ころさんは、わたしが毎日一回は必ず寄り道しに行きたくなるブログ(http://koyomi07.at.webry.info/)の管理人さんです。
彼はここのブログの記事『この子をのこして』をきっかけに永井隆さんの著書を三冊購入し、その中の『長崎の鐘』から抜粋した文章を紹介してくれました。
たった今、その記事を読んで帰ってきました。
明日、『ミサコのピアノ』に出会う前に、これを読むことができて本当に良かったと思います。
戦争、テロ、紛争……その行為がいかに無意味で愚かしく、破壊的なことか、再度しっかり胸に刻み込むことができました。
みなさんにもぜひ読んでもらいたいと思い、ころさんには無断で少し転載させてもらいます。
永井隆著『長崎の鐘』より。
私は一切の力を失った者です。
完全に力を出し尽くして、しかも負けたのです。
これがどうして残念といわれましょう。
なんの遺憾があります?
私たちの現在の心境は、むしろ雨後の月みたいです。
負けて悔いなき戦でした。
もし私に家も財産も妻もそのまま残っていて降伏になったのだったら、私は今どんなにか苦しいでしょう。
これこそ国家に対し、戦災同胞に対して大きな負担ではないでしょうか?
国家が滅びると同時に私の家もなくなり、国が破産すると同時に私も無一物になったと思えば、悲しみの中にむしろすがすがしい気が湧いてきます。
これだけの人命、これだけの物資、これだけの時間をかけ、これだけの人類を総動員して平和的発明に向かわせたら、もっともっと大きな効果があります。
とにかく戦争は利益をもたらす事業ではありません。
義経の戦には絵があります。
乃木大将には詩があります。
しかし原子爆弾のどこに美がありましたろう。
あの日あの時、この地にひろげられた地獄の姿というものを、君たちが一目でも見なさったなら、きっと戦争をもう一度やるなどという馬鹿馬鹿しい気を起こさぬにちがいない。
『復讐は神の領分であって、人間には無い』と断言された博士。
博士の、残していかなければならなかった幼子達への祈り、平和への祈り、二度と戦争を起こさないことへの祈り、そして自分自身への祈りの深さを計り知ることはできないけれど、
そのほんの一部でも、わたしはピアノを弾くことで、心の手をしっかりと合わせ、祈りたいと思います。
彼はここのブログの記事『この子をのこして』をきっかけに永井隆さんの著書を三冊購入し、その中の『長崎の鐘』から抜粋した文章を紹介してくれました。
たった今、その記事を読んで帰ってきました。
明日、『ミサコのピアノ』に出会う前に、これを読むことができて本当に良かったと思います。
戦争、テロ、紛争……その行為がいかに無意味で愚かしく、破壊的なことか、再度しっかり胸に刻み込むことができました。
みなさんにもぜひ読んでもらいたいと思い、ころさんには無断で少し転載させてもらいます。
永井隆著『長崎の鐘』より。
私は一切の力を失った者です。
完全に力を出し尽くして、しかも負けたのです。
これがどうして残念といわれましょう。
なんの遺憾があります?
私たちの現在の心境は、むしろ雨後の月みたいです。
負けて悔いなき戦でした。
もし私に家も財産も妻もそのまま残っていて降伏になったのだったら、私は今どんなにか苦しいでしょう。
これこそ国家に対し、戦災同胞に対して大きな負担ではないでしょうか?
国家が滅びると同時に私の家もなくなり、国が破産すると同時に私も無一物になったと思えば、悲しみの中にむしろすがすがしい気が湧いてきます。
これだけの人命、これだけの物資、これだけの時間をかけ、これだけの人類を総動員して平和的発明に向かわせたら、もっともっと大きな効果があります。
とにかく戦争は利益をもたらす事業ではありません。
義経の戦には絵があります。
乃木大将には詩があります。
しかし原子爆弾のどこに美がありましたろう。
あの日あの時、この地にひろげられた地獄の姿というものを、君たちが一目でも見なさったなら、きっと戦争をもう一度やるなどという馬鹿馬鹿しい気を起こさぬにちがいない。
『復讐は神の領分であって、人間には無い』と断言された博士。
博士の、残していかなければならなかった幼子達への祈り、平和への祈り、二度と戦争を起こさないことへの祈り、そして自分自身への祈りの深さを計り知ることはできないけれど、
そのほんの一部でも、わたしはピアノを弾くことで、心の手をしっかりと合わせ、祈りたいと思います。