち出され、乱が収まった後も関東にとどまったのだという。成田山新勝寺、そして寝屋川にあるその支院が弘法大師空海により開かれたとあるのはこのためだそうだ。

向かい合って並ぶ五大堂、毘沙門堂を抜け、最後の石段を上がる。その先が本堂にあたる金堂だ。金堂は意外にも昭和の再建とあるが、そうした「新しさ」は感じない。

内陣には本尊の薬師如来が祀られている。お前立ちではなく本物だそうで、国宝である。厨子の脇には日光・月光菩薩、十二神将といった「チーム薬師」も勢揃い。

薬師如来を前にお勤めとして、複製が展示されている源頼朝の「似絵」を見る。かつては教科書でも源頼朝像として紹介されていて、同じシリーズの平重盛なども含めて、私もその認識だった。しかし近年ではこれは源頼朝ではなく、足利直義の絵ではないかともされている。平重盛像も実は足利尊氏ではないかという説があるそうだ。ネットでのまとめを見る限りでは現在も結構な論戦となっているようだ。まあ、邪馬台国がどこにあったのかということに比べれば、この似絵が新たな説の通りだったとしても、歴史上への影響は限定的だろう。肖像画については近年さまざまな説が出て教科書も書き換えられているそうで、ならば「似絵」ではなく「偽絵」かな・・。

バインダー式の朱印をいただく。

金堂の裏の多宝塔や、弘法大師空海が掘ったという閼伽水を見て、境内の一番奥に行く。

地蔵堂のある一角は、かわらけ投げ発祥の地とされている。厄除けのためにいつの頃からか行われているものだが、神護寺のかわらけ投げは特定の的があるわけではない。これまで経験したかわらけ投げでは、鳥居や輪っかの間を通したらご利益があるとか言われていたが。

金堂で3枚200円というのをいただき、渓谷に向かって1枚ずつ投げる。しかしいずれも渓谷に届くわけもなく、単純に崖の下に落ちただけである。厄除けとしてそれでいいのかという感じだが、だから的をつけた寺社が出てきたのかなとも思う。

かわらけ投げもいいが、私の場合はサイコロを投げてその出目で次の行き先を決めなければならない(もっとも、サイコロを投げるのではなくサイコロのアプリを操作するのだが)。

くじ引きアプリの出走表は、

1.湖南(善水寺)

2.河南町(弘川寺)

3.堺(家原寺)

4.たつの(斑鳩寺)

5.福崎(神積寺)

6.福知山(天寧寺、長安寺)

湖南の善水寺はこれで6回目の登場。くじ引きサイコロの2回に1回は選択肢で出てくるが、そんな中、出たのは「3」。堺の南のほうだ。初めての出目で即1回目で当たった。

とりあえず神護寺でのお告げは、比較的近場に落ち着いた。また空いたタイミングで気軽に行きますよ。

これで神護寺を後にするが、せっかくなので「三尾」と呼ばれる残りの2ヶ所である槇尾の西明寺、栂尾の高山寺にも行くことにする。いずれも徒歩でセットで回ることができる・・・。

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第44番「神護寺」~西国四十九薬師めぐり・14(京都市長選挙と新型肺炎ウイルスのはざまで)

2020年02月06日 | 西国四十九薬師

2月2日、任期満了による京都市長選挙が行われた。

現職で4期目を目指す門川市長(自民、公明、立民、国民など相乗り)に対して、共産党とれいわ新選組が推す福山氏、地域政党「京都党」の村山氏が挑む構図。インバウンドで賑わう一方で「観光公害」による市民生活への影響、門川氏の多選批判、共産党対非共産(国政で対立の与野党相乗り)、地域政党・・といった争点はあったが、結果は門川市長の4選。共産党が強い土地ということで福山氏も票を伸ばし、村山氏との票を合わせれば門川市長の得票数を上回ったようだが、そこはタラレバ。まあ、投票率も40%程度だったので、結果としてそれぞれの組織票がそのまま現れたのだろう。

まあ、門川市長もインバウンドと市民生活の両立に取り組むとしているから、これまでの実績からどれだけ上積みできるか見ていきたいと思う。それよりも投票率・・。

さて、京都市長選挙のことから始まったが、その当日に西国四十九薬師めぐりとして神護寺を訪ねていたのでこうした書き出しになった。別に市長選挙があるから京都に行ったわけではなく、この後の個人的な日程の都合と、この時季なら観光客も少ないだろうとして「今のうちに行っとこか」という程度のことである。

目指すのは神護寺のある高雄だが、この一帯は高雄、槇尾、栂尾という「京都の三尾」と呼ばれるスポットである(高雄だけ「雄」だが)。紅葉や新緑のスポットとして人気で、もちろん、インバウンドの人たちでごった返しているのだろう。

インバウンドといえば、その中心となっている中国で発生した新型肺炎ウイルスが問題になっている。日本でも発症者が出たり、マスクが店頭から消える騒ぎになっている。ちょうど春節の時季だが、中国から団体での海外旅行が禁止されたり、日本も入国制限を敷いたりしている。

たまたまこうしたことが重なった2月2日に出かける。まず大阪から新快速に乗ったが、いつもなら立ち客も多く出る時間帯にも関わらず余裕で着席できた。インバウンドの人が少なくなっているだけでなく、関西の人たちも外出を控えようというのかな。

京都に到着。駅構内や駅前のバスターミナルには旅行姿の人も目立つが、思っていたよりも混雑した、ざわついた感じがしない。それほど頻繁に来ているわけではないので、普通の日曜日と比べてどうなのかはっきりとはわからないが、皆さんの中でこの辺りの所感、実感はいかがでしょうか?

京都駅に来たの神護寺のある高雄方面に向かうJRバスの始発だからである。50分ほどかかるので座っていきたい。山城高雄、栂ノ尾に向かう便は30分ごとに出ていて、次に発車するのは11時発の周山行き。乗車列はできたが、全員着席してもまだ空席があるくらいだった。

JRバスは並走する市バスと比べて停留所が絞られている。堀川通を北上して、四条大宮から後院通、千本通から二条駅前を過ぎる。四条大宮で数人乗って来たがそれでも席には余裕がある。もっとも、行き交う市バスは例によって立ち客も多かったので、これはJRバスが違った役割を持つ系統と見たほうがよいのかな。交通系ICカードは使えるが、市バスのカードが使えないということもある。

円町駅前からは西大路通を北上する。前方には大文字山を見る。

ちょうど入試も行われている立命館大学前を通り、龍安寺前、御室仁和寺で下車がある。仁和寺も近畿不動めぐりなどで訪ねたが、今回はバスの窓から山門を見るだけだ。

福王子で市街地の均一運賃区間が終わり、国道162号線に入ると周りも山がちになる。上り坂も増える。洛外らしくなってきた。

急カーブを曲がったところが山城高雄バス停。神護寺の最寄りだが、下車したのは私だけだった。歴史的にも有名で紅葉の名所でもあるが、シーズンオフ、特に冬は案外こんなものだろうか。ここから、清滝川の対岸にある神護寺を目指す・・・。

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第28番「成相寺」~西国三十三所めぐり3巡目・12(やはり天橋立を見たい)

2020年02月04日 | 西国三十三所

松尾寺~多祢寺~成相寺へのレンタカードライブ。午後からは雨の心配もほとんどない様子で、宮津を過ぎて天橋立をぐるり回るように走る。クルマで行く場合、京都府立丹後郷土資料館の前から上り坂を行くことになる。

前回の2巡目で成相寺を訪ねたのは2年前の2月の初めだからちょうど同じ時季である。その冬は今季と真逆で日本海側の各地で大雪に見舞われ、国道でクルマが立ち往生する被害もあった。私もその冬に仕事で丹後地方を訪ねたのだが、大雪のために京都丹後鉄道の遅延、運休があり、危うく大阪に帰れなくなるということがあった。その数日後に成相寺に来て、天気は快晴だったが、傘松公園から成相寺へのシャトルバスが積雪のために運休で、バス道を歩いて上がった。それでも寺は「平常運転」だったのが印象的だった。

別に混雑が嫌というわけではないが、成相寺に限っては3巡とも平日に代休や有給休暇を利用して来ていることにも気づく。

さて上り坂は途中から極端に急になり、最後はギアも1速にしてしまう。それでも観光バスが上がることも想定した道幅がある。参加したことがないので何とも言えないが、西国三十三所のバスツアーはこの道を上がるのだろうか、それとも傘松公園のケーブルカー+シャトルバスだろうか。

坂を上りきったところにゲートがあり、入山料500円を納める。これは以前シャトルバスで行ってもバス道を歩いても同じだったから、駐車料金が別にあるわけではない。ただ、こうした山あいで寺の建物だけでなく車道やバス道も維持しなければならないとなれば、入山料はやむなしだろう。

石段を上がり、一言地蔵にも手を合わせた後で本堂に向かう。「橋立真言宗」という単立の宗派の寺院だが、改めてその名に触れて、一般の?真言宗とは何が違うのかなと思う。ウィキペディアによれば単立とは「包括宗教団体に属さない独立した宗教団体」とあるが、「必ずしも思想・信条的な面で独立性があるとは限らない」ともある。真言宗の中での現実のさまざまな人間関係もあったのだろう。また、西国三十三所の札所の一つとして開放的に迎え入れる佇まいを見ると、真言宗の何派とかいうのはほとんど関係ない。

外陣でお勤めをして、自由に上がれる内陣にも入る。本尊の聖観音像は33年に一度しか公開されない秘仏であるが、それが祀られている厨子の近くまで行き、お前立ちの観音像はすぐ近くに拝観することができる。他にも天燈鬼、龍燈鬼の赤鬼・青鬼や、成相寺の絵図、地蔵菩薩、十一面千手観音像も近くで見ることができる。さすがに他の人の邪魔になるのでお勤めは外陣で行うようにとあるが、しっかりと拝ませていただく。

外陣といえば左甚五郎の「真向の龍」も有名である。正面を向いた造りだが、右から見ても左から見ても自分のほうを向いているように見える龍の木像だ。こういうのは物理的に計算されたものか、目の錯覚を利用したものかはわからないが、左甚五郎の見事な腕前を今に伝える作品の一つである。雨乞いの龍の彫り物を依頼されたが、左甚五郎はそれまでに本物の龍を見たことがなかったという(まあ、現代の感覚なら、絵に描かれたものならともかく、甚五郎に限らず龍の実物を見たという人はいないのではないかと思うが)。そこで成相寺の裏手にある滝壺で龍神に祈り続けたところ、何日かして池の淵から龍が現れた。甚五郎はその姿を目に焼き付け、成相寺にて彫り上げたのがこの真向の龍だという。

これで納経所に向かう。先ほどの松尾寺と同じように、西国曼荼羅の八角形の用紙を朱印+用紙代の600円でいただく。これで、3巡目でのミッションである西国曼荼羅の用紙コンプリートも二度手間にならずにすんだ。それにしても、持ち物確認をしたつもりだが、やはりどこか気持ちが緩んでいたな。

さて、クルマで成相寺に来たらこの先まで行ってみたい。天橋立のパノラマ展望所というのがある。成相寺の五重塔から少し歩いたところにも展望台があり、ここでも傘松公園より高い位置から天橋立を見下ろすことができるのだが、パノラマ展望所はより高い場所にある。駐車場からクルマで5分、徒歩だと40~50分かかるという。この変わりやすい天候の中で景色が見えるかは微妙だが、せっかくクルマで来たのを利用して上がってみる。

この道、単に展望所への山道というだけではない。成相寺は元々は現在地より山の上方に位置しており、山岳修験の場としての歴史があったそうだ。室町時代に山崩れがあって以降、現在の場所に移ったという。現在の本堂は18世紀後半の建立。

砂利道と急カーブに苦戦しながら、山頂といっていいのか、パノラマ展望所に着く。この時季は閉鎖されているが、夏場のシーズンには店がオープンしたり、パノラマ展望所へのシャトルバスも出るようである。

風が強くてそう長い時間立ってはいられないが、雲のような、もやのようなところにうっすらと天橋立の中洲が延びているのが見える。他にも栗田半島、日本海の外海も微かに見ることができる。この時季としては一応の「パノラマ」を楽しめたといっていいだろう。ただ、これは暖冬傾向の中、またたまたま天候がよかっただけのことで、厳しい天候だと修行の場として相当厳しかったのではないかと想像することもできる。

これで成相寺は終わりとする。気が付けば時刻も16時。この先どこかに立ち寄るどころか、一直線で福知山まで戻らなければならない。レンタカーの返却期限は18時だが、実は福知山からの帰りの特急が出るのは17時59分。まあ、それには間に合うだろうが・・・。

このエリアから福知山へは国道176号線で大江山の西を抜けるルートが最短である。道もしっかりしているので走行には問題ない。

途中、加悦SL広場の横を通る。ちらっと昔の車両の姿が見えたので外側だけでも眺めようかと思ったが、この日(火曜日)は閉館日とあり、駐車場にも入ることができなかった。残念だがそのまま通過する。かつて走っていた気動車だけでなく、国の文化財にも指定されている蒸気機関車なども展示されている場所だが、ちょっと気になるニュースを目にした。

施設の運営会社が、2020年3月末をもってSL広場を閉園する方向で検討している、という内容だ。当初は一部報道が先行していたようだが、運営に携わる保存会もそうした話が出ているのは事実としている。ただ閉園と正式に発表されたわけではなく、ひょっとしたら車両の引き取り手の目処をつけようとしているのかな。歴史的に価値のある車両とはいえ、老朽化が進み保存にもコストがかかるから、果たしてどうだろうか。京都や大宮、名古屋などの鉄道関連の博物館は賑わっているが、JRのような大きな会社だから運営が可能なのかもしれない。かつて利用客減少で廃線になったローカル鉄道となると・・。ともかく、動向を見守るしかない。
与謝峠を高架橋とトンネルで越えて福知山市に戻る。西国四十九薬師めぐりの福知山シリーズはこの近くだなと思いつつ、市街地に帰ってきた。レンタカーの返却と帰りの特急には十分間に合った。
17時59分発の「こうのとり24号」は福知山始発。平日のこの時間でさほど混雑していない。大阪までの1時間半は夕食を兼ねての「飲み鉄」といこう。外の景色は見えないが。
座席指定で選んだのは1人掛けのシート。本来は車椅子対応シートとのことだが、特段販売に条件があるわけでもないようで、知る人ぞ知る席ではないかなと思う。前は普通の2人掛けのため、座席後ろのテーブルも2つある。これを使えば広々とできる。この日は指定席も空席が多かったが、混雑期にはひんしゅくものだろうな・・。
大阪までの時間はあっという間。着いたのも19時半だったから、普段の平日の帰宅と比べてもそう遅いわけではなかった。
今回は西国観音と西国薬師の遠方を一緒に回ることができた。これからもこうした「合わせ技」を使いつつ、さまざまな札所を回りたいものである・・・。
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第30番「多祢寺」~西国四十九薬師めぐり・13(舞鶴への引揚、由良の山椒大夫)

2020年02月02日 | 西国四十九薬師

多祢寺の参拝を終えて、先ほど展望スペースから見た舞鶴湾まで下りる。改めて結構な高低差だったと思う。

クレインブリッジを渡り(よく考えればクレイン=鶴だった)、立ち寄りでやって来たのは舞鶴引揚記念館。西国四十九薬師めぐりで周辺の立ち寄りスポットに行くことがあるが、舞鶴に来たらここは外せないだろう。今回ちょうど通り道にあることから、ここは時間を作って見学しようと決めていた(バスで行くと不便なことには変わりないが)

第二次大戦、太平洋戦争の終結時、旧満州、朝鮮半島、南太平洋など多くの国や地域に残された日本人は約660万人いたという。終戦後にこれらの人々の引揚、復員が行われ、日本各地の港で迎え入れられたが、その中で舞鶴は主にシベリアからの引揚、復員の受入港となった。シベリアには約60万~80万人もの人たちが連行・抑留され、約6万人もの人たちが彼の地で命を落とした。無事に引き揚げた人たちというのも命からがらだったそうである。記念館はそうした歴史を後に伝える施設であり、私も以前見学に来たことがあるが、2015年に展示内容も大幅にリニューアルしたそうである。また抑留された人の遺品や、日本の家族との間でやり取りした手紙などがユネスコの「世界記憶遺産」にも登録された。

その中に「白樺日誌」というのがある。抑留当時の情景や心情を和歌や俳諧の五七調に乗せてつづったもの。紙ではなく白樺の皮を使い、空き缶の切先をペン、煤をインク代わりにしてつづったものである。短い言葉の中にさまざまな想いを込めるというのは、昔からの日本人のたしなみであったことで、細かな日記、記録とはまた違った当時の生きた史料と言える。

日本の家族との手紙についてもソ連の検閲が厳しかったようで、抑留の生活事情や冬の厳しい気候など具体的なことは書いてはいけないとか、ソ連の監視員もわかるようにカタカナだけで書くよう命じられたとか、さまざまな規制の中でやり取りされたものである。それでも「生きている」ということを伝える、伝えられるということがわかるだけでもお互いの気持ちの大きな支えになったことだろう。

抑留中のラーゲリ(収容所)も再現されている。この模型は以前にもあったように思う。ラーゲリのベッドの一角で配給のパンを、秤を使って均等に分け合っている様子が等身大の人形で展示されている。「均等に」と言えば聞こえはいいかもしれないが、極限の状況の中ではそうでもしなければ仲間内で暴動が起こる。

その先で、これは新たにできたものだろうか、ラーゲリを「体験」できるコーナーがある。ベッドも実物大に復元され、当時日本兵が持っていた小物にも触れることができる。外にはCGながら吹雪の景色もあり、なかなか本格的である。

その次は引揚に関する展示で、舞鶴湾や引揚船などの模型を使っての説明や、引揚、復員を歓迎する人々の様子が紹介されている。引揚列車の時刻表なんてのもあり、かつての舞鶴線、小浜線の様子もうかがえる。

ただ一方で、日本に帰ることができなかった人も多くいたのも事実で、「岸壁の母」(歌謡曲、映画)のモデルになった親子や、長年帰国運動に携わった人の活動についても触れられていた。

戦後のこうした歴史について紹介されることはなかなかなく、シベリア抑留や引揚と聞いてもピンと来ない方も多いと思う。原爆や空襲とはまた違った観点からの平和学習の場として記念館もさまざまな活動を行っているようだ。小学校、中学校からの見学もあるし、今は大連、ナホトカといった日本海の対岸の都市とも友好都市、姉妹都市の関係がある。こうした地から平和について思いを馳せるのもためになることだと思う。

企画展示室では4月12日までの期間で「新収蔵品展~つなぐ記憶~」が行われている。シベリア抑留や引揚を経験した人や関係者から新たに寄贈された品々の展示である。抑留中に特別な許可を得て撮られた写真や、家族との手紙、手作りしたスプーンやライターなどである。

2020年は戦後75年。日本ではああいう形での戦争は起こっていないが、一方でさまざまな体験の記憶が薄れる、風化するという懸念もある。これは阪神・淡路大震災や東日本大震災のような大災害も似たようなものである。若い世代の「語り部」を育成する取り組みも行われているが、こうした品々というのも、記憶を後世につなぐには大きな役割を果たすことだろう。本人や関係者、遺族の方には複雑な思いがあるとは思うが、そうした品々が語ってくれることもある。

売店にて、舞鶴定番土産の海軍カレーと、ラベルが海上自衛隊の護衛艦という地酒を買い求めて記念館を後にする。時刻も午後になり、そろそろ成相寺に向かわなければならない。

昼食を軽く済ませた後、舞鶴市街を抜けて宮津方面に向かう。由良川を渡り、丹後由良にさしかかる。この辺りは森鴎外の『山椒大夫』の元である安寿と厨子王の伝説が残る地である。クルマなので気づいた時には通過してしまったが、山椒大夫の館跡や、厨子王を逃がしたのと引き換えに亡くなった安寿姫塚も国道沿いにある。

このまま成相寺まで画像がないのも淋しいので、由良の海岸風景もカメラに収める。夏は海水浴場として賑わう砂浜だが、この時季は人の姿は見えない。季節風に乗って来るのかさまざまなゴミも打ち上げられている。冬の海岸だと大陸の文字が入ったゴミが漂着することがあり、それを探してみるのも面白いのだがこの日はそうもしていられず、そのまま先に進む。

京都丹後鉄道の線路も並走するが、この辺りだと国道のほうが近い。駐車スペースがある展望スポットもある。

午後になって雨も収まったようで、ようやく成相寺も近い。それでも舞鶴から思ったよりも時間を要して、そろそろ15時になる・・・。

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第30番「多祢寺」~西国四十九薬師めぐり・13(舞鶴湾を望む古刹)

2020年02月01日 | 西国四十九薬師

松尾寺から多祢寺に向かう。時折雨も強くなる。一瞬、この先向かうのをためらうくらいだが、これも冬の時季ならではということでクルマを進ませる。

途中で日本板硝子の大規模な工場の横を通る。私の勤務先企業の舞鶴の拠点では重要な顧客で、車両が頻繁に行き交う。ハンドルを握る手も慎重になる。万が一、そうした車両と事故をしてしまったら正直しゃれにならない。

舞鶴引揚記念館の横を通る。今回舞鶴の赤レンガ倉庫は素通りしたが、多祢寺の近くまで来たこともあるのでここは帰りに立ち寄ろうと思う。

多祢寺の看板も出てきた。道順に従えばいいのだが、その脇に小さく迂回路の看板もある。2018年夏の豪雨の時に土砂崩れが起きたそうで、現在も通行止めのようだ。ここは迂回路の案内に従って走る。もう一度舞鶴湾に出てから、細道を上って行く。先ほどの松尾寺よりも厳しい道である。路線バスで行けばバス停から通行止めの道を歩くことになり、歩行者は通れるのかもしれないが、いずれにしてもバス、徒歩だとハードな道のりである。今回はレンタカーで正解だったと思う。

カーナビを見ても道がクネクネしているのがはっきりしていて、ハンドルを右に左に操りながらようやく多祢寺の看板が出た。周囲に何かあるわけでなく、寺だけが建っている。観光とは全く無縁のようだ。

バスケットボールのゴールがある駐車場に停め、まずは広場として整備されている展望スポットに向かう。標高は約300メートル、ちょうど舞鶴湾を北から見下ろす位置にあり、何とかその形を望むことができる。ちょうど真ん中が舞鶴湾を横断するクレインブリッジで、その付け根あたりに舞鶴引揚記念館がある。戦後のシベリア抑留から復員した人たちが降り立ったのがこの一帯である。

多祢寺が開かれたのは聖徳太子の弟・麻呂子親王によるとされ、親王の護持仏だった薬師如来を本尊としたのが始まりという。平安時代には多くの塔頭寺院があったそうだがいつしか衰え、室町時代以降は一色氏や細川氏、牧野氏など丹後の有力者の保護を受け、昔からの仏像も保存されて今に至る。

先ほどの松尾寺と同様、他に参詣の人もいないようである。まずは山門に向かう。山門は昔からの建物のようで、その中に鐘もある。100円で自由に撞けるとあり、昼間の山中に鐘の音を鳴らす。余韻が結構長い時間続く。この下に石段が続いていて、元々は徒歩の参道がここまで伸びていたのだろうが今は仕切りがあって入れないようにしている。やはり徒歩でここまで来ようという人もいなくなり、道が荒れてしまったのだろう。また山門の仁王像は写真パネルである。実物は宝物殿に安置されているとあり、これも松尾寺同様、丹後の厳しい風雪にさらされて傷むのを少しでも抑えようということだろう。

境内にはちょっとした庭園も広がる。これを進むと本堂である。

本堂は江戸時代後期の再建ということで、秘仏であるが鎌倉時代制作の薬師如来が本尊で祀られている。ここでお勤めとする。ちょうど本堂の中から寺の人が出てきて「ご苦労様です」と声をかけられる。

お参りを終えて納経所へ。先ほどの人が「クルマで来られたのですか?」と訊く。平日の昼間に寺に来る人も珍しいようで、また今回レンタカー利用とはいえ外に出る時はリュックなど普段の外歩きと変わらない格好をしているので、ひょっとしたらここまで歩いて来たのかなと推測されたのか。

宝物殿も有料で拝観できるようだが、わざわざ一人のために開けていただくのも申し訳ないし、「見仏」は私のメインというわけでもなく、ともかく今回は札所の中でも難所の一つを訪ねることができたことでよしとする。

本堂の裏手にはお砂踏み霊場があるが、これが西国四十九薬師めぐりという珍しいものである。

また、熊野神社に多祢神社という小さなお堂もある。この辺りは神仏習合の名残だろうか。

さてここで次のサイコロである。せっかくなので舞鶴湾を見下ろしながら・・・

1.伊丹(昆陽寺)

2.河南町(弘川寺)

3.高雄(神護寺)

4.池田(久安寺)

5.丹波(達身寺)

6.亀岡(神蔵寺)

丹波の達身寺というのもちょくちょく選択肢で出てくる札所である(サイコロの目を当てるのもスマホのくじ引きアプリで選んでいるが、どうもこのアプリも偏りがあるのではという気がする。ここまで3回、4回と選択肢で出るものがあるかと思えば、10回を過ぎてもまだ一度も出てこない選択肢もある)。今回、選択肢の一つに「福知山(長安寺、天寧寺)」というのがあれば、予定を無理くり変更してそちらに行こうかとも思っていたが、公共交通機関での難所の一つである達身寺がもしサイコロで出たら、成相寺を中止して行ってしまおうかとも思う。いずれにしても自分のルールなので・・。

その中で出たのは「3」、神護寺である。こちらはこちらで京都の風光明媚なところなので次が楽しみである。まあ、訪ねるなら観光客が少ない冬の時季がよさそうで、今からだとちょうどよい。

多祢寺を後にするが、一応先ほど来た道とは反対側、通行止とされた側に向かう。早速、下り坂になるところに大きく通行止の看板が出ている。2018年夏の豪雨(西日本豪雨)といえば中国地方を中心に大きな被害が発生したが、舞鶴の山の中でもいまだに影響が残っているようである。

再び細道を通り、今度はクレインブリッジを渡る。いちど札所めぐりから離れて、舞鶴の戦後の歴史の一端に触れることに・・・。

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