園長のつぶやき

こんにちは 長坂保育園の園長です。日々成長する子ども達を見ながら、日頃の思いを綴ります。

救助隊出発

2011-03-21 10:58:08 | 日記

園長です。

 卒園式が終わり、茶話会の途中、申し訳なかったのですが、席を中座させてもらいました。3月11日の震災の後、仙台にいる娘たちと孫が仙台から脱出することが出来なくなり、いよいよ私の出番になったからです。仙台では3人の娘達が住んでいます。今年は大学の卒業、旦那の転勤などでそれぞれが引越しやその準備で大変な3月を過ごしていたのです。私も3月6日には、3番目の娘の就職が決まり、引越しの手伝いをしてきました。4番目の娘はそれまでのアパートで3月27日まで。1番目の娘は孫2人と青葉区のアパート。その旦那は、単身赴任で茨城県つくば市で仕事。みんなバラバラでの生活状態のところで地震にあいました。最初は電話も通じず、大変な状況でしたが、長女の旦那が急きょつくばから駆け付け、3人を一番被害が少なく、ライフラインが一番早く復活した4番目の娘がいる来た仙台に運んでくれたのでした。そこで姉妹と孫2人はにぎやかに避難生活を過ごしていたのです。しかし、日が経つにつれ、交通機関の復興が極めて時間がかかることが判明。その上、燃料不足のため、仙台までの燃料を確保できず、おろおろしていましたが、事態は17日に急展開。13年間乗っていたシャリオグランディスからトヨタのプリウスに変えた車が地震と津波の被害をかいくぐり、届いたのです。この車はとてもいわくがあり、この日を待っていたかのような奇蹟の車です。私は、実はこのプリウスだけは買いたくないと思っていたのです。いっぱい走っているし、カッコも好みではないし、・・・でも妻が「これからは燃費。これ以上ガソリンの供給は見込めない。カッコはどうあれ、低燃費とエコ。」この言葉にしぶしぶ従った私ですが、今回、奇蹟のような走りで私たち親子を救ってくれたのがこのプリウスだったのです。トヨタの社員いわく「プリウスだとガソリン満タンで八戸と仙台を往復してもまだお釣りがくる。」、最初は信じませんでしたが、この非常事態、信じる者は救われる。うまく進む時はうまくいくもので、妻の父親が除雪機用のガソリンを20リットル確保しているという。あと20リットルは新車を買ったところにお願いし(幸運なことに園児の父兄がいる)何とか20リットル入れて納車してもらい、試運転を兼ねて仙台に緊急救助へ向かいました。信じてはいましたが、仙台まで往復約650キロ。仙台市内でそれぞれのアパートに荷物を運んだり、人を運んだりで、実際は700キロ近く走ることは、本当に可能なのか。東北自動車道は使えない。国道4号線を一直線。途中の渋滞も考えると、気が重くなりました。途中でガソリンがなくなったらそれこそミイラ取りがミイラになってしまう。それでも男は行かなければならない。子どものために、可愛い孫を救うために・・・。

 3月19日。保育園の卒園式を終え、午後1時。救助隊出発。プリウスは荷台が狭く、娘たちの食料と救援物資で満載。渋滞を覚悟していましたが、ガソリン不足で道路を走っているのは「緊急災害」と書かれたステッカーを掲げたトラックと地元の乗用車が少しだけ。盛岡、花巻など大きな街はそれなりに車は走っていましたが、地方は信号がないと高速道路のような状態でした。一関を過ぎたあたりから暗くなり、宮城県に入ると道路端の電柱が傾いたり、橋のつなぎ目が段差になったり、建物が崩れたりと地震の被害が目に付くようになりました。明りのない街は昭和の町並みを見ているようで、普段の生活がいかに電気に頼っていたのかが実感できました。仙台市内も花の土曜日だというのに道路は閑散とし街を間違ったような感覚さえしました。午後8時過ぎ無事北仙台の娘のアパートで、孫と娘3人に合うことが出来ました。

 20日は12時出発を目指して、朝早くから活動開始。お世話になった大家さんにあいさつしたり、荷物の整理、3番目の娘のところに荷物を運んだり、長女のアパートへ荷物を取りに行ったり・・・実は長女は妊娠中で4月末が予定日なので、無理な行動は出来ないのです。狭く小さいプリウスの荷台を目いっぱい使い、後ろの座席はルームミラーが使えないほど荷物を積む上げ、にわか運送屋に早変わりです。4番の娘はペットの関係で、とりあえずもうしばらく3番目の娘と一緒にいてもらうことにして、長女と孫2人と私たち夫婦で帰りの地、八戸へ向かいました。深刻な事態にも関わらず、二人の孫は大はしゃぎ(4歳と1歳)。いつの世でも子どもたちの声に救われることは多いのです。プリウスは八戸、仙台を往復して約700キロを燃費23.5キロを記録し走り抜けました。宣伝に偽りなし。それまでの車は高速を走って10キロ。今の時期だと5~6キロが普通でしたから、何と4倍くらいの燃費でした。これで高速を走ったら27~8キロ走るかも。緊急時には頼もしいプリウスです。おかげで八戸には午後7時30分に着きました。そのあと風呂に入り、1杯のビールのおいしかったこと・・・。今日は少し、腰が痛いです。なれない車に長時間乗っていたのでぎっくりの一歩手前の状況です。それにしても仙台の被害は甚大のようです。復興まで時間はかかるかも知れませんが頑張ってほしいと思います。来週は4番目の娘の救出に向かうこになるかもしれません。新幹線はまだ当分時間がかかりそうです。今回お世話になった方々には本当に心から感謝いたします。ありがとうございました。

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卒園式

2011-03-21 10:28:40 | 日記

園長です。

 東北関東大震災の余震が続く中、第33回の卒園式を行いました。いつもだと紅白幕に包まれ、喜び一杯の卒園式になるのですが、今回は震災の影響も考えて、質素に行いました。保護者も全面的に協力してくれ感謝の言葉しかありませんでした。それでもご来賓や保護者、在園児に見守られ卒園式は厳かに粛々と行われました。岩手、宮城県ではこの子たちと同じ、卒園を迎える子どもたちもたくさん被災されたと聞いています。命を亡くした子もいると思うと悔しくして、やり切れない思いが胸にこみ上げてきます。その子たちの分まで幸せになってほしいと卒園児を見ながら思いました。式が始まる前に全員で黙とうを捧げましたが、子どもたちも真剣に目をつむっていたのが印象的でした。

 式は、とても感動的でした。一人一人が卒園証書をもらい、小学校へ行ってからの決意表明を大きな声で披露しました。名前を呼ばれた時の元気で大きな「はい。」という返事は、目がきらきらと輝いていました。そして、思い出のアルバムで歌を歌っていた時、突然一人の女の子が感極まって大泣きすると、次々に子どもたちが泣きだし、それを見ていた保護者たちも泣きだし、私たちも涙を誘われました。退場の時は涙で顔をぐしょぐしょにした子どもたちに大きな拍手が送られました。

 父母の会役員のお祝いの言葉にも感動しました。こども、家庭、保育園の関わりをしっかり理解してくれ、ただただ感謝するしかありませんでした。力不足の私たちを大きな理解を持って支えてくれた保護者の方々に深く、深く感謝感謝いたします。また、式後の「茶話会」の準備をしてくれた役員の方々にも感謝いたします。突然の大災害だったため、予定が次々とキャンセル、または変化し、大変だったことと思います。でも「よそで卒園式も出来ない子がいることを想えば、長坂の子どもたちは幸せだよね。」という言葉で、みんなが救われた気持ちになりました。このような親の姿を見て育つ子どもたちは幸せだと思いました。本当にありがとうございました。

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東日本大災害

2011-03-14 14:59:55 | 日記

園長です。

 それにしても、ものすごい揺れでした。しかも、5分近く揺れが続いた地震は、これまで経験したことのないものでした。これまで「十勝沖地震」「三陸沖地震」「三陸はるか沖地震」など大地震といえる大きな地震を体験した私でも、このような大きなものは初めてでした。長坂保育園は比較的強固な地盤の上に立っているので、少しくらいの揺れにはびくともしませんが、これだけ長く揺れが続くと恐怖を感じます。最初はマイクも使っていましたが、途中から停電になり、大声での避難指示。震度5弱とは言え、子ども達には耐え難い5分間だったと思います。それでも人的被害もなく済んだことは、日頃の訓練と職員の適切な対応が功を奏したと言えるでしょう。また、近所の「近田会計事務所」の皆さんが駆けつけてくれた時は、涙が出そうなくらい感動しました。保育園が地域から守られていることを強く感じました。その後も余震が続き、子ども達を不安にしましたが、子ども達も良く頑張ったと思います。保護者のお迎えが続く中、安心して泣きだす子もいましたが、日頃の訓練の大切さを痛感しました。電気が消え、ストーブも使えない、最悪の状況にも関わらず、混乱もなく済んだことは不幸中の幸いだったと言えるかもしれません。保護者の協力にも感謝したいと思います。

 3月11日午後2時46分は歴史に刻まれることでしょう。日本史上初の大災害と言うことで・・・。今日、津波の被害があった海側を見てきました。ひどいものでした。新聞やテレビで見たとおりの惨状がそこにありました。でも八戸はまだ良い方で、岩手県の三陸方面の惨状は筆舌に尽くしがたいものがあります。ご冥福を心からお祈りいたします。

 今日は、約8割の子ども達が登園しました。やはり保育園には子ども達の歓声が似合います。土曜、日曜と静かな保育園でしたが、とても心細く、不安なものでした。明日からの給食の食材はとりあえず今週いっぱいまで確保しましたが、それ以上は未定です。復旧が遅れれば保育園にも影響が出そうです。

 今日の朝、朝礼で職員に言いました。「こんな時こそ保育園の真価が問われる。日頃の協力に今こそ報いる時だ。みんなで協力して頑張ろう。」と。みんな深く頷いていました。逆境のときこそ真価が問われます。土曜日に休みの職員が早番で出てきたり、パートの職員が駆けつけてくれたり・・・電気が通じなくても、電話が通じなくても、心はしっかり繋がっているようでした。

 今、これを書いているときも大きな余震がありました。震度3くらいの余震は1時間に1回くらい、多いときには10分間に3回くらい連続であったときもありました。今は大分少なくなりましたが、気持ちは引き締めたいと思います。

 個人的な話をすると、仙台に住んでいる娘達3人と孫2人が心配でした。携帯も電話もメールも通じない2日間はまるで地獄のようでした。迎えにいこうにも高速は閉鎖、新幹線も不通、仙台から脱出できない状態だったようです。3人別々のアパートでしたが、連絡が来たときは3人と孫2人は一緒に肩を寄せ合っていたそうです。少しだけ安心しました。でもまだ仙台からは脱出できないようです。高速が通れるようになったら急いで迎えにいこうと思います。

 

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引越し

2011-03-08 21:05:14 | 日記

園長です。

とても忙しい毎日を送っています。先週の土・日は仙台の娘達のところへ行ってきました。3番目の娘が仙台で就職が決まったので、職場の近くへアパートを借りたのです。日曜日は朝からバタバタしていましたが、引越し屋さんが午後一番で来ることになっていたのですが、午前中の引越しに時間がかかったということで午後4時半に来たとのこと。私と妻は待ち切れずに3時30分に帰路に着いたのですが、さすがプロ。たったの30分で荷作りし、30分で移動。30分で運び込み。6時にはめでたく引越し終了だったとか・・。

 この時期の引越しは、少し感傷的なことが多く、何となくうら哀しい気持ちになります。私も東京で6年間暮らして、いよいよ八戸に帰るというときは、たくさんの思い出に後ろ髪をひかれる思いがしたものでした。娘は逆に仙台での新生活が始まるので、寂しいよりもこれからの仕事に闘志を燃やしているようでした。土曜日に娘の働く職場にあいさつに行ったのですが、良い職場に恵まれたようです。これからの娘の頑張りを応援したいと思います。

 一番上の娘も仙台にいるので顔を出してきました。二人の孫は3歳と1歳。特に下の子は女の子ですが、にぎやかで、騒がしくて、忙しくて・・・。一言でいえば「うるさい」存在です。でもとてもかわいいのです。返事を言葉で言う前に首を頷いたり、横に振ったりする仕草が可愛くて、いろいろ質問して様子を眺めましたが、かわいいのもそこまで、飽きると、泣く、わめく、暴れる。この先どうなることやら、思いやられます。その孫達が3月末に八戸にやってきます。しばらく八戸に滞在の予定なので、私としては嬉しいやら、そうでない様やら、少し複雑な気持ちです。その後、父親の待つ、千葉県つくば市へ引越しの予定になっています。娘の旦那は仙台からつくばへ引越しになりました。これからは孫達に合うには、千葉県まで行かなければ会えなくなります。今までのようにちょっと仙台まで・・・とはいかなくなりました。子どもたちも自分たちの人生、生活を歩み始めました。私たちが応援してあげることもそう多くはなくなりました。自分の足で、自分の道を少しづつでも確実に歩んでほしいと思います。新しい道に向かい歩き始める娘たちに、私の好きな言葉を贈ります。頑張れ娘達。

「この道より 我を生かす道なし この道を歩く」   武者小路実篤

「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」   高村光太郎

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