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山田詠美『ファースト クラッシュ』その4

2021-06-20 16:27:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

「ねえ、咲也ちゃん、このおうちで、おとうさま、仲間外れだよね」((中略)
「だってさ、おとうさまだって男の人なのにさ、このおうちにいる女の人たちは全員、リッキに夢中なんだよ?」
「あんたもそうだってこと?」
「もちろん!(中略)タカさんだって、リッキを特別扱いしてるよ。口の中で、桜んぼの枝を結ぶやり方を教えてるのを見た」
「はあ!?」
「なーんか、やだよね。タカさん、もうおばあさんなのにさ。口の中で枝を結べると、キスが上手になるんだってさ。(中略)」
 私は、そんじょそこらの女子供とは違うのだ、とほとんど確信に近い思いを抱いていた。(中略)
「三年の坂下ルミ子さんているじゃない? 新堂くんと付き合い始めたって噂だよ。ほら、坂下先輩っていったら、男子の憧れの的でしょ?(中略)」
 不憫だった筈の私は、あっと言う間に蹴散らされてしまった。すると、入れ替わるように私の内に新鮮な怒りが注ぎ込まれたようだった。(中略)
「坂下先輩に好かれてそんなに嬉しいかって聞いてるんじゃないの!」
 ああ、と言って、力は、私に近寄った。
「な、何よ」
「それ、やきもちなん?」(中略)
 夢中で否定していた私だが、我ながら不本意な言葉を羅列しているのに気付いて力に目をやると、彼は、私の顔ではなく、もっとずっと下の方を見ている。(中略)
 制服のスカートの裾から覗く足を伝って血が流れていたのである。(中略)
 この瞬間は、自分の人生の中で最大の汚点となるであろうと思った。(中略)
「あほやなあ」
 力は言って、水槽にその先を突っ込んだままのホースを拾い上げ、水道の蛇口を捻った。
「靴と靴下、脱いどき」
 私は、力の言葉に従った。(中略)彼は、(中略)足を伝う血を洗い流した。(中略)
「リキ」と、私は呼んでみた。(中略)
「ごめんね、今までのこと」
「うん、ええよ」
「私、リキが好き」
 力は、顔を上げて私を見た。
「知っとうよ。でも、ごめん。おれ、好きな人、おる」
「うん、解った」
 私は、またひとしきり泣いた。(中略)
「おまえて呼ばれんの、嫌やったんやろ?」
「……まあね」
「でも、それ、親愛の情だし。自然と出て来(き)よう」
「そっか、なら、いいや」((中略)
「かあちゃんが、ある時、寂しそうに笑って、この人とうちはもうあかんなって思てしもうてね、と言ったんだよね。そしたら本当におじさん、来るの止(や)めちゃった」(中略)
 国語の赤羽先生が言った。(中略)
「じゃ、片岡、その詩を読んでみて。ぼくが藤村で一番好きなやつなんだよねえ。『初恋』」(中略)
 ところが、片岡くんの読み上げる詩を聞いている内に、私の心がおかしなことになって行ったのだ。(中略)

「やさしく白き手をのべて
 林檎をわれに与えしは
 薄紅の秋の実に
 人こい初めし はじめなり」

 台所で、齧りかけの紅玉を私に投げてよこした力の手が、閉じた瞼(まぶた)の裏側に映し出されて、ゆっくりと動いた。(中略)私は、今、泣いているんだよ。(中略)
 したり顔の文学少女でいるのを、その時、止(や)めた。これが、私の、ファースト クラッシュ。
 と、いうようなことを、バーのカウンターで、久し振りに会った妹の薫子に話していたのである。
 幼い頃は、憎まれ口を叩き合い、それが喧嘩に発展することもしばしばだった。けれど、大人になってからは、距離を置いた良き友人のように付き合えるようになった。((中略)
 私の話をじっと聞いていた薫子は、ファースト クラッシュかあ……と溜息をついた。そして、打ち明ける。私のそれも、実は、リッキが相手だったんだよ、と。

第二部
 麗子(れいこ)ちゃんは、三人の中で一番おかあさまに似てらっしゃるわね、と幼い頃から言われて来ました。(中略)
 それは、その通りなんだけど、本当のところ、私は、自分と母を同一視して欲しくないの。だって私は、母のように男(父ですけどね)に振り回されてズタボロになるようなことは絶対にない。もっと気高い存在の筈。そうじゃないこと?(中略)
 妹たち二人は、頻繁に会っているようでした。いったい何を話すのやら。(中略)
 あの頃、私は、常に自分自身をヒロインに仕立て上げていて、それは誰にも邪魔されずに成功していました。(中略)
 新堂力が私たちの家にやって来た時、私は、それまでにない胸の高まりを覚えました。(中略)
 興奮しました。だって、またひとつ、私をヒロインにする要素が加わったのですから。しかも、この男の子は、薄汚れているけれども、たいそう魅力的な顔をしている。(中略)
 目の前の男の子には、色々な役割を与えられると確信しました。(中略)
 私は、おっとりとお嬢様じみたところが母譲りだと、少なからぬ人々に認識されていました。でも、それは正しくありません。
 母は、他人から良い印象を持たれるべく常に気をつかっている人。でも、私は、自分自身にまず気をつかう。

(また明日へ続きます……)

山田詠美『ファースト クラッシュ』その3

2021-06-19 12:31:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 心を搔き乱す、という言い回しを当時は知らなかったが、私の心は明らかに搔き乱されていた。(中略)
 何度も何度も思い出した。私と母に見られているとも知らずに、陽ざしの中で水浴びをして浮かれていた力の姿を。(中略)
 私は、自分がそうさせた訳でもないのに、力の泣くのを目の当たりにして、とてつもない達成感を覚えたのであった。(中略)
 解った。閃(ひら)めいた。それは、不憫、だ。(中略)
 そこまで思うと、私は自分が力より偉いような気になった。不憫な男に心をつかまれて、ざまあみろと思いながら胸を「キュン」とされている。いや、キュンどころではないのだ。だって、心は今にも握りつぶされんばかりになっている。(中略)
(タカさんは言った。)
「もちろん、手で触りたくなるのは当然ですが、他のものだって手を使うでしょ? 他ならぬ唇で触れたいと最初に思った人が初恋の相手なんですよ」(中略)
 私は、不憫な力を労(いたわ)りたいのだ。(中略)
 大人になり、男と付き合う経験を幾度かして解ったのだが、私が力に対して思ったような気持ちを私に対して持つ男も、少なからず、いた。きっと、不憫が一種の媚薬として機能する人種というのがいるのだ。(中略)
 十代の私に、そんなことは解る筈もなかったけれど、似たものは感じていた。(中略)
 私は、人より初潮を迎えるのがずい分と遅かった。(中略)
 とりわけ男女のことに関しては、早熟な知識を身に着けていた。古今東西の恋愛小説を、理解出来る言葉を選んで、とは言え幅広く読んでいたし、テレビの洋画劇場なども、うたた寝するふりをして、ラブシーンだけはしっかりと目に焼き付けた。(中略)
 しかし、新堂力がやって来て、私の頭の中で渦巻いていたファンタジーを現実が侵食して行ったのだった。(中略)
 温室の中で、母は力に対して優しく語りかけ、紅茶を淹(い)れて勧めることがあった。(中略)
「それで、リキさん、誠おじさんが神戸に行った時は、どうやって過ごしていたのかしら」(中略)
「おじさんは、神戸に出張に来た時には、かあちゃんが働いている新開地の店に行って、帰りは一緒に帰って来て、そのまま何日か、うちに泊まって行きました」(中略)
「だから、おじさんとお母さんは一緒に寝てたのね?」
「そうです」(中略)
「かあちゃんとおじさんは、ぼくが寝てしまうまで、お布団の中でずうっと話をしていました」
「何を話していたの?」
「解りません」(中略)
「大丈夫よ、大丈夫、もっと聞かせてちょうだい。三人で行った場所、全部、教えてちょうだい」(中略)
 子供心にも、母のしていることが歪んだ形の折檻(せっかん)であると解った。駄目だ、こんなの。(中略)
 私は、母を止めようとした。これ以上続けたら、彼女の品格のようなものが消え去ってしまうと恐れた。(中略)
「かあちゃん、愛しとうよって、おじさんに言うた。それ聞いて、おじさんは、かあちゃんをギューってして、おれもおれもって言うて、だから、ぼくも、おれもやおれもや言うて飛び付いて、三人で団子みたいになりよった。ほんで……」
「もういいわ」
「でも、おばさん……」
「もういいって言ってるでしょ!」(中略)
「おばさん、可哀想やな」
 そして、続けた。
「おじさん、うちのかあちゃんのこと、好きで好きでたまらんかったらしいで」
 ひーい、ひーい、と今度は、母が泣き始めた。(中略)
 上履きを洗う必要のなくなった中学に入っても、力は温室に出入りしていた。(中略)
 私は、まるで習慣のように、温室に通う力の後を付けていた。(中略)
「咲也ちゃんとリッキって、なーんか変」
 妹には、たびたび言われた。(中略)
「うん。咲也ちゃんが、これでもかこれでもかってくらい、ひどいこと言って、リッキは、悲しくて死にそうな顔をするのに、すぐに立ち直るの。そして、二人で何もなかったみたいに話し出す」(中略)
 いちいち傷付いているようだった力も、次第にどこ吹く風という感じになり、時には笑いをこらえてもいた。(中略)
「リッキ、おいで!」
 まるで、大きな犬を呼ぶかのように、薫子は、力に声をかけた。(中略)薫子のペットみたい。ううん、本当にペットなんだ。ペットの分際で、あんなに楽し気にくつろぐなんて。
 そう自分に言い聞かせた時の気持、あれは、明らかにやきもちだった。(中略)
「私、見ちゃったんだよ。家を出たらすぐ、麗子おねえちゃまが、何も言わないで、鞄をリッキに差し出して、そして、リッキは、両手でそれを受け取ってんの」(中略)
「私は、このおうちもみんながリッキのせいで変なになっちゃうのが見たいんだよ」
「なんでよ」
「だって、リッキにはパワーがあると思うんだ! 嵐を呼ぶ男っていうのを、私も見てみたいんだよ」

(また明日へ続きます……)

山田詠美『ファースト クラッシュ』その2

2021-06-18 10:16:00 | ノンジャンル
 昨日からの続きです。

 私は、幼い頃から「パトロール」と称して、家の中を徘徊していた。(中略)
 力が母や姉の優しさに乗じていい気にならないよう目を光らせていた私だったが、彼が模範的居候とでも呼ぶべき控え目な態度を取り続けているのを知り、拍子抜けした気分だった。(中略)
 タカさんというのは、私の生まれる前から高見澤家で働いている通いの家政婦さんだ。(中略)
 そのタカさんの方でも、この家の中で私を一番気に入っていたようだ。話し相手にもって来いというのがその理由。母と姉は品が良過ぎるし、妹は幼な過ぎる。何よりも、ここで下世話な話題に興味を持つのは私だけだったのだ。(中略)
(タカさんが言うには)
「女だけの平和な空気が流れていたのに、あの子が入って来てから、なんかあちこちで波風が立ち始めたような気が」(中略)
「でも、あの子に同情するたびに胸がキュンとしてしまうんですよ。そのたびに何か良からぬ予感が……」
 タカさんがすごいのは、こういうとこ。この何年か後に、「胸キュン」という歌詞の入った曲がはやるのだが、彼女は、ずい分前に先取りしていたことになる。(中略)
「リキさんは、学校でちゃんとやれてるんですか?」
「それは、大丈夫」
 タカさんに尋ねられて、そう答えたけれども、実は大丈夫どころか上々と言っても良いくらいだった。そもそも転校生は皆の関心を集めるものと決まっているけれども、(中略)誰もが近寄って来て、彼の気を引こうとやっきになったのだ。(中略)
「ねえ、リキのお母さんって、神戸で何やってた人なの?」
「知らない」
「えー? 知らない訳ないんじゃなーい?」
 いちいち突っ掛かる私に、力は、もう敵意を持つのも疲れたように投げやりに言った。
「おれ、ほんまに知らん。大人の仕事のことは本当に解らない」
「何さ。そんな訳ないじゃん」(中略)
 ある日、力は、思いも寄らない行動に出た。(母が自慢の温室の)蛇口にホースを接続して、その一番はしを自分の頭上に掲げ、流れ出る水を浴び始めたのだ。(中略)
 呆然としたまま、私は、ただ力に心奪われていた。やがて、猛烈な喉の渇きを覚えて我に返った。(中略)力のこしらえたあの簡素なシャワーの中に飛び込んでしまおうか。そして、彼のように口を開けて、同じ水を飲む。
 想像しただけで胸がどきどきした。(中略)
 さあ、冒険! と自らを鼓舞した私が、足を踏み出そうとした時、力は、またもや予想外の動きを見せた。
 彼は、ふと思い付いたかのように、自分の指でノズルにしたホースの先を温室の方に向けたのだった。(中略)
 私は、その光景に見入っていた。(中略)
 突然、ガラスに当たる水音がゆるくなり、私は我に返った。と、同時に、温室のドアが開き、母が出て来た。(中略)
「こちらに、お入りなさい」(中略)
 ぐずぐずしている力を、母は、早く! と言って追い立てた。二人はするりと飲み込まれるようにして温室に入った。
 その一部始終を見ていた私は、忍び足で彼らの後を追い、開け放たれたままのドアの陰から中を盗み見て聞き耳を立てた。(中略)
「さっき、ずい分とのびのびしていたようね」
「え?」
「水浴びしてたでしょ?」
「すいません」
「あら、謝ることないのよ。(中略)でもね、リキさん、あなたがこの家で幸せいっぱいになってるって、何か変ね。(中略)神戸の家でもおんなじようなことやってたんでしょ? あなたのお母さんも一緒になって、はしゃいでたんじゃない?」(中略)
「おじさんも踊った。(中略)ぼくもかあちゃんも一緒になって踊った。(中略)」
 母は、憤然と立ち上がると、温室の外に走り出て、水が流れるまま地面に放って置かれたホースの先をつかむと、中にいる力にそれを向けた。
 水は力を直撃し、彼は椅子から飛び上がった。
「おばさん、何しよう!?」
「楽しかったんでしょ? 水浴びして楽しかったんでしょ?」(中略)
 力は、降り注ぐ水を避けようとして、狭い温室内を移動し、母は、そんな彼を執拗に追った。
「おじさんが来(こ)うへん日が多くなって、その内、ほんまに来うへんくなりました。(中略)」
 いいわ、と母は、ぽつりと口にした。
「もう、いいわ。このホース、片付けといてちょうだい。家の中に入る前に足をちゃんと洗うのよ」(中略)
 しかし、その瞬間、彼はしゃくり上げたのだった。(中略)
「……リキ」
 見なかったように振る舞うつもりでいたのに、その名前が口からこぼれた。(中略)
 いけない、と手で自分の口許を押さえた時には遅かった。力は、顔を上げてこちらを振り返った。(中略)
「たまたま通り掛かったんだけどさ、リキ、あんた、おかあさまにサンルームで叱られてたんじゃない?」(中略)
「通り掛かったのなんて嘘や。おまえ、おれのこと、いっつも見とう」
「お、おまえ!?」
 生まれて初めて、そんな乱暴な呼び方をされた。

(また明日へ続きます……)

山田詠美『ファースト クラッシュ』その1

2021-06-17 17:04:00 | ノンジャンル
 山田詠美さんの2019年の作品『ファースト クラッシュ』を読みました。

第一部
 初恋をファースト クラッシュと呼ぶのを知ったのは、もう何年も前のことだ。(中略)
 初恋は、しばしば「ファースト ラヴ」と訳されるけれども、そこでイメージされる淡い想いとか甘酸っぱい感じとは全然違うと私は感じている。少なくとも、私の場合は違っていたということだ。可愛らしく微笑ましいものなんかじゃなかった。それは、相手の内なる何かを叩き壊したいという欲望。まさに、クラッシュな行為。(中略)
 私は、もうじき五十に手が届こうとする年頃で、周囲からはすっかりおばさん扱いされているが、実は、脳みその中にはクラッシュされた欠片(かけら)がびっしりとちりばめられていて、それらは常にきらめいているのだ。(中略)
 折りにふれて過去に旅をして、それらを鑑賞するのだ。若い頃には絶対に味わえなかった楽しみ。私は、自分が遭遇して来たいくつものクラッシュについて、これから反芻(はんすう)するのを止(や)めないだろう。(中略)
 私は、自身の過去をながめる。これが至福か。中でも、一番最初の、まさにファースト クラッシュと呼ぶべきものについて思い起こす時、大事な宝物が過去に埋まっているのをつくづくと知る。(中略)
 人間のすべては、過去にある。(中略)
 マイ ファースト クラッシュと呼ぶべきは、明らかにあの出会いから始まった数年間のことだろう。私は、十歳で、二つ上の姉、四つ下の妹にはさまれて、既に世の中をなめていた。三姉妹は、皆いちように甘やかされて育ったが、外見も性格もまるで違っていた。
 愛くるしい容姿と清らかな心を持ったと評判の姉は、時に天使を連想させ、活発な妹は、あどけない表情とやんちゃな立ち振る舞いで見る人を元気付けた。私は、と言えば、常に仏頂面で愛想の欠片もなかったが、顔立ちだけは整っていたので、常に抱えていた本と込みで、知的美人のお嬢さんと呼ばれていた。(中略)
 ……と、いうように、私だけ、ひねこびた嫌な子供だった訳だが、それでも「高見澤家のお嬢さん」には変わりなく、裕福で恵まれた家に育つ者としての恩恵を十二分に受けていた。そして、そのことに何の疑いも抱かなかった。あの子がやって来るまでは。
 突然、父に連れられて我が家にやって来た少年の名は、新堂力(りき)といった。これから、私たち家族と生活を共にすることになるという父の言葉に、私たち姉妹は顔を見合わせた。
「親しかった人の息子さんなんだよ。お母さんが亡くなって、力くんには身寄りがなくなってしまったんだ」
 みなし子! と妹が叫んで、姉に口を塞(ふさ)がれた。(中略)
 母は、いつものように品良く控えめな笑みを浮かべていた。しかし、誰もが気付かないであろう唇のはしの歪みを私は見逃さなかった。(中略)
 新堂力は、私と同じ学年に編入するという。本当だったら六年生なのだが、事情があって一学年下になる、と父が言った。
「リキって変な名前。それに、この人、なんか汚―い」
「薫子(かおるこ)!」
 姉の麗子(れいこ)が、すかさずたしなめた。(中略)
「ねえねえ、このリキって子、お父さんはいないの?」
「お父さんも、ずい分前に亡くなったんだよ」
「へー、すごく可哀想なんじゃない? 解った! 薫子、妹になってあげる。きょうだい出来たら嬉しいよね? ねっ、ねっ」
(中略)ところが姉は、私の耳許で囁(ささや)いたのである。
「ねえ、咲也(さくや)ちゃん、リキくん、ハンサムよね?」
「え!? そう?」(中略)
「麗子ちゃんの言うことって、ほんと解んない。あの子、なんか薄汚れた感じがするよ」
「駄目よ、咲也ちゃん、あなたまで、そんな意地悪言ったら! お風呂に入ればすむことでしょ!?」
 そういう表面的な問題ではないんだがなあ、と私は思った。あの子、お風呂に入っても落ちない垢のようなものがこびり付いている気がするよ、と。(中略)
 力は、私たち三姉妹と血はつながっていなかったが、父の愛人の子ではあった。そのことを教えてくれたのは、力自身だった。子連れのかあちゃんをおじさんが好きになったんだ、と彼は言った。(中略)
「楽しいんやろ? おれにひどいこと言えば言うほど楽しくなるんやろう?」
「……ち、違うよ……」(中略)
 高見澤家に入り込んで来た異物がいい気にならないように監視しなくちゃ。私は、使命感にかられたように力に付きまとっては、嫌がらせをした。途中、自己嫌悪に陥りそうにもなったが、見張り番なのだから仕方ないと思うことにした。心づかいに満ちたこの家で、私が憎まれ役を買って出る。平和を乱そうとする奴は、私がこらしめてやる。(中略)
 私は、憐れむべき少年である力に心惹かれていたのだった。(中略)
 力は、母と姉の正体を知っているのだ、と思った。みーんな、おれを苛めるのが楽しくてたまらないんだ。彼は、そう言ったではないか。

(明日へ続きます……)

斎藤美奈子さんのコラム・その86&前川喜平さんのコラム・その47

2021-06-16 10:15:00 | ノンジャンル
 恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。

 まず6月9日に掲載された「持続可能な答弁」と題された斎藤さんのコラムを全文転載させていただくと、
「━総理の一番の強みは何だとお考えですか。
 どんなに問い詰められても動じないことじゃないでしょうか。官房長官時代もそうしたやり方で乗り切れました。
 ━具体的には?
 「まったく問題ない」「そうした指摘は当たらない」「仮定の質問にはお答えできない」。こうした答え方です。
 ━同じ言葉を繰り返していればすむと?
 そう考えています。
 ━総理大臣就任後も方針は変わりませんか?
 今は紙を読むだけですので問題ありません。
 ━日本学術会議の任命拒否の際にはずいぶん批判されました。
 あの時は二種類の答弁で乗り切れました。
 ━「総合的、俯瞰(ふかん)的な観点から会員の任命を行った」と「人事に関することなので、お答えは差し控える」ですね。
 忘れましたが、そうだったと思います。
 ━緊急事態宣言下で五輪が開催できるのかと問われておりますが。
 感染対策をしっかり講じ、安心して参加できるようにするとともに国民の命と健康を守っていくと申し上げています。
 本日の党首討論でもその紙を読みますか?
 そのつもりです。そして感染対策をしっかり講じて安全安心の大会にするとともに国民の命と健康を守って…。
 ━以上、官邸から「いつでも誰でもできる答弁の方法」をお伝えしました。」

 また、6月16日に掲載されていた「空襲と敗戦の記」と題された斎藤さんのコラム。
「本当に女学生の日記なの? というほどの完成度。「文藝春秋」7月号に掲載された「田辺聖子『十八歳の日の記録』は他に類を見ない戦争と敗戦の記録だった。
 日記の日付は1945年4月1日から46年12月31日まで。
 6月1日の大阪大空襲の模様は2日の日記に記されている。その日彼女は在籍する樟蔭女子専門学校から歩いて帰った。立ち上がる炎と黒煙。ひっきりなしに通る消防車。ようやく帰りつくと「田辺さん。田辺さん」と呼びかけられた。「えらいことでしたなあ、お宅。焼けましたなあ」。冷静な筆致でつづられたこの日の日記はほとんどルポルタージュである。
 一転、8月15日の日記はまるで檄文(げきぶん)。〈何事ぞ!/悲憤慷慨(こうがい)その極みを知らず、痛恨の涙滂沱(ぼうだ)として流れ肺腑(はいふ)はえぐらるるばかりである〉
 先の戦争は総力戦だった。二つの記述から浮かび上がるのは、プライベートな自分と国家が求めるパブリックな自分に引き裂かれた姿である。
 しかし彼女は徐々に覚醒する。はじめて政府批判が登場するのは46年4月23日。〈神風特攻隊の人々になんの悪いところがあろう。あの人たちは国のために、大君の為に、死んで行ったのだと思う。皆、上の人々が悪かったのだ〉
 観察眼と洞察力を備えた人の日記。身辺雑誌をこえた、魂の成長の記録である。」

 そして6月13日に掲載された「党首空論」と題された前川さんのコラム。
「九日の党首討論。聞いていてイライラを通り越して絶望的になった。菅首相が質問に答えず、関係ないことばかりしゃべったからだ。
 立憲民主党の枝野代表が、五輪を契機に国内で感染が広がり、国民の命と健康が脅かされるのではないかと聞いたのに対し、菅首相は来日する五輪関係者の人数の縮小や海外メディアのGPSによる行動管理などについて話すだけで、国内の人流増加に伴う感染拡大の危険について全く答えなかった。それどころか、五十七年前の東京五輪の思い出を延々と話した。枝野氏の持ち時間を減らす時間つぶしだ。
 共産党の志位委員長は国民の命を危険にさらしてまで五輪を開催しなければならない理由を問うたが、菅氏は国民の命と安全を守るのは私の責務だと言うだけだった。
 新聞やテレビには「すれ違い」「かみ合わない」「空回り」などの言葉が並んだが、双方に責任があるような表現はおかしい。責任は百%質問に答えない菅首相にある。
 法政大学教授の上西充子氏は、聞かれたことに答えない菅氏の態度を、質問を食べてしまう「やぎさん答弁」と呼んでいる。自らの政策を説明することは、民主国家の首相が国民に果たすべき第一の責任だ。菅氏はその責任を全く果たさず、討論を「空論」にした。国民に対して失礼じゃないでしょうか。」

 どの文章も一読に値する文章だと思いました。