大橋みつるの平和ト-ク・・世直しご一緒に!

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日本語版新聞紹介

あなたの署名を国連へ

2006-03-27 | 世界の変化はすすむ
核兵器廃絶新署名が はじまる。 

 For Swift Abolition of Nuclear Weapons

すみやかな核兵器の廃絶のために
 
 1946年1月、国連が最初の総会で核兵器廃絶の第一号決議を採択してから、60年がたちました。世界の圧倒的多数の人々や政府が核兵器禁止を要求しているにもかかわらず、地球上にはなお人類を絶滅させるほどの、大量の核兵器が蓄積・配備されています。

 とりわけ最大の核保有国アメリカは、将来にわたって強大な核兵器をもちつづけようとしています。「テロや核拡散の危険」などを理由に戦争をおこない、核兵器使用の計画や新型核兵器開発をすすめています。このような行動は国連第一号決議や2000年に核保有国政府も同意した「核兵器廃絶の明確な約束」、さらには「戦争の惨害から将来の世代を救い」「国際紛争を平和的手段によって解決」するという国連の基本原則に反するものです。

私たちは、被爆者とともに「ヒロシマ・ナガサキをくりかえすな」の声を世界にひろげ、いくたびか核戦争の危険をくいとめ、核兵器廃絶の地球的な流れを築いてきました。この歴史を未来につなぎ、21世紀を人類が核兵器の危険から解放された時代とするため、世界中で人びとが声をあげ、行動しています。「核兵器拡散」の危険も、核兵器を全面的に禁止してこそ確実に防ぐことができます。

 核兵器の無い平和で公正な世界を求める私たちは、そのための緊急の課題として、国連と、核保有国をはじめとするすべての国の政府にたいし、核兵器全面禁止・廃絶の国際協定の実現にむけ、すみやかに協議を開始するよう要請します。
                                          2006年3月


という新しい国際署名運動が、日本原水協内に事務局を置く「国際署名キャンペーン事務局」から、全世界で取り組まれるよう呼びかれられることになった。
 みなさんに署名のご協力を心からお願いいたします。



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風が吹けば桶屋が儲かる?

2006-03-27 | 市民のくらしのなかで
身近な達人 8 桶屋・竹籠
 鍛冶屋の手前が桶屋だった.
その前が魚や・その隣が時計屋だったが、みんな達人だった.
私は5~6歳の頃なのに、それぞれの店の中や前で、達人の手さばきを見ながら、また話を聞きながら大きくなった。
 桶屋は、子供を入れるたらい桶、寿司めしをさます寿司桶、風呂桶、牛のえさを入れる桶、餅つきなどのときに米を水につけておく桶、水を入れるものも、肥えタンゴなども、大きいものから小さいものまで、大体同じような要領で作っていくのだ.
 桐のような正目がはっきりしているような木で、周囲を作る、円形にしなければならないので、狭い幅の板を10枚以上使う、内径と外形の寸法が違うのでちょっと丸みを帯びた台形のような板だ.
 底をはめなければならないので、下から数センチのところに細い溝を掘る。底の板は丸くしなければならないけれど、3枚くらいの板が組み合わせてある。その板は、爪楊枝くらいの竹できちっとつないであるのではずれないし水漏れしない。
 そのためいろいろな工具が使われる.細いのこぎり、刃が円くなっている鉋(かんな)等など、
 作業は、別に長い竹を、細くわって、薄くして三つ編みのようなワッカを作る。大きさによって、また桶の深さによってワッカを二つ・三つ使うものがあり微妙に大きさを変えなければならない.ワッカは銅線で作る場合もある.この3点セットを上手く組み合すと桶が出来あがる。最後の仕上げに、引っ掛ける穴をあけたり底に手が入るくぼみを作る.寸分のくるいも無いものが出来る。そこが達人のゆえんである.
 竹を使うので竹製品も結構作っていた.なかでも背中に背負って担いで使うかごが多かった. 
 子供の時に見たものは、今も覚えているから不思議だ.
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コークスの臭いがなつかしい

2006-03-27 | 市民のくらしのなかで
身近な達人 7 鍛冶屋Mさん
 今は、家もつぶされたが、向かいの二軒隣に鍛冶屋があった。
ガラス戸をあけると叔父さんの作業場で、左の奥にフイゴがあり、その横でコークスがいつも赤くなっていた.その上に空気ヌキの煙突があった.叔父さんの足が入る穴がほってあって、そこが指定席だった。
そのちょっと右手前に、金槌と硬い鉄の台があった。作業場の右手の方には、鉄板をはさんで固定し、切ったり曲げたりするものがあった。狭いところなのになにか雑然としていた.
 赤くなった鉄をたたき、思い道理の形になったら水の中にいれ、ジューンと音をたてて冷やしていた。
 仕事場から家の奥に入るところに、蝶番で開くドア‐があり、そのドア‐に小さい引き戸がついていた。その引き戸を開けたところが、私の見学場所で、そこにちょこんと座って叔父さんが作る、鍬、鎌、筍堀りの鍬、包丁、鋤、等などいろんなものが出来あがっていくのを、冗談話を聞きながら見ていた。まだ小学校に入る前の頃である.
 叔父さんは、若い頃「刀鍛冶」でもあった。白装束に身を包み、数人の人達とどこかに何ヶ月もこもって作業をするのだという。何振りかの刀も残されていたそうだ.
 まこと幼稚園のところを北に入ったところにも、Mさんという鍛冶屋があった。親戚だったと思うが、そこはまだ、作業場がそのまま残っているかもしれない。ここの叔父さんが打った包丁が我が家に残っている。
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