四ヶ堰(しかせぎ)
奈良井川右岸に位置する村井町村・小屋村・平田村・野溝村の四村は、新田開発が盛んに行われた江戸時代から用水を奈良井川から取っていました。
ところが用水路(堰路)が奈良井川河川敷にひかれていたため漏水が多 く、奈良井川が洪水をおこすたびに堰が壊されるので、取水のできない事が続き干ばつに悩まされ、争いのもとともなっていました。
そこで、平田村(現松本市平田)の名主百瀬三七翁は水路を台地上に移動しようと考え、夜間に星の明かりや線香の火などを頼りに測量を行いました。
その後この考えを村民に伝え説得し、明治4年(1871)から約1年をか けて、流路変更の工事を完成させました。
こうして、毎年のように被害を受けていた周辺の住民たちが救われ、当時この堰は「三七堰」とも呼ばれたようです
塩尻市広丘堅石地籍の四ヶ堰の分水口。
昭和9年(1934)に4ヶ所の地区に均等に水を分配するための円形の分水場がつくられ、昭和24年(1948)にコンクリート水路に改修されています。
地元の方は「円筒分水(えんとうぶんすい)と呼んでいます。
「三七堰」の創設者として尊敬を集める百瀬三七翁は、東筑摩郡今井村の中原忠左衛門の三男として生まれました。嘉永6年(1853)に同郡平田村(現松本市平田)百瀬左門太の養子となり、代々の名主役を継ぎました。