総合ディレクターの竹本さんから、アオギリの木の苗をいただきました。
ぜひぜひこのアメリカの地で育て、大きく成長させてほしい。
種を採れたら、この種は、再生への強い希望と平和への祈りがこもっていることをつたえながら、多くの人に配って欲しい。
厳しい検疫を受けて運び込まれてきた苗は3本。
1本はコネチカットの日本人学校に、そしてあとの2本はうちに植えさせていただくことになりました。
2本のうちの1本は、残念なことにほとんど根腐りしてしまっていて、甦ることができるかどうか今の時点ではわかりません。
この苗たちの親木のことを、わたしはあまり詳しく知らなかったので、少し調べてみました。
「原爆投下で、人々は自分のことで精一杯。木々に事などは、まったく気遣うことすらできなかったのです
広島には75年間草木は生えないといわれてました。
ところがその翌年の春に、爆撃を受けて幹が半分になってしまっていた3本のアオギリが、みずみずしい新芽を出しました。
原爆に負けずたくましく生きるアオギリは、当時、原爆の怪我・後遺症で苦しみ、絶望のドン底にいた人々に、大きな生きる希望を与えてくれました。
少しずつ時間が経ち、人々はアオギリがまだ生き続けていることに気づきました。
本来は大きく成長する木なのですが、背丈は延びません。
しかし、生きるアオギリの木を見て、自分達の生きるエネルギーに写しかせねたそうです」
★被爆アオギリの木★
1945(昭和20)年8月6日に広島に原爆(リトルボーイ)が投下され、「広島には75年間草木も生えないだろう」といわれていた。
そんな中、爆心地から約1300mのところにある広島市基町(現:中区東白島町)の広島逓信局(現:日本郵政公社中国支社)の中庭の被爆し、爆心地側の幹半分が熱線と爆風により焼けてえぐられたアオギリは、翌1946年の春に芽吹いた。
原爆の悲劇にも負けずにたくましく育ったアオギリは、当時絶望の中にいた人々に生きる希望を与え、現在もその傷跡を包むようにして成長を続けている。
その(被爆した)アオギリは、1973(昭和48)年5月に平和記念公園・平和記念資料館東館北側緑地帯へ移植された。
移設されたのは当初3本であったが後に1本は枯れ、現在は2本。
大きく育ってほしいと、心から願っています。
成長の様子を写真に撮って知らせてほしいとおっしゃった竹本さん。
わたしが園芸オンチなのをご存知ではありません……でも……がんばります!
ぜひぜひこのアメリカの地で育て、大きく成長させてほしい。
種を採れたら、この種は、再生への強い希望と平和への祈りがこもっていることをつたえながら、多くの人に配って欲しい。
厳しい検疫を受けて運び込まれてきた苗は3本。
1本はコネチカットの日本人学校に、そしてあとの2本はうちに植えさせていただくことになりました。
2本のうちの1本は、残念なことにほとんど根腐りしてしまっていて、甦ることができるかどうか今の時点ではわかりません。
この苗たちの親木のことを、わたしはあまり詳しく知らなかったので、少し調べてみました。
「原爆投下で、人々は自分のことで精一杯。木々に事などは、まったく気遣うことすらできなかったのです
広島には75年間草木は生えないといわれてました。
ところがその翌年の春に、爆撃を受けて幹が半分になってしまっていた3本のアオギリが、みずみずしい新芽を出しました。
原爆に負けずたくましく生きるアオギリは、当時、原爆の怪我・後遺症で苦しみ、絶望のドン底にいた人々に、大きな生きる希望を与えてくれました。
少しずつ時間が経ち、人々はアオギリがまだ生き続けていることに気づきました。
本来は大きく成長する木なのですが、背丈は延びません。
しかし、生きるアオギリの木を見て、自分達の生きるエネルギーに写しかせねたそうです」
★被爆アオギリの木★
1945(昭和20)年8月6日に広島に原爆(リトルボーイ)が投下され、「広島には75年間草木も生えないだろう」といわれていた。
そんな中、爆心地から約1300mのところにある広島市基町(現:中区東白島町)の広島逓信局(現:日本郵政公社中国支社)の中庭の被爆し、爆心地側の幹半分が熱線と爆風により焼けてえぐられたアオギリは、翌1946年の春に芽吹いた。
原爆の悲劇にも負けずにたくましく育ったアオギリは、当時絶望の中にいた人々に生きる希望を与え、現在もその傷跡を包むようにして成長を続けている。
その(被爆した)アオギリは、1973(昭和48)年5月に平和記念公園・平和記念資料館東館北側緑地帯へ移植された。
移設されたのは当初3本であったが後に1本は枯れ、現在は2本。
大きく育ってほしいと、心から願っています。
成長の様子を写真に撮って知らせてほしいとおっしゃった竹本さん。
わたしが園芸オンチなのをご存知ではありません……でも……がんばります!