常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

東京スカイツリーと根津界隈

2014年08月16日 | 旅行


一度この目で見てみたいと思っていたスカイツリーの見物がこの機会に実現した。しかもこの見物の後、根津という下町の風情を見るという楽しみも加わった。この日、天候は曇り、スカイツリーの遠景は低い雲のなかに霞んで見えた。だが、次第に近づいていくと、その巨大さに目を瞠る。かつての下町に、このツリーを見ようとする人たちが、吸い寄せられるように集まってくる。慣れない道を、車で行ったが案内の婿殿とカーナビのおかげでソラ町の駐車場のに車を入れる。夏休みということもあって子ども連れとアジアからの観光客が多く見られた。

展望台へは上らず、水族館やソラマチで軽食という予定であったが、開館10時ですでにチケット待ち20分の表示を見て、この予定も中止。ソフトドリンクで喉を潤して、次の根岸散策へ向かう。



根津は坂道と小路の多い下町だ。道を挟んだ住宅が軒を接するような小路に、昔ながらの店がひっそりとした佇まいを見せている。大通りには車や買い物の人が多く歩いているが、ひとたび小路に入ると、ひっそりとしていて人影をみることもあまりない。昭和のかおりが強く漂っている。雨がぽつりぽつりと落ちてくる。曇りではあるが、気温が高くとにかく蒸し暑い。



若き日の由美かおるをモデルに使った蚊取り線香の看板が錆を浮かべて捨てられずに立っている。この蚊取り線香が今もあるのか疑問だが、看板の存在が由美かおるの根強い人気の証でもある。彼女の出演したテレビ時代劇「水戸黄門」は、今も再放送で人気である。8時45分には、どんな難題も黄門さまの印籠で必ず解決する。単純なストリーが品をかえて登場するドラマがなぜこんなに長く人気を保つのか、昭和の七不思議のひとつである。



お昼になって「根の津」という店で、名物の讃岐うどんのぶっかけを食べた。手打ちのうどんは腰が強くおいしい。奮発した海老天は、揚げたてでぷりぷりしている。この味を求めて店の前で順番待ちの行列ができていた。狭い店で、この日は若い主人と女店員さんが二人で店を切り盛りしていたが、二人ともとても感じがいい。



根津神社がこのような壮麗な権現造りを見せるのは、徳川六代将軍家宣守護のため勧請されて大普請が行われたためである。家宣は悪評高かった徳川綱吉の「生類憐みの令」を廃し、碩学新井白石を登用して弊害になっていた諸制度の改革を行い善政を敷いた。江戸庶民からの人気も高く、壮麗を極める社殿には参拝者がひきもきらぬ盛況を呈した。やがて門前には繁華な門前町が形成されていく。岡場所が現れ、その後吉原と肩を並べる根津遊郭が維新後まで繁栄を極める。



この付近には明治の文豪森鴎外や夏目漱石が住み、その作品にはこの界隈の様子が描かれている。この付近の本郷に東京大学ができたため、根津権現付近の小路は下宿屋がびっしりと立ち並んでいたらしい。この旅行で見た根津の小路もかつては、学生を世話する下宿の町であった。
「坂を降りて左側の鳥居を這入る。花崗石を敷いてある道を根津神社の方へ行く。下駄の磬のように鳴るのが好い心持である。剥げた木像の据えてある随身門から内を、古風な瑞籬で囲んでいる。」(森鴎外『青年』)


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流山

2014年08月16日 | 旅行


流山が開けたのは、醤油や味醂の醸造の町として名高かかったが、この町の西を流れる江戸川の存在は大きい。この川の舟を使って、この地で醸造された商品は江戸へと運ばれた。何かで読んだのだが、江戸川という名は江戸へ行く川という意味であったらしい。映画の「寅さん」シリーズもこの江戸川の土手が登場するが、この土手をランニングやウォーキングする人の姿は今も絶えることはない。娘がこの地へ嫁いでからもう20年を過ぎたが、それ以来何度この地を訪れたことだろう。東京へ出るのに便利なせいもあってか、最近は新しく建てられた家も多いようだ。



常磐線の馬橋駅から流山まで流山電鉄の菜の花電車が走る。所要時間は30分ほどである。常磐線からやや外れた流山へ通勤・通学者を運ぶのに無くてはならない市民の足である。首都圏らしくないローカルな雰囲気に人気がある。この電車を写真に撮ろうとする「撮り鉄」たちがシャッターチャンスを探している。線路の向こう側には市役所があり、その向かいに企業の所有する森があって蝉しぐれが耳をつんざくようだ。これほど蝉が多くいる森は、田舎でもあまり無いような気がする。



新撰組の近藤勇が、官軍の攻勢に耐え切れずに落ちのびた地がこの総洲流山であった。今その陣屋跡が保存されている。ここに兵120名ほどが陣屋に屯した。だが官軍が彦根の兵300名で流山の陣屋を取り巻いた。子母澤寛『新撰組始末記』に、近藤勇が投降する様子が描かれている。「紋付袴で威儀を正しゅうして小姓を二人連れて出てきて来て「お待たせしました」と一礼をしながら、小姓へ記念のためピストル、短刀、書籍などを分け与えた。その小姓が粕壁まで御供をしたいというのを、近藤は「いやならぬ」といったが、拙者が許して、近藤も馬、拙者も馬でその次に従って本陣を出た。」
斬首の刑場へ送られる前の問屋場で、近藤勇は辞世の漢詩を残した。

他を靡かすと今日何をか言わん
義を取り生を捨つるは吾尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣
只将に一死君恩に報いんとするのみ

新撰組の隊旗に「誠」の字が用いられているが、この辞世の詩には将軍への「赤誠」の心がこめられている。

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