常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

額田王

2014年02月12日 | 万葉集


詩吟で和歌を吟じることが多くなり、万葉集の額田王の歌が選ばれることも多い。ではこの歌人がどういう歌人であったかということになると謎めいた部分も多い。時代からいえば斉明天皇の7世紀後半の宮廷で活躍した歌人である。どのようなきっかけで、斉明天皇から認められ、御言持ち歌人の地位を確立していったかを説明するエピソードがある。

秋の野のみ草刈り葺き宿れりし 宇治のみやこの仮廬し思ほゆ 額田王

宇治の都の仮廬は、斉明女帝が夫である欽明天皇在世中にともに旅した曾遊の地であった。この地を再び旅したおり、天皇は欽明天皇を偲んで懐旧の思い出を語った。その旅に同行していた額田王は、天皇の心情をくみ取りそのまま歌に詠んだのが上記の歌である。女帝はわが意をつくした格調の高い歌に満足し、王のやさしい思いやりと歌才をほめた。この歌が天皇の意を体しその立場で歌を詠む歌人、いわゆる御言持ち歌人の最初である。

そのためこの歌は天皇の御製ともされる。額田王が作った歌が天皇御製とされる例がほかにも3例あり、王が特別の立場の歌人であったことの証左でもある。

熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 額田王

熟田津は愛媛県の道後温泉のあたりである。百済は唐と新羅に攻められ、大和朝廷の助けを求めてきていた。年老いた斉明女帝はここに軍団の舟を停め潮待ちをしていた。女帝の疲労を回復させて、筑紫の大津へ援軍を督励するために船に乗るのだ。この女帝の意気を詠みあげ、宮廷集団を動かす力をこの歌が持った。だがこの遠征で、斉明女帝は筑紫の朝倉の宮で崩じ、2年後の白村の江の戦いでは大和軍は唐に大敗してしまった。


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