ポールに、ありがとうとさよならを言いに行ってきた。
全くそんなつもりのなかった終わりが、彼の人生に濃い影をさしている。
ポール、と名を呼ぶと、意識の無いはずの彼の呼吸が急に激しくなり、驚いているような顔をした。
聞こえているんだね、ポール。
先日、難しい癌が見つかって、医者から余命6ヶ月を宣言されたピンキーが、夫のポールの頭のてっぺんを優しく撫でている。
「こうやってわたしが彼を看取ることができてよかった」ピンキーが静かに言った。
「昨日ホスピスから戻ってきたの。あちらではかなりストレスがあったようだけど、家に戻ってきてからとても落ち着いたの。やっぱり家がいいものね。わたし達ここで52年も暮らしたんだもの。ここに帰りたかったんだと思う。帰らせてあげられてよかった」
ここに引っ越してきた次の日に、ドアをノックしてくれたポール。
「僕はポール。タウンミーティングがあるから一緒に行こう」
なんていきなり唐突なことを言い出す人なんだろうか……と一瞬たじろいだが、それが彼流のウェルカムの表現だった。
まだ少し肌寒い朝早くから、バシャバシャと水音をたてて泳いでいたポール。
「いつになったら泳ぎに来るんだい?」と、少し怒っているような表情を作っていたポール。
わたしがピアノを弾き始めると、決まって外に出てきて、なにがしかの用事をしていたポール。
わたしがその話をすると、「彼ね、『またまうみは窓を閉めて弾いてるよ。開けてくれりゃいいのに』ってしょっちゅう文句言ってた」とピンキーが話してくれた。
彼の温かな手を握りながら、わたしは精一杯お礼を言った。泣けて泣けて、ほとんど言葉にならなかったけれど。
「ポール、ありがとう。ポールがわたし達をこの地域にスッと馴染ませてくれた人だよ。いつも親切にしてくれてありがとう。プールに一度も入りに行かなくてごめんね。いつもピアノを聞いてくれてありがとう。これからもピアノを弾くたびに、ポールのことを思うよ。忘れないからね」
「わたし達は仲良しのお隣さんだからね。少し短かったけど……」
わたしをギュッと抱きしめながら、ピンキーがそう言った。わたしは頷くだけでなにも言えなかった。
でも、今一番悲しんでいるピンキーが必死にしっかりしようとしているんだもの、わたしがしっかりしないでどうする?
彼の家の庭を挟んだピアノの部屋の真向かいの部屋で、ポールは眠っている。いや、眠っているんではなくて覚醒できない意識と闘っている。
ピアノ、弾くからね。聞いていてね。午後からはあさこと合わせるから、きれいなソプラノも聞こえるよ。
「『カーネギーだってさ。すごいよなあ~まうみ』と、とても嬉しそうに話していたわよ。聞きに行こうって思ってたと思う」とピンキーが教えてくれた。
ホールに直接来られないポールのために、彼の耳に届くほど響かせてみせる!ポール、聞いててよ!