近頃、散歩から遠ざかってしまった。畑仕事に時間を取られたり、最近では買ったスマホが珍しく、そちらに時間をかけることが多いせいかも知れない。しかし、そんな現象面ではなく、根底に少しづつ、身体を動かすことに負担を感じるようになっているように思える。いわゆる加齢が根底にあるらしい。
本棚の見てみると、歩くことをテーマにした本がたくさんある。以前は、何か思い立って始めようとすると、そのことについて本を買い集め、先ずそれを読むことから始めるのが習いであった。これだけ歩く本を持っているのは、よほど真剣に歩くことを考えて時期があったらしい。それが段々とエスカレートして山歩きをするようになった。それだけでも、歩くことに関心を持ったことは正解である。
だが、一度立ちどまって考えると、歩くことが少なくなっていく日常には、自然の時間の流れに押されれてしまっている自分がある。松永伍一『散歩学のすすめ』のページを開いてみた。そこには60歳の鴨長明が少年と連れ立って、散歩する文章が引用されていた。
もしうららかなれば、峰によぢのぼりて、
はるかにふるさとの空をのぞみ、木幡山、
伏見の里、鳥羽羽束師を見る。勝地は主
なければ、心をなぐさむるにさわりなし。
鴨長明のこの心境こそ、今の自分にもっとも必要なものではないか。本は、読む年代によって、違ったテーマを提示してくれる。一冊の本を、その置かれた環境のなかで再読して見ることの重要性をあらためて認識した。