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山田詠美『ファースト クラッシュ』その9

2021-06-25 05:41:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

「私たち姉妹は、ずい分長いことリキの憐れみ方を間違えて、あの人を傷付けた。でも、おかあさまは、始めから彼を憐れんだりしなかったよ」
 そうだ。母は、力の母を憎んでいた。そして、息子の彼にその嫉妬をぶつけたのだ。(中略)
「そういう時ね、リキは、おかあさまに苛められているような振りをしながら、彼の方から憐れんでいた」(中略)
 そうだ。母だって、力を憐れんだのだ。ただし、それは、娘たちがそうしたようにではない。夫に裏切られた惨めな自分と、母親に死なれ身寄りのない少年。その二人がイコールで結ばれて、憐れみ合った。彼らしか出来ないやり方で。(中略)
「咲也ちゃんは薄情だよね」
「は? 何、言ってんの?」
「私は、リッキのことがずーっと好きだよ。何度も何度も、リッキが東京に来るたびに、私が神戸に行くたびに、そう伝えてるんだけど、好きな人いるって言われてさ。もう何回振られたか解らないよ」(中略)
「薫子、最近もリキに会ったって言ってたよね。今は? 今現在はどうなの?」
「ずっと神戸の和田岬ってとこで働いているよ。なんとかシステムとかいう機械を作っている、でっかい会社の工場だけど……」
 違うって! と咲也が遮った。
「三ッ木工業の話を聞いてるんじゃないの! 私が聞いてるのは女の話」
「すごーい、知ってんだ。その会社……で、女の人は……解んない。おととしは、スポーツジムの受け付けの人と一緒に暮らしてたらしいけど……」(中略)
「(中略)結婚生活で一番大事なのは、お互いに相手を疲れさせないために心を砕けるかってこと」
「心を砕くって、努力するって意味?」
「まあ、そうね」
 麗子と咲也の結婚に関する見解は、ここでおおいに違って来る。
 咲也は、こんなふうに言っていた。
「努力を必要とする間柄だったら、結婚なんてしない方がいいってば」
 大学時代の同級生だった咲也の夫は、不動産会社に勤務するサラリーマンだ。子供二人が成人した今でも、気のおけない友達同士のように、口喧嘩と仲直りをくり返している。結婚前と同じように互いを名字で呼び合い、咲也はパート先でも旧姓で通しているらしい。(中略)
 通学時に力にあれこれと命じる麗子は、頬を薔薇色に染めて誇り高き自分に酔っているようだったし、意地悪を仕掛けながらも彼に心を許して行く咲也も、いつのまにか親愛の情をあらわにすることに照れなくなった。(中略)
 神戸に会いに行く時も同じだった。毎回、新幹線の中で、力に話すべきことを頭の中で整理しながら、そこに笑いの要素を混ぜて少しだけ脚色した。かと言って、私は決して無理をしていた訳じゃない。彼にもうじき会えると思うと、次々、おもしろい語彙やエピソードが浮かんで来るのだ。彼を楽しい気持にさせたい、と心から思う。だって、元みなし子だもの。(中略)
「ほんとに、今晩、私と泊まらない?」
「泊まらない」
 気落ちした私を元気付けるように、力は続ける。
「泊まらないけど、観覧車、乗ろか? もうそろそろ酔いもさめて来よったやろ?」
 その素敵な提案を受け入れ、私たちはゴンドラに乗って夜空に浮かんだ。(中略)
「薫子は苦労してるよ。だってさ、ひとりの男の歓心を買おうと、こんだけ長い間、しつこくがんばるなんて、普通出来ないよ」(中略)
「ねえ、いったい何が薫子をそこまでさせる訳? 私のファースト クラッシュは、確かに忘れられない記憶として残ってるけど、それは持続するような種類のもんじゃない。(中略)自分の胸に刺さった刃物が、実は氷砂糖で出来てた感じで、いつのまにか溶けてった……だから……」
「溶けないの!」(中略)
 そして、とうとう機は熟し、秋の訪れを待って、ある週末、私は神戸に飛んだ。(中略)玉山さんからの密告で、力が女と別れたという情報はつかんでいる。(中略)
「リッキ、結婚しよう!?」(中略)
「さっきの返事は東京で聞く。次の連休、リッキ、お休みだよね?」
「……そら、そうやけど……」
「待ってる。でも、ノーのためなら来なくていい。イエスだった場合にだけ来て!」(中略)
「で! 今まさに、奴がこのバーに来るのを待っている訳ね」
「奴なんて言い方しないでよ。咲也ちゃんのこと、私の一世一代の賭けの立ち合い人に選んでやったんだから」(中略)
 二の句が継げない、というように、咲也が大袈裟な溜息をついた瞬間、バーの扉が開く音がして、私たち姉妹は、同時に後ろを振り返った。
「へへへ。オオカミ犬、ついに参上っいうとこやな」
 その、ばつの悪そうな笑い声を聞いて、咲也が私の背を突き飛ばすように押し、一言、行きなよ、と囁いた。(中略)
 行きなよ、ともう一度、咲也が言った。
「あんたたち、犬仲間でしょ?」

 あまりの面白さに、あっという間に読んでしまいました。山田詠美さんの代表作になる小説だと思います。

山田詠美『ファースト クラッシュ』その8

2021-06-24 15:59:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 そして、力が神戸に戻り、長女の麗子(れいこ)も真ん中の咲也も結婚した。私だけが独身で、往生際悪く高見澤の屋敷に居座っていたのだが、長年いた家政婦のタカさんが亡くなり、いよいよそこを手放さざるを得なくなった。もう二十年近くも前の話だ。母は、自分が愛して「サンルーム」と呼んだ温室が取り壊されたあたりから、少しずつ認知症を病み、今は、介護付きの有料老人ホームに住んでいる。(中略)
 私と咲也は、たまに会う。食事に行ったり、今日のようにバーで待ち合わせして、互いの無事を確認して一安心するのだ。(中略)
「私だって、リキは今も身内として大事に思ってるのよ? 薫子だって、そうなんでしょ? だって、あんなにくっ付いてたんだもん。そして、仲良しなんだもんね。神戸でしょっ中、会ってるっていうじゃない」
 身内。そうだけど、それだけじゃない。(中略)
 曖昧な返事をしながら、私は、つい二週間前に会った力のことを思い出している。場所は、神戸、山陽電鉄沿線の滝の茶屋という小さな駅だ。(中略)
「わあっ、すごい、駅からこんな景色が見えるんだあ。絶景だね」(中略)
「カオは大学卒業したらどうするの?」
「おとうさまの会社の手伝いをするんだよ」
「おっ、社長か」(中略)
「ただの手伝いだよ。会社のことはよく解んないもん。でも、桜井さんが、私の場所を作ってくれようとしてる」
 父の死後、会社を引き継いでくれた副社長の桜井さんには感謝してもしきれない。(中略)
「お嬢さんはお嬢さんで色々考えているんだから。あのね、私、会社で色々教えてもらって、勉強して、その内、自分のショップ持ちたい」(中略)
「マジですか? どんな店?」
「リッキは、私のコレクションとか知ってるじゃん!」(中略)
「コレクションて……おまえのそれって、ガラクタのことやろ?」(中略)
「あの変なおもちゃとか、薄気味悪い人形とか、ふざけたお面とか……やっぱ、甘ちゃんやなあ。あんなん、売れるかいな」(中略)私の目尻にはいつのまにか涙が滲んでいる。いつだってこうなんだ、と口惜しくてならない。末っ子の私は、いつだって可愛がられる以上に見くびられて来た。
「リッキだけは味方だと思ってたのにさ」
「悪い悪い。そうそう、カオとは犬仲間だもんな」(中略)
 力が高見澤家にやって来た時、私は、まだ小学生に上がったばかりだった。(中略)何となく薄汚れていて下品な感じもする。でも、何故だろう、そこがたまらなく良かったのだ。おまけに、みなし子だという。そんな子、今まで自分の周囲にはいなかった。
 絵本の中にしかいない少年が、私の側にいる! その思いつきは、私を有頂天にさせた。この男の子は、私の特別になる! 予感がよぎり、胸のわくわくが止まらない。(中略)
 なかなか高見澤家に馴染めない様子の力にまとわり付くのは、家族の中で一番のりをしたようで誇らしかった。(中略)
 姉たちのような屈折した愛情表現というものを、私は持たなかった。(中略)
 でもさ、と私は直後にしょんぼりしてしまう。率直な女は、あらかじめ色恋に見切りを付けられているのか、私は、ずっとひとり者だ。何度か恋はして来たつもり。でも、結局は成就しない。何故かは解らない。いつだったか、力にぼやいていたら言われた。
「カオは、確かにストレートな物言いをするけど、それが理由で男と別れるんじゃないと思うよ」
「じゃあ、なんで?」
「恋でもないのに恋だと思い込もうとして付き合うからじゃないか?」(中略)
「ガラクタでも自分にとって宝物なら、それでいいよ。でも、ほんとは宝物にもならないガラクタを宝物と思い込もうとしたのかもしれないよ」(中略)
 カオ、と呼ばれると体じゅうがスポンジのように柔らかくなって、温かい水が染み込んで行くみたいな気がする。いったい、いつからだろう。私がリッキと呼び、彼がカオと呼ぶようになったのは。(中略)
 私は、力に関して、どんどん鼻が利くようになって行った。彼が、どんなに平然としていても、そこから洩れる悲しみの匂いを嗅ぎ付けることが出来た。憮然とした表情を浮かべていても、その陰で噛み締めるのが喜びであるのなら、その香気に鼻を蠢(うごめ)かせた。(中略)
 麗子は気位の高いお姫さま然として力に接したし、咲也は風紀係のようにいつも彼の言動に目を光らせていた。そして、この姉たちは、常に自分の位が彼よりも上であることを示そうとするのだ。(中略)
 とりあえず、母があんまり力に冷たく当たるようなら行動に出なくてはならないだろう。そう思った私は、すばしこく屋敷の中を移動して、偵察に励んだ。
 すると、しょっ中、咲也に出くわすので、こちらを妨害しているのではないかと危ぶんだ。(中略)

(また明日へ続きます……)

山田詠美『ファースト クラッシュ』その7

2021-06-23 11:10:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 私が短大に進んでほどなくして、父は急死してしまったのです。(中略)父を慕っていた多くの人々が、その死を盛大に悼みました。(中略)
「リキくんさ、このうちの人たちの力になってやって?」
「……あの、ぼく、ここにいても良いんでしょうか」
「よおく考えて、自分で決めなさい。高見澤は、きみを大学まで出してやりたいって思っていたことは伝えておくよ。(中略)」
 私は、いつまでも悲しみに浸る資格を得たとばかりに泣き暮らしていました。(中略)この家の人々も同じように日常に戻れず嘆き続けるのだろうし。(中略)
 母は、何かと気に掛けてくれるようになった須藤綾子さんに誘われて、ボランティアで読み聞かせの会の手伝いを始めたのでした。そして、(中略)どうにか悲痛な思いを払拭して行ったのでした。(中略)
 皆、それぞれの諦めが、不思議な満足感を引き寄せている、と思いました。大切な人を失った慟哭(どうこく)の後に訪れた凪(なぎ)がそこにある。
 でも、私は、この時、自分を取り巻くすべての人、そして、すべての事象から見捨てられたように感じていました。(中略)
 途方に暮れたまま歩き続けることになるであろう我が身のために泣きました。(中略)
 そして、時は流れて、いくつかの季節が過ぎ行き、力が高校を卒業してこの家を出る日が近付いて来ました。(中略)
 この頃になって、父は、ようやく私を泣かせなくなっていました。(中略)
 部屋に入るなり、力が、私に、これ、と言って差し出したものがありました。
「え? 嘘! まだ持ってたの?」
 それは、いつだったか、私の苛立ちの種になった父の神戸土産のバービー人形でした。力の母親の見立てに違いないという難癖と共に、彼に押し付けたままになってたものです。
「驚いた……捨てなかったのね」
 うん、と言って、力は照れ臭そうに笑いました。
「女、捨てたら駄目でしょ」
「……人形でも?」
「人形でも」
 私たちは、同時に噴き出しました。そして、笑顔で、共に、少年少女の時代と決別したような気がします。(中略)
「人の心を痛め付けると、自分の心も痛め付けられて当然のものに成り下がるよ。麗子お嬢さま!」
 私が思わずかっとして手を振り上げるのと、力がその手首をつかんで私を抱き寄せたのは、ほとんど同時でした。
 何が起こったのか、まったく解らないまま、私は、力に押し倒されるようにして、テーブルに後ろ手を突きながら、口づけを受けていたのです。そして、それは長い時間、続けられたのでした。(中略)
 ずい分前から、私は、誰かにこうしてもらいたかったのかもしれない、と思いました。私の不遜な舌の自由を奪って、好きにすること。最初にその役目を果すことになるのが力だとは予想だにしていませんでしたが。
「これは、仕返し? お返し? それとも……」(中略)
「これが、ホーシューや。今までの分。おれ、阿呆にも偉人にもなれんかった」
「リキくん、キス上手ね」
「タカさんに教えてもらった」(中略)
「私も結んだことあるのよ?」
 二人は、再び、ひとしきり唇を合わせた後、静かに抱き合っていました。(中略)
 力は、いつのまにか濡れていた私の目尻を拭って笑いました。
「嘘の涙でもない、本当の涙でもない。おれ、こういう涙がいいや」(中略)
 その数年後、結局、私は、間宮拓郎と結婚することになりました。(中略)
 間宮の家に嫁いだ後も、あのバービー人形は、ずっと私と共にあります。鏡の前で髪をくしけずったり、香水を耳になすり付けたりしながら、ゆったりとした気持でながめると、ふと、彼女の方からも見詰め返されているように感じる。そして、語りかける声が聞こえて来るのです。ほかしたらあかんよ。
 そんな時、穏やかな水を張られた私の人生に、熱く焼けた石が投げ込まれたような気がする。そして、その飛沫を浴びて、記憶の中の私は、何度も何度も火傷を負うのです。

第三部
 私のファースト クラッシュも力(りき)が相手だった、と告げた時の姉の咲也(さくや)の反応は妙なものだった。(中略)
「そう? 私は違うと思うよ(中略)リキと薫子(かおるこ)のじゃれ合い見てても何も感じなかったもん。あんたの何にもクラッシュしなかったでしょ?」
 ああ、憎たらしい、と突き飛ばしてやりたい気持が湧き上がるが、その瞬間、深く呼吸すると治まる。私はもう子供じゃない。四十もなかば。(中略)でも、何故だろう。姉たちに会うと、途端に、高見澤の家のちびっ子だった昔に逆戻りする。あの、神戸からやって来た少年に何の思惑もなく飛び付いていた頃に。(中略)
 父の死後、固い結束を誓い合った高見澤家の面々だったが、時が流れるにつれて、皆、冷静さを取り戻して行き、いつのまにか家長の不在に慣れた。(中略)

(また明日へ続きます……)

山田詠美『ファースト クラッシュ』その6

2021-06-22 11:52:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 拓郎は、私を単なる幼馴染みとしか見ていなかったというのが正しい理由。私なんて、恋愛対象どころか、彼女自慢したくなる仲良しとすら思われていなかったのです。(中略)
 まだ見ぬ拓郎の恋人と、話に聞く力の母親のシルエットが重なりました。すると、拓郎が憎いのか、力が憎いのかが解らなくなってしまいました。(中略)
 復讐という二文字が脳裏にくっきりと浮かび上がりました。(中略)あんないさかいの後でも、力は何もなかったように、私の側に寄って来る筈だったのに。それこそが力っぽいやり方なのに。だからこそ私は、何もなかったように慈悲の心で微笑みかけてやろうと待ちかまえていたのに。(中略)
 その日、母は、例の「サンルーム」と呼ぶ温室で、お茶会を催すことになっていました。(中略)
 私は私で、ヴァイオリンで一曲披露することになり、練習に打ち込んでいました……と、同時にちょっとした復讐を仕込んでいたのです。(中略)
 お茶会は、なごやかに進み、社交辞令も一段落する頃、誰かれともなく、私のヴァイオリン演奏を望む声が聞かれました。(中略)
「お言葉に甘えて、演奏させていただきます。でも、その前に、私から提案があるんです。ここに、せっかく、須藤綾子さんがおいでになっているんですもの。詩を読んでいただきたいなって……」
 素敵だわ! という声が飛びました。(中略)
「実は、私、須藤さんをお連れになるって、間宮のおばちゃまからうかがったので、嬉しくなって、どうしても読んでもらいたい詩を持って来てるんです」(中略)
「まあ、中原中也ね。懐かしい……昔、NHKの番組で読んだことがあるわ」(中略)

 愛するものが死んだ時には、
 自殺しなけあなりません。

 愛するものが死んだ時には、
 それより他に、方法がない。

 けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が強くて、
 なほもながらふことともなったら、

 奉仕の気持に、なることなんです
 奉仕の気持に、なることなんです。

 愛するものは、死んだのですから、
 たしかにそれは、死んだのですから、

 もはやどうにも、ならむのですから、
 そのもののために、そのもののために、

 奉仕の気持に、ならなけあならない。
 奉仕の気持に、ならなけあならない。

(中略)
 私の企みは成功したようです。力はあおざめ、かすかに眉のひそめられたその横顔は、ほとんど美しいと言えるほどひそやかに大人びていた。(中略)
 思い通りに力に復讐したつもりの私のヴァイオリン演奏は、しかし最悪でした。(中略)
 かろうじて役目を終えた力は、会釈をして温室の外に出て行きました。(中略) 
 力は、すぐに見つかりました。(中略)泣いていました。(中略)私は、いったい何を見たかったのでしょう。惨めな力の姿? いいえ、そうではなかった。惨めさを不敵にはね飛ばす彼の厚かましさ。私は、それを目の当たりにして、もう何度目になるか解らない悔しさに身悶えして、地団駄を踏みたかったのです。(中略)
 私、馬鹿だ。(中略)
「さっきの詩いやけど……」
 私は、気まずさのあまりに身の縮む思いでした。(中略)
「あれ、ええ詩やね」
「……本当にそう思ったの?」
「うん。心にぐっと来よう。それて、ええ詩やってことやろ?」
「そ、そうね……」
「聞いてたら、ほんまにかあちゃん死んでもうたんやなって思おて、ぐっと来た」(中略)
「この家の女の人ら、みんなで寄ってたかって、おれのこと、はみ子(ご)にしよる。それ、なんでですか?」
 はみ子が仲間外れを意味するだろうことは、何となく解りました。(中略)
 と、そこまで思ったら、初めて経験する甘い悲しみに襲われて、私は、泣き出してしまったのです。(中略)
「なんで、おまえが泣いとう?」
「リキくんが可哀相で……ごめんなさい。私、ひどいことして、ごめんなさい」(中略)
「嘘泣き」
 ええっ!? と思いました。この私が泣いているのに!(中略)
「リキくんなんか大嫌い!」
「おれもや」(中略)
 その日を境に、私と力の間は険悪になるだろうと覚悟していたのですが、そんなことはありませんでした。(中略)
 でも、違うのです。
 私たちには、目に見えない決定的な隔たりが出来てしまったのです。(中略)そして、それは、まさに私にとっては望ましいことであった筈。(中略)
 でも、もう、力は、ふざけた調子で麗子お嬢さまと呼んでくれることもなくなってしまいました。(中略)
 私は、ひとりで駅に向かう道すがら、力を取り巻くさまざまなことがらから「はみ子」にされたように思えてなりませんでした。
 でも、良いのです。(中略)私は、私の世界に君臨する永遠のお姫さま。母のように、ひとりの男のせいで不幸になったりしない。決して。
 それなのに、運命とは皮肉なものです。私は、母を苦しめたのと同じ男に、悲劇のどん底に突き落とされることになるのでした。

(また明日へ続きます……)

山田詠美『ファースト クラッシュ』その5

2021-06-21 11:32:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 あ、でも、下々の者たちを馬鹿にしている訳ではありません。(中略)下々の者たちには下々の者たちの世界がちゃーんと存在しているのは百も承知なんです。(中略)
 そんな私は、誰に媚を売る必要も感じていませんが、父にだけは悪い印象を与えたくなくて、わざと必要以上に甘えたりします。(中略)
 大人である今なら、父は女性の扱いに長(た)けた人で、三姉妹それぞれが好むようなやり方で接していたのだと解るのですが、当時は、自分だけが特別扱いされているように感じていたのです。(中略)
 父のような人間を「人たらし」と呼ぶのかもしれない、と仕入れたばかりの言葉を当てはめて、したり顔で頷いた私は、中学一年生だったでしょうか。(中略)
「麗ちゃん、ほら、神戸のお土産。この間、ヴァイオリンの発表会、出張で行けなくなっちゃったからね。そのお詫び」
「おとうさまったら! 麗子が欲しいって言ってたのは、このバービーじゃないのに」(中略)
 私のバービー人形は、新堂力の母親との逢瀬を誤魔化すアリバイみたいなものだったのです。
 後に、そこに思い当たって、私の自尊心は、いたく傷付けられました。(中略)
 おかあさまをだますなんて、ひどい! でも、私を誤魔化した罪の方が重大だわ。(中略)
 私が、父と力の母親との関係を知ったのは、ふとした偶然からでした。夜中に通り掛かった両親の寝室の扉が少し開いていて、そこから洩れ聞こえる彼らのいさかいに驚いて足を止めてしまったのです。(中略)
「いつのまにか、ここんちの人、みーんな、おれとかあちゃんの事情、知っとうね」(中略)
「あなたが隠そうとしないからじゃないの」
「うん」(中略)
 咲也は、力との会話の流れで事の次第を理解したということでした。(中略)
(薫子は言いました。)「麗子おねえちゃまは、優しい人のお面をかぶってる!」
 お面!? それを言うなら仮面でしょ、とつかまえて正したい気持になりましたが、こらえました。(中略)
「麗子さんは、おれがどないしたら満足してくれはるんですか。地面に手を突いて、ごめんなさいごめんなさい、かあちゃんは、もう死んでしまいましたからと言うとったらええんですか」(中略)
「おれ、麗子さんのために働きます。報酬はなしでいいです」(中略)
 報酬はなしで働くと宣言した力でしたが、彼は私のために何をして良いのか解らないようで、私は私で何をさせるべきか見当も付かないまま、日々はただ過ぎて行きました。(中略)
 力は、父が留守中の場合のたったひとりの男手として重宝されているようでした。(中略)
 いつのまにか、力は、高見澤家の一員になったかのように見えました。(中略)
 父? あの人は、どうでも良いのです。あの瞬間、高見澤家の男は力だけであり、父は、仲間外れにされていたのですから。(中略)
 ……と、ここまで考えて、急に恥ずかしくなってしまいました。どうして、父の愛人の子となんか親しくならなきゃいけない訳?(中略)
 ところが、別の自分が耳許で、こう囁くのです。妹たちに出し抜かれても良いの? と。力の所有権は、ヒロインのあなたにあるんじゃないの? 麗子。(中略)
 ある朝、玄関先で力と鉢合わせした私は、靴を履いている彼に言ったのでした。
「そこにある私の鞄もお願いね」(中略)
 そうして、力は、私のお付きになりました。(中略)
 とにかく、私のことは、麗子さんと呼ぶように、と約束させました。力は、素直に従っていましたが、私の機嫌が良くなくて返事もしないような時には、こう呼ぶのです。
「麗子お嬢さま」(中略)
「麗子さんは、お嬢さまと呼ぶのに相応しい方です。そして、そんな麗子お嬢さまのお相手である拓郎さんのことは、拓郎坊っちゃまと呼んでも良いです」(中略)
 その日を境に、どうも私を取り巻く状況が妙な方向に進んで行ったのです。(中略)だって、拓郎と力があんなにも仲良くなってしまうだなんて予想だにしていなかった。(中略)
 しかし、一番信じられないのは、母が何かにつけて力を頼りにしていることでした。(中略)
「男が女に夢中になるのをなんと言うか、知っとう?」
 私が答えに詰まっていると、力はぽつりと言いました。
「首ったけや。おじさんは、おれのかあちゃんを大事にせんかったけど、首ったけやったんや」(中略)
「なーにがお嬢さまや。ヒロイン気取りよって、ばーり笑えるで」(中略)
 許さない。そう呟いた途端に泣けてきました。こんなにも自分を惨めにさせたのは、力が初めてでした。(中略)
 咲也に呆れられるまでもなく、成長するにつれて、私の周囲には本気で私をお姫さま扱いしてくれる人の数が減っているのに気付き始めていました。(中略)
「もう、行きしに荷物持ってやるんは止(や)めます」(中略)
「付いて来んでもらえます?」(中略)
「ピンチだわ」

(また明日へ続きます……)