シェークスピアの悲劇の最高傑作といわれる『リア王』のクライマックスは、娘の裏切りにあって荒野をさまよい、同じ境遇にあったグロスター卿との再会を果たす場面である。老王はすでに精神を犯されて、狂気に陥っている。一方のグロスター卿は、目をくりぬかれ目でリア王を確かめることすらできない。
耐えねばならぬ。生まれ落ちた時、わしらは泣いた。
この世の空気をはじめて嗅いで、
泣きわめいたではないか。説教してやる。よく聞けよ。
リア王は荒野をさまよい、そこを吹く嵐のなかで、気が狂いながらも人生の本質に気づかされる。城を出て、裸同然の老王に容赦なく吹き付ける嵐。風の寒さ、雷の恐ろしさ、そこに立ちすくんでリアが見つけたもの、それは人間が持たねばならない忍耐であった。目の見えぬグロスターに、「目など見えなくとも世の中の成り行きぐらい見えるわ。耳で見るのじゃ」と説く。
生れ落ちたときと同じように、この世を離れるときも人間は赤ん坊のように泣く。生まれ落ちた時は、温かい母の胎内に比べて、この世は冷たく辛いところと思えたのに、死ぬときにはこの世が胎内と同じように温かくなつかしく思える。しかしシェークスピアの悲劇は、その先の成熟の大事さに気づかさせてくれる。それは、この世に生き続けて、いつ死んでもいい準備をすることの重要性である。りんごが熟れて、成熟した種をもつように。その成熟した時は、どんな苦しみもなく、力を加える必要もなく、ぽとりと枝を離れる。
リア王の荒野の彷徨は、しばしば山登りに譬えられる。雨上がりの濡れた山道。足を滑らせながら、雨に降られ、風に吹かれ、雷や熊の影に怯えて、5時間も、6時間もかかってようやく辿りつく山頂。疲労と苦痛を通りぬけたところに生れる達成感。その先に広がる視界。その時、いままで見えなかった視界を獲得している自分がいることに気づかされる。長い人生には、通り抜けるべき幾多の試練がある。忍耐のあとに、成熟が積み重ねられる。