今夜こそは朝まできっちり眠るぞ!と、漢方の睡眠導入剤を規定の半分だけ飲んだけれど、やっぱり眠れなくて、
写真で見た『ミサコのピアノ』が脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消え、
いろいろと寝相を変えてみるのだけれど、どんどん目が冴えてくる。
観念して、台所に行き、お湯をわかし、梅酒を少し足して飲んだ。
もうこれ以上、いくら漢方といえど、睡眠を誘導する薬を飲みたくはない。
途切れ途切れに眠り、朝を迎えた。体はかなり辛い感じ。でも、夜の7時までには時間はたっぷりある。なんとかなる。きっと。
朝食をゆっくりとり、練習を少しだけして、さて、リラックスにはやっぱりお風呂だということで、朝風呂に入ることにした。
二階のバスルームに行き、さあ入ろう!と勢い良く服を脱いだが、少し前に風呂に入った旦那が、お湯を抜いただけで掃除をしていないではないか!
しょうがないので、せっせとタワシで擦ろうと、洗剤を探したが無い。家猫のトイレの横に同じ洗剤があったのを思い出しそこに行くと、しまった!ここ数日、コンサートの準備で頭がいっぱいで、彼女のトイレ砂の掃除をすっかり怠っていて、非常に悲惨な状態になっていた!
そこで、家猫のウンチやオシッコ玉を入れるビニール袋を取りに、最低限の布をまとっただけの姿のまま一階に降り、せっせと掃除。そしてお風呂の浴槽もゴシゴシ……こんな日に、わたしはいったいなにやってんだかなあ……。
久々の湯船はやっぱり気持ちがいい。ずいぶんと落ち着いた気がする。産毛(ところどころヒゲ)も剃った。
さて、今日はなにを着ていくべ、と寝室のクローゼットを物色する。といっても第一数がしれているし、それも何回も着たものばかり。
あ、そうだ!一枚だけ、すごいのがあった!
日本に行った時、京都の伊勢丹で、それこそ清水の舞台の三倍ほど高い板間からモモンガ飛行をする勢いで買ったイッセイ・ミヤケのプリーツ・プリーズ。
もちろんバーゲン品ではあったけれど、それでもミヤケだもん、プリーツだもん、わたしにとっては目の玉が飛び出て落ちてしまうぐらい高い。
問題は……夏もので薄い。ここはもうすっかり秋だし、透けて見えるのもいやだ。けれども、ペチコートのようなものも無い。どうしよう……。
そこで、苦肉の策としてこれを引っ張り出してきた。窮屈過ぎてずっと着ていなかったアンダーウェア。
そして、ジャキジャキ、ジャキジャキ、腰から上を切った……我ながら賢い、と自画自讃しながら。
寒いので、黒のオーガンジーで作られたブラウス(お金持ちの家のガレージセールで3ドルで買った)を羽織ることにした。
無事に服が決まり、やっと落ち着いて髪の毛を乾かせる。化粧だってしないと。いつもみたいにだいたいじゃないやつ。
全部終わった頃に旦那の仕事が終わり、いざいざ出陣!
空は随分雲が広がってきた。真ん中少し左寄りにエンパイアステートビルディングが見える。
3時半に会場の教会に着いた。
今朝、ディレクターの竹本さんから電話をいただき、11時ぐらいからもう会場入りをしてもいいので、いつでもどうぞと言ってくださったのだけど、結局はこんな時間になってしまった。
教会の中に入ると、被爆ピアノのオーナーであり調律師でもある矢川さんが、丁寧に調律をされているところだった。
教会の名前は『ST.POUL AND ST.ANDREW』こじんまりとした古い教会。
やっと会えたね、ミサコのピアノさん。
リハーサルにやって来た原田真二さん。懐かしぃ~。彼ももう50代。時の流れを感じてしまう。
今夜の取材にはNHKや各新聞社の方々がおられた。特にNHKでは、日本人以外の演奏者にスポットを当てて取材をするということで、わたしの生徒のオーウェン君とエラちゃんにインタビューをしたいとの要請を受けた。
エラは、偶然1週間ほど前に、学校の授業の中で原爆をことを勉強した。
ふたりとも、わたしがこの演奏会の話を持ちかけた時からずっと、このような場で演奏できることをとても誇りに思うと言っていたので、彼らはきっと、それぞれにきちんと答えられる思いを持っていると思い、記者の方々にお任せをした。
演奏会は、それはいろいろな人達が、いろいろな音楽を、いろいろな形で演奏する、すてきな会になった。
本願寺の中垣住職が司会を務められ、会は和やかに、けれども、平和への強い願いをもって進行した。
ピアノはやはり、とても古い物だし、そしてその時代の音をできるだけ残しながら保存していこうという矢川さんの思いもあって、鍵盤のタッチが今のピアノのそれとはかなり違う、なかなかに馴染みにくいものではあった。
初めて鍵盤を押した時、あまりになんの抵抗もなくストンを底を打ってしまうことに驚き、少し狼狽えてしまった。
今夜弾こうと思っている曲は、静かな部分が多く、けれどもただ静かなのではなく、その静けさの中に、深い哀しみやいたわり、痛みや慰め、などなど、たくさんの感情が入り交じっていて、それを一音一音、色を変えて表現できるように苦労したのだけれど、
そういう細かい変化づけを、家のピアノでやっていた風にはほとんどできないことがわかり、リハーサルとしていただいた時間の中で、なんとか折り合いをつけようと、ピアノとあれやこれやのことについて話し合ってみた。
もうわたしの中には、原爆もテロも、ミサコさんの名前も無くなっていて、とにかくどうやったら自分がこのピアノに受け入れてもらえるのか、受け入れてもらうだけではなく、わたしの心に呼応するようにともに歌ってくれるのか、それだけに集中した。
オーウェンもエラも、そしてわたしも、とてもよく弾けたと思う。
特にあの二人は、急なお願いだったにも関わらず、自分から積極的に関わろうと、本当によく努力してくれた。ありがとう!
旦那は、「ほんとは4日間の演奏会が全部終わってから言おうと思ってたけど、今日の演奏はほんとのほんとに素晴らしかった」と褒めてくれた。
どうしてすべてが終わってからにしようと思ったかというと、わたしがそれを聞いて有頂天になり過ぎたらいかんと思ったかららしい。
さすが旦那だ。長年連れ添っただけあってよくわかっている。
明日は、ハドソン河沿いの埠頭で、慰霊の灯籠流しとともに演奏会が開かれる。
「会の進行によって、演奏ができるかできないかどちらとも言えないのだけれど、ぜひ来てください」と言ってもらった。
竹本さんから、アオギリの種をいただいた。
まうみさん、ぜひ、ニューヨーク支部の責任者になって、この木を大きく育ててください!と、目をキラキラさせながら話す彼の、平和への想いが熱く強く伝わってきた。
うちのジャングル庭が、広島とつながる。ものすごくワクワクする。
写真で見た『ミサコのピアノ』が脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消え、
いろいろと寝相を変えてみるのだけれど、どんどん目が冴えてくる。
観念して、台所に行き、お湯をわかし、梅酒を少し足して飲んだ。
もうこれ以上、いくら漢方といえど、睡眠を誘導する薬を飲みたくはない。
途切れ途切れに眠り、朝を迎えた。体はかなり辛い感じ。でも、夜の7時までには時間はたっぷりある。なんとかなる。きっと。
朝食をゆっくりとり、練習を少しだけして、さて、リラックスにはやっぱりお風呂だということで、朝風呂に入ることにした。
二階のバスルームに行き、さあ入ろう!と勢い良く服を脱いだが、少し前に風呂に入った旦那が、お湯を抜いただけで掃除をしていないではないか!
しょうがないので、せっせとタワシで擦ろうと、洗剤を探したが無い。家猫のトイレの横に同じ洗剤があったのを思い出しそこに行くと、しまった!ここ数日、コンサートの準備で頭がいっぱいで、彼女のトイレ砂の掃除をすっかり怠っていて、非常に悲惨な状態になっていた!
そこで、家猫のウンチやオシッコ玉を入れるビニール袋を取りに、最低限の布をまとっただけの姿のまま一階に降り、せっせと掃除。そしてお風呂の浴槽もゴシゴシ……こんな日に、わたしはいったいなにやってんだかなあ……。
久々の湯船はやっぱり気持ちがいい。ずいぶんと落ち着いた気がする。産毛(ところどころヒゲ)も剃った。
さて、今日はなにを着ていくべ、と寝室のクローゼットを物色する。といっても第一数がしれているし、それも何回も着たものばかり。
あ、そうだ!一枚だけ、すごいのがあった!
日本に行った時、京都の伊勢丹で、それこそ清水の舞台の三倍ほど高い板間からモモンガ飛行をする勢いで買ったイッセイ・ミヤケのプリーツ・プリーズ。
もちろんバーゲン品ではあったけれど、それでもミヤケだもん、プリーツだもん、わたしにとっては目の玉が飛び出て落ちてしまうぐらい高い。
問題は……夏もので薄い。ここはもうすっかり秋だし、透けて見えるのもいやだ。けれども、ペチコートのようなものも無い。どうしよう……。
そこで、苦肉の策としてこれを引っ張り出してきた。窮屈過ぎてずっと着ていなかったアンダーウェア。
そして、ジャキジャキ、ジャキジャキ、腰から上を切った……我ながら賢い、と自画自讃しながら。
寒いので、黒のオーガンジーで作られたブラウス(お金持ちの家のガレージセールで3ドルで買った)を羽織ることにした。
無事に服が決まり、やっと落ち着いて髪の毛を乾かせる。化粧だってしないと。いつもみたいにだいたいじゃないやつ。
全部終わった頃に旦那の仕事が終わり、いざいざ出陣!
空は随分雲が広がってきた。真ん中少し左寄りにエンパイアステートビルディングが見える。
3時半に会場の教会に着いた。
今朝、ディレクターの竹本さんから電話をいただき、11時ぐらいからもう会場入りをしてもいいので、いつでもどうぞと言ってくださったのだけど、結局はこんな時間になってしまった。
教会の中に入ると、被爆ピアノのオーナーであり調律師でもある矢川さんが、丁寧に調律をされているところだった。
教会の名前は『ST.POUL AND ST.ANDREW』こじんまりとした古い教会。
やっと会えたね、ミサコのピアノさん。
リハーサルにやって来た原田真二さん。懐かしぃ~。彼ももう50代。時の流れを感じてしまう。
今夜の取材にはNHKや各新聞社の方々がおられた。特にNHKでは、日本人以外の演奏者にスポットを当てて取材をするということで、わたしの生徒のオーウェン君とエラちゃんにインタビューをしたいとの要請を受けた。
エラは、偶然1週間ほど前に、学校の授業の中で原爆をことを勉強した。
ふたりとも、わたしがこの演奏会の話を持ちかけた時からずっと、このような場で演奏できることをとても誇りに思うと言っていたので、彼らはきっと、それぞれにきちんと答えられる思いを持っていると思い、記者の方々にお任せをした。
演奏会は、それはいろいろな人達が、いろいろな音楽を、いろいろな形で演奏する、すてきな会になった。
本願寺の中垣住職が司会を務められ、会は和やかに、けれども、平和への強い願いをもって進行した。
ピアノはやはり、とても古い物だし、そしてその時代の音をできるだけ残しながら保存していこうという矢川さんの思いもあって、鍵盤のタッチが今のピアノのそれとはかなり違う、なかなかに馴染みにくいものではあった。
初めて鍵盤を押した時、あまりになんの抵抗もなくストンを底を打ってしまうことに驚き、少し狼狽えてしまった。
今夜弾こうと思っている曲は、静かな部分が多く、けれどもただ静かなのではなく、その静けさの中に、深い哀しみやいたわり、痛みや慰め、などなど、たくさんの感情が入り交じっていて、それを一音一音、色を変えて表現できるように苦労したのだけれど、
そういう細かい変化づけを、家のピアノでやっていた風にはほとんどできないことがわかり、リハーサルとしていただいた時間の中で、なんとか折り合いをつけようと、ピアノとあれやこれやのことについて話し合ってみた。
もうわたしの中には、原爆もテロも、ミサコさんの名前も無くなっていて、とにかくどうやったら自分がこのピアノに受け入れてもらえるのか、受け入れてもらうだけではなく、わたしの心に呼応するようにともに歌ってくれるのか、それだけに集中した。
オーウェンもエラも、そしてわたしも、とてもよく弾けたと思う。
特にあの二人は、急なお願いだったにも関わらず、自分から積極的に関わろうと、本当によく努力してくれた。ありがとう!
旦那は、「ほんとは4日間の演奏会が全部終わってから言おうと思ってたけど、今日の演奏はほんとのほんとに素晴らしかった」と褒めてくれた。
どうしてすべてが終わってからにしようと思ったかというと、わたしがそれを聞いて有頂天になり過ぎたらいかんと思ったかららしい。
さすが旦那だ。長年連れ添っただけあってよくわかっている。
明日は、ハドソン河沿いの埠頭で、慰霊の灯籠流しとともに演奏会が開かれる。
「会の進行によって、演奏ができるかできないかどちらとも言えないのだけれど、ぜひ来てください」と言ってもらった。
竹本さんから、アオギリの種をいただいた。
まうみさん、ぜひ、ニューヨーク支部の責任者になって、この木を大きく育ててください!と、目をキラキラさせながら話す彼の、平和への想いが熱く強く伝わってきた。
うちのジャングル庭が、広島とつながる。ものすごくワクワクする。