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櫻井忠温『肉弾』

2013-06-03 04:25:00 | ノンジャンル
 フリーペーパー「市民かわら版」〈厚木・愛川版〉第811号に掲載されていた依田信夫さんの随筆「うらなり」で、桜井忠温(ただよし)さんの著書『肉弾』(発行1911年、著者序文の日付は1906年(明治39年))が紹介されていました。
 依田さんの文章を引用させていただくと、「日露戦争が終わって百年以上になる。土一升に骨一升といわれた203高地の激戦は未だに江湖の語り草となっている。さすがに一世紀も過ぎると、直接銃を手にして戦った勇士も少なくなり淋しい。主役が老いぼれないうちにと、さまざまな戦争体験をされた将兵たちと語る機会を得たのは僥倖であった。それら戦史の閃光を日露戦から一つひろってみよう。(改行)砲声が止んで日も暮れ、旅順の砲塁にも束の間の静けさがもどった。第一次、第二次と白タスキの決死隊はがむしゃらに突貫した。機関砲から唸って弾丸が飛んでくる。敵、味方の区別なく露兵の死体の上に日本兵の死体が折り重なった。虫の息の兵隊もいれば、一発でこめかみを貫通された兵もいる。生と死は紙一重にして地獄、極楽の道を逝く。弾雨の中でも小鼠のように駆け回る兵もいれば、やっと塹壕から立ち上がった途端に撃たれてしまう兵もいる。弾丸の方にも眼があって、なるべく臆病な兵隊に当たるのが本領のようだ。(改行)『おや、ちょっと待て――この兵隊はまだ息があるぞ!』という声がしてグイと引っ張り出された。旅順のあちこちに倒れている死骸を集めて荼毘に付しているときだ。(改行)『ひどくやられているが助かるかも知れぬ。手当をしてやれ!』と、血まみれの一体が引っ張り出された。後の兵隊文豪『桜居忠温(少将)』で、このとき松山二十二連隊の旗手であった。そうした多くの戦争と人柱の上に日本は蘇生した。(改行)昭和37年、私は伊予松山の桜井さんを訪ねた。打ち砕かれた右手を吊ってよたよたと玄関まで出迎えて下さった。『私は旅順の総攻撃で死んだことになっています。弾の突き抜けた穴から血がどくどくと流れ出た。眼に白い布のようなものが掛けてあって間もなく死ぬなアと観念しました。そのうち、散々不孝を重ねた母の顔が浮かんできて、もう泣けて泣けて‥‥」』と、桜井さんは述懐の涙を流した。さらに『ある時、乃木大将が第一線に来られて私の目の前に立たれたのです。と、岩陰に楚々と咲いていた野菊を一本折ってきて墓標に手向けたのです。私はハッと胸を打たれました。多くの部下を死なせた大将は、どんなに苦しい思いをしたことでしょう。“乃木苦(野菊)”の献花であったと、かきむしられるような思いがしました』と、声をつまらせた。(改行)その彼我の実戦を書いてベストセラーになったのが『肉弾』であった。ある日、明治陛下が肉弾の著者に会いたいと申された。天皇が一中尉如きに拝謁を賜るとは前代未聞のことだった。(後略)」
 実際に公共図書館で借りた『肉弾』は、原文245ページ、それに加え、その英訳が270ページ、独訳が206ページに及ぶ大著で、非売品で寄贈図書になっていました。「卑著『肉彈』は侍從武官長男爵岡澤精閣下を經て、天問に逹し、乙夜の覽を辱うす。光榮既に予の実に過ぎたり。然るに又、皇恩の隆渥なる、特に拜謁を賜はり、卑少を以て、龍顏に只尺し奉る。予、抑感俯愧、復た言ふ所を知らざるなり。 明治三十九年六月二十五日 陸軍歩兵隊中尉 櫻井忠温」という献呈の言葉で始まるこの本は、次のページで「恭しく 此書を献じて 陣歿戦友の忠魂を慰す」と書かれ、その後も、「旅順望臺を近藤卒に負はれて下るの圖 著者えがく(明治三十九年三月」と題された絵、「壮烈 贈 櫻井中尉 希典」という書、出征當時の著者の写真、「著者の右手を包みし血染の國旗」と「陣中著者自製の遺骨箱」の写真、「肉弾原稿の一部(左手にて卷紙に記せしもの)」の写真、乃木大將の二令息を偲びて―ハリス夫人」と題された写真とその日本語訳、当時の米大統領セオドア・ルーズベルトからの贈呈への感謝文の現物の写真と日本語訳、大隈重信による讃辞等等が掲載された後、本文が始まります。
 内容は最初を読んだ限り、まさに「壮烈」であり、愛国と仲間との友情の間で心が引き裂かれて戦場へ向かう著者の思いがビンビンと伝わってくるものでした。旧仮名遣いなので、読みにくいかもしれませんが、苦労して読む価値は十分あると思います。どこの公共図書館にもあるものではないかもしれませんが、是非実物を手にしてみてください。、今では珍しい豪華本でもあったことを付け加えておきたいと思います。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto