今回は、昨年の12/23に訪れた大和ミュージアムに展示されていた零戦62型について観察します。紹介するのを、すっかり忘れていました(笑)。結構、マニアックな内容ですので、興味のない方はスル~していただいて結構です。
先ず零戦の全景写真です。私と同年齢の方は、一度は零戦のプラモを作られたでしょうから見慣れたスタイルですが、とてもスマートなものです。当時の空力学を駆使して、空気抵抗を少しでも減らしたものであることが分かります。
次に各部を詳細に見ていきましょう。先ず尾部からですが、昇降舵のトリムタブが赤文字で「サハルナ」(触るな)と表示されています。これは完成した飛行機には一機ずつクセがあり、このトリムタブを使って、上下左右することなく、真っ直ぐに飛ぶように調整されるのです。トリムタブを触ってしまうと、また調整しないといけないからですね。
この写真は尾部の下部です。零戦は艦上戦闘機ですから、着艦時に用いる艦上フックと呼ばれるものが付いていますが、この零戦には付いていません。配置されてから現地で外されたのか。それとも復元する時に付け忘れたのか。はたまた終戦末期で発着艦する空母が無かったため、製造過程で省かれたのか・・・う~ん、謎です。
主翼に装備された20mm機関砲(内側)と13mm機銃(外側)です。13mm機銃はカセット式の給弾方式ですね。
プロペラ軸の先端に付けられたスピンナです。よく見ると回転方向が表示されています。
写真の赤丸で囲んだ棒は、主脚確認棒です。これは当時の引込脚は故障が多く、着陸しようとしたら主脚が出ていなくて胴体着陸・・・なんてことがありましたので、操縦士は確認棒が飛び出していることで主脚が出ていることを確認し着陸したのです。
前部エンジンカウリング上部の機銃発射口です。靖国神社・遊就館と上野の科学博物館の零戦は下からしか見えませんので、今回、初めて目にすることができました。左右の大きさが違うのは、右側は13mm左側は7.9mm機銃だからです。
操縦桿と主翼エルロン(補助翼)とはロッドで連結されています。小さな前カバーは空気抵抗の減少と氷結防止対策でしょう。
操縦席です。内部まで復元されています。細かいところですが、偵察機である「彩雲」操縦席の戦時中の写真を見たことがありますが、風防枠の内側にはフェルトのような布が貼られていました。これは頭をぶつけてもケガをしないためですが、この零戦には貼られていません。そこまで丁寧に復元しなかったのか。それとも戦争末期の物資不足のため、最初から貼られなかったのか分かりません。
主翼の下の4つのヒレのようなものは、三式一番二十八号爆弾の発射ラックです。この爆弾ですが、爆弾という名は付いていますがロケット弾でした。飛来するB29の攻撃のために用いられましたが、発射すると散弾銃のようにバラバラになりました。また主翼・前縁が黄色が塗られているのは敵味方識別帯と呼ばれたものですが、陸海軍機共通で見られるものです。
主脚のショックアブソーバーです。油圧シュックですね。細い黒いパイプは、ホイールのドラムブレーキ用油圧パイプと思います。
零戦に搭載された中島製(現在のスバル)「栄」エンジンです。空冷二重星形14気筒で排気量27.9L。出力1,150psというものです。ご覧のように2気筒で一本のエキパイですから、2in1の集合マフラーですね。
14気筒で2in1ということは、7本の排気管です。ということは、機体の左右で排気管の数が違うのでは?で確認すると、推測どおり機体右側は4本で、左側は3本というアンバランスなものでした。(今回、初めて気が付きました)
「栄」エンジンのピストンです。ボア×ストローク:130mm×150mmということで、1気筒あたり1,990ccとなります。
ボチボチと疲れてきましたので、このあたりで終わりましょう(笑)。う~ん、何人の方が最後まで読まれたのか疑問ですが、今から約70年前に設計された一つの工業製品として見ていただければ、当時の日本の工業力が伺えるかと思います。
先ず零戦の全景写真です。私と同年齢の方は、一度は零戦のプラモを作られたでしょうから見慣れたスタイルですが、とてもスマートなものです。当時の空力学を駆使して、空気抵抗を少しでも減らしたものであることが分かります。
次に各部を詳細に見ていきましょう。先ず尾部からですが、昇降舵のトリムタブが赤文字で「サハルナ」(触るな)と表示されています。これは完成した飛行機には一機ずつクセがあり、このトリムタブを使って、上下左右することなく、真っ直ぐに飛ぶように調整されるのです。トリムタブを触ってしまうと、また調整しないといけないからですね。
この写真は尾部の下部です。零戦は艦上戦闘機ですから、着艦時に用いる艦上フックと呼ばれるものが付いていますが、この零戦には付いていません。配置されてから現地で外されたのか。それとも復元する時に付け忘れたのか。はたまた終戦末期で発着艦する空母が無かったため、製造過程で省かれたのか・・・う~ん、謎です。
主翼に装備された20mm機関砲(内側)と13mm機銃(外側)です。13mm機銃はカセット式の給弾方式ですね。
プロペラ軸の先端に付けられたスピンナです。よく見ると回転方向が表示されています。
写真の赤丸で囲んだ棒は、主脚確認棒です。これは当時の引込脚は故障が多く、着陸しようとしたら主脚が出ていなくて胴体着陸・・・なんてことがありましたので、操縦士は確認棒が飛び出していることで主脚が出ていることを確認し着陸したのです。
前部エンジンカウリング上部の機銃発射口です。靖国神社・遊就館と上野の科学博物館の零戦は下からしか見えませんので、今回、初めて目にすることができました。左右の大きさが違うのは、右側は13mm左側は7.9mm機銃だからです。
操縦桿と主翼エルロン(補助翼)とはロッドで連結されています。小さな前カバーは空気抵抗の減少と氷結防止対策でしょう。
操縦席です。内部まで復元されています。細かいところですが、偵察機である「彩雲」操縦席の戦時中の写真を見たことがありますが、風防枠の内側にはフェルトのような布が貼られていました。これは頭をぶつけてもケガをしないためですが、この零戦には貼られていません。そこまで丁寧に復元しなかったのか。それとも戦争末期の物資不足のため、最初から貼られなかったのか分かりません。
主翼の下の4つのヒレのようなものは、三式一番二十八号爆弾の発射ラックです。この爆弾ですが、爆弾という名は付いていますがロケット弾でした。飛来するB29の攻撃のために用いられましたが、発射すると散弾銃のようにバラバラになりました。また主翼・前縁が黄色が塗られているのは敵味方識別帯と呼ばれたものですが、陸海軍機共通で見られるものです。
主脚のショックアブソーバーです。油圧シュックですね。細い黒いパイプは、ホイールのドラムブレーキ用油圧パイプと思います。
零戦に搭載された中島製(現在のスバル)「栄」エンジンです。空冷二重星形14気筒で排気量27.9L。出力1,150psというものです。ご覧のように2気筒で一本のエキパイですから、2in1の集合マフラーですね。
14気筒で2in1ということは、7本の排気管です。ということは、機体の左右で排気管の数が違うのでは?で確認すると、推測どおり機体右側は4本で、左側は3本というアンバランスなものでした。(今回、初めて気が付きました)
「栄」エンジンのピストンです。ボア×ストローク:130mm×150mmということで、1気筒あたり1,990ccとなります。
ボチボチと疲れてきましたので、このあたりで終わりましょう(笑)。う~ん、何人の方が最後まで読まれたのか疑問ですが、今から約70年前に設計された一つの工業製品として見ていただければ、当時の日本の工業力が伺えるかと思います。
「主脚確認棒」・・・?こんなの初めて知りました。
てっきりギアダウンはランプかなんかで確認するのかと思い込んでいました。
ゼロ戦はある意味傑作機だと思いますが
現在の貨幣価値にしたら調達価格はいくら位だんたんでしょうかね?
あれはいったいどこにいったのやろう。
雑誌「丸」の愛読少年はいまはただのおじさん。いっぺんそこに行ってみたい。
ゼロ戦燃ゆの映画で加山雄三さんが若い飛行士に、一生かかっても買えない飛行機に乗れるんだと言ったせりふを思い出しました^^
昔見に行った覚えがあります(^^)
小中学の頃、第二次大戦ものはよく作りました。
私が好きなのは雷電とゼロ戦22型、他に震電なんかも何機かつくってましたね~、懐かしいです。確か作ってないプラモが何処かに残ってたような(^^;
私はもっぱら本の虫で、模型自体、作ったことがないんですよね・・・。
でも、こういうものの操縦には憧れます。
もちろん戦争ではなく、空中散歩だけでね(^^)
ゼロ戦・・・・・名前も姿も、カッコイイと思います・・・・・
私には、「優秀な工業製品」というよりも「崇高な芸術作品」に見えるのですが・・・・・(^^;)
やはり大和ミュージアムには行かなければと思いました。
T2は、三菱や富士、川西といったメーカーの技術者ものの読みものにワクワクしますw
この色なんだろう?って思ってました(^^ゞ
あと、この時代って英語禁止みたいなのあったような?
プロペラって印字してあったんだ??(どうでもいいか。スミマセン)
さて「主脚確認棒」ですが、仰るように電気的にランプで確認する方が簡単ですね。しかし当時の日本の工業技術の中では、電気系統の弱点は際立っていました。そんなところで、何でも機械式で対応しようとしていたのです。
ちなみに、電気式を多用した艦上爆撃機である「彗星」は、「繊細につき兵器にあらず」と現場では揶揄されました。
続きまして零戦の価格(調達価格)ですが、手持ちの資料には、機体のみで7万円~9万円と掲載されています。当時の1ドルは8円程度でしたから、約1万ドルでしょうか。現在のレートは90万円となりますね。さらにエンジンは約2万円だったそうですから、25万円となります。これに官給品の無線機や武装を加えれば、およそ150万円程度でしょうか。
もっとも現在と当時の労務単価(おそらく勤労奉仕で、0円だったのでしょう)や円とドルの関係が全く違いますので、単純には価格は出せないですね。当時の主力兵器の一つですから、現在のセスナクラス10機分として、2億円程度と考えるのが妥当なところだと思います。
ウドさん、PCもTVゲームもない当時の男の子達にとっては、プラモ作りは大ブームでしたね。またマンガ雑誌(少年マガジン、キング、ぼくら)などは、大和や零戦の特集も行われていました。
「丸」は当時から発行されていましたが、現在の「丸」とは内容が少々違いますね。やはり実際に太平洋戦争で戦った方々が鬼籍に入られたからでしょうか。時代の移り変わりを感じます。
まささん、映画「零戦燃ゆ」は、零戦の誕生から戦場での戦い描いた映画ですね。設計した堀越二郎さんや海軍の担当者である小福田さんも登場した映画です。私はレンタルDVDで観ました。
加山雄三さんのセリフは、訓練が辛くて予科練を逃げ出そうとする若い操縦員に行った言葉ですね。無塗装のキレイな零戦を前にして話していました。
零戦のプラモといえば、1/72スケール(当時、100円)が中心でした。現在はタミヤから1/32スケールが販売されていますが、完成すると大きすぎて保管が大変です。(笑)
terayanさん、そのとおりです。この零戦は嵐山美術館に疾風とともに展示されていました。そして嵐山美術館が閉館の後は、白浜の方に移ったようです。
もともとは、あるTV番組(探偵ナイトスクープだったかな?)で、琵琶湖に沈んだ零戦を発見したのがスタートですが、琵琶湖→京都→和歌山→広島と転々としていますね。
震電は珍しいエンテ型飛行機ですね。終戦間際に九州で初飛行した状況がYouTubeでも観れます。最初にプラモで見たときは「逆に飛ぶ飛行機だ!」と驚いたものです。
私も押入れの奥深くに、月光(厚木航空隊所属の夜間戦闘機)や二式水戦、それにBf109K14などのプラモが眠っています。こいつを作るのは、相当、先のことになるでしょう。(老後の楽しみ)
ピィさん、はい。十分に大好きです(笑)。でも好きなのは、基本的にプロペラの付いたレシプロ戦闘機なんですね。どうも最新鋭のF-35などは興味がわきません。
ピィさんの読書好きはブログでも伝わってきます。そこで零戦について詳しく紹介した「零戦」(堀越二郎・奥宮正武〔著〕)なんて本はいかがでしょうか。この本を読めば、零戦についての全てのことが分かるといっても過言ではありません。私にとってはバイブルのような本ですね。
少々理系の内容(力学、金属材料学)もありますが、零戦の主務設計者である堀越さんが技術的な面を、奥宮さんが実戦での運用面について詳しく紹介しています。
グッチさん、マニアック過ぎて申し訳ありません。でもマニアの方にとっては極普通の内容かと思います。(逆に“間違っているぞ”と指摘されそう)
仰るように、工業製品も極めれば芸術作品ですね。時計やオルゴールなどもそうでしょうか。ちなみに零戦は、当時のアメリカ戦闘機の2倍近い工数が必要なほど手間暇が必要な飛行機でした。生産性が悪いといえばそれまでですが、当時の日本人の職人芸を要した工業製品ですね。
takさん、うんうん。やはり一度は行かれた方がいいでしょう。ただ漫然と見ると「へぇ~」で終わってしまいますので、ちょっと下調べされた方が良いでしょう。
takさんとは昨年の夏に京都・梅小路蒸気機関車に行きましたが、私は蒸気機関車の溶接や、ボルトやリベット留の状態も見ています。こんな基本的な部分を見ていると、昔の工業技術の状況が分かってきますね。
T2さん、仰るように大和ミュージアムはたくさんの角度から零戦を見ることができますね。靖国神社の零戦も上から見ることができますが、窓際に展示されていることもあり、写真撮影には不向きなところです。
技術屋さんのお話は戦時中だけではなく、戦後のホンダやソニーの歴史も面白いというか感心します。さらにバイクマニアの私たちにとってはヨシムラでしょうか。
吉村秀雄さんは、戦時中、航空機関士でしたが、ここで多くの航空エンジンを目にしたことから、吸排気系の取り回しなどを学んだようです。4気筒の集合マフラーも、ルーツは今回の栄エンジンのエキパイかもしれませんね。
たらちゃん、なかなか鋭い質問です。零戦に限らず、日本の軍用機は上面がダークグリーン(陸海軍機で微妙に違いますが)で下面はグレー系の塗装が標準色です。これはカムフラージュのためですね。たらちゃんが好きなミリタリー柄もこんなところから来ています。
しかし戦争末期のアメリカ軍用機は、塗装無しでアルミ地肌のピカピカ状態でした。これは戦況が優勢でしたから、カムフラージュする必要が無いためです。こんなところにも勝負が見えてきますね。
英語禁止とは、これまた詳しいです。確か野球のストライクは「良し」だったような気が・・・しかし陸軍に比べ視野が広かった海軍は、英語を排他することは少なかったようです。「敵を知り己を知り」ですね。