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『メルトダウンする憲法・進行する排除社会 暴排条例と暴対法改訂の「今」』その5

2013-06-16 04:58:00 | ノンジャンル
 またまたまた昨日の続きです。
 最後のインタビューでは安田弁護士が「人権の本質は、少数者、つまり差別された、迫害された、孤立した、孤立させられた、そして排除された、そういう人たちの権利がどれほど大切にされているかにある。そういう人たちの存在そのものが大切にされて、その人たちの怒りとか悲しみとか苦しみとか、それから孤独にしろ絶望にしろ、そういうものがどれほど理解されているかということが『人権』であろう。その点からすると、今の日本には『人権』は存在しえない。もちろん過去にも存在したことはなかった」「現在よく言われる『人権』というのは、『思想・信条の自由』のことだろう。でも、これはいわばインテリの自由である。インテリには昔から自由はあった。つまり人権なんてインテリ限定の自由でしかなく、迫害されている側からは、ただ権力を持っていないだけの話。これは権力闘争の問題だったわけだ」「『被害者の人権』という言葉自体が、全く違う形で使われている。実は人権というのは、『国家』と『個人』の関係である。しかし昨今使われている被害者の人権とは、『加害者』と『被害者』の関係であって、『個人』対『個人』の問題。つまり『民・民』なので、それは人権じゃない。『お隣さん』同士の『どういう形で生きていくか』とか『どういう関係を切り結ぶか』だけの問題なのだ」「実は、『被害者の人権』という声が大きくなればなるほど、何かというと国の責任はどんどん低減化されていき、『個人の仇打ち』つまり、仕返しの話に切り替えられてしまう。仇打ちの話ならまだいい。仇打ちというのはやはり江戸時代に作られた制度的な問題だから。ただし、それは一種のパフォーマンスであり儀式だった。ところが、現代社会はそうでなくて、感情だけの話になってくる。その感情の話というのはリンチなわけで、リンチだから、極めて凄惨で残酷なのだが、それを見て時には参加して第三者が溜飲を下げる。実際には会ったこともない人たちのことなのに、メディアに触発されて『許せない』『やってくれ!』と騒ぐだけの話。しかも、その中身は極めて攻撃的。とにかく攻撃的だから、それに対して『ちょっと待てよ』という話ができないし、ものすごく感情的だから『ちょっと冷静に議論しようよ』とか『ちょっと考えてみようよ』という話もできない。だから、インターネットなんかで一挙にバーッと拡がる。まさに燎原の火のごとく。もともと『身内を殺された』ことに起因する感情だから共感を呼ぶし、共鳴してそれはすごい速さで拡がっていく。しかも普通だったら拡がれば拡がるほど力は弱くなるのだが、感情だから拡がれば拡がるほど力を持つ」「そういう感情というのは、実は『性格』である。それが『人権』という言葉を使って、冷静な『装い』のように語られる。本当はヒステリーなのに、なにかものすごくまっとうなことを言っているように聞こえるから、さらに拡がる根拠を持ってくる。それが単なるヒステリックな感情だということに誰もなかなか気がつかない」「「被害者遺族の感情というのは『亡失感』つまり、二度と戻ってこないことに対する悲しみなのだろうが、これが加害者に対しては『憎しみ』という形で表現される。もう一つは『恐怖』。加害者に対して、この2つの感情があるから『憎いから叩け』と『怖いから抹殺してくれ』となる。だから、苦しめてなおかつ抹殺するという話になる。人間のものすごい原始的な感情である怒りと恐怖に訴えてくるわけだから、固着し限りなく拡大していく」「実は、近代司法というのは、そういうものからとにかく脱却しようとして司法を独立させ、法律を作って法定主義にした。『市民からのリンチ』に対し『すべてを裁判にかけろ』そして『刑罰は法律で定めよう』となった」「日本の法曹教育の原点は、司法原理主義。全て法律で物事は解決すべきであり、感情とか利害とかそういうものじゃないんだということ。そして、裁判官は裁判官で独立して、どんな圧力にも屈しないということなのだが、今はそういう司法の独立を声高に言う人はいない。弁護士も『私たちは社会正義のために闘う』と言う人がいない。では弁護士の発想は何かといえば、それは大企業の顧問をやったり、国際法も手掛けて、あるいは地域社会で活躍して『将来は国会議員』みたいなエリート。あるいはもっと徹底して、地域の財界に入り込んだり、国や自治体の審議会の委員になったり、つまりエキスパートになること」‥‥(またまたまたまた明日へ続きます)

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto