園長のつぶやき

こんにちは 長坂保育園の園長です。日々成長する子ども達を見ながら、日頃の思いを綴ります。

初めての体験

2012-11-25 21:19:46 | 日記

園長です。

 昨日、東京で地震がありました。午後6時ころです。私は妻と上野駅にいました。本当は東京駅から乗るはずでしたが、上野を久しぶりに歩こう、と言うことになり、「旧岩崎邸」を見学することになり、上野不忍池を通り、土佐藩に坂本竜馬とゆかりのある「岩崎邸」を見学しました。初代の岩崎弥太郎はあまり登場しませんでしたが、明治維新からの岩崎家の富豪ぶりを垣間見ることができました。居宅の洋館は庭園の紅葉が盛りで見事なものでした。三菱財閥の発展を歴史と建造物でしっかり勉強出来ました。そのうえ、帰り道に「アメ横」に寄った関係で、東京駅まで戻ることができず、急きょ上野駅から新幹線に乗ることになりました。アメ横はとても混んでいて、歩くのも大変でした。それでもバナナのたたき売りの掛けあいや、活気のある呼び込みなど十分にアメ横を楽しむことができました。上野駅で新幹線を待っていると、時間どおりにはやて号がやってきました。時間は午後6時。私たちの乗る場所は4号車でしたが、連結の「こまち号」が通り過ぎる直前に急ブレーキがかかり、はやて号が止まってしまったのです。また、運転手の居眠りかと思いましたが、どうやらそうではないらしい・・・地上では震度4の地震があり、送電が停止になり急ブレーキがかかったようです。こまち号に乗り人たちはずいぶん手前で止まってしまったこまち号目指して掛けてきましたが、停電のためドアの開かず約5分間、停止状態でした。生まれて初めて、緊急停止した新幹線を見ました。滅多に見ることのない新幹線同士の連結部分も見ることができました。上野駅は震度4でも地震が来たのがわからないくらい耐振設備が完備されていました。あの地下で大地震が来たら一巻の終わりですが、震度4でも揺れを感じない建て方には感心してしまいました。上野駅で6分遅れで発車したはやて号は途中で遅れを挽回し八戸駅には時間どおり到着しました。貴重な体験をした上野駅での出来事でした。

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バイキングの恐怖

2012-11-25 20:42:53 | 日記

園長です。

 いやはや、ここ2週間はとても忙しい時間を過ごしています。保育園にいる時間よりも他所へ研修に出掛けている時間がとても多かったのです。先週は沖縄、今週は東京でした。おかげでホテル住まいが多く、食生活にも大きな変化がありました。

 そもそも私の体重は70キロと少しあり、定期健康診断では「肥満」です。つい最近までは「過体重」でしたが、アルコールと炭水化物の摂りすぎで2年くらい前から「肥満」の烙印をおされています。地方に出掛けるとホテルに宿泊することが多いので、朝食は「バイキング」のところが多くなります。高級なホテルは「バイキング」と「日本食」を選べるところが多いのですが、リーズナブルなホテルはバイキング形式で洋食と日本食が隣り合わせで置いてあるところがほとんどです。私は基本的にお米が大好きなので日本食を選ぶことが多いのですが、問題は「量」です。我が家では軽くご飯一膳とおかずが2,3品ある場合がほとんどなので朝食の食べ過ぎということはないのですが、ホテルの朝食がバイキングだと根が田舎者なので出されたものはすべて食したいので、少量ながら多種多様のおかずを選んでしまいます。私は最近「ご飯」ではなく「おかゆ」を選ぶことが多いのですがそれでもおかずは皿にのりきらないほどとってしまいます。おまけに普段飲まない「牛乳」や「トマトジュース」なども飲んでしまい、最後はデザートの果物、コーヒーまで飲んでしまいます。日中は体を動かさず「頭脳労働」なのでカロリーはずいぶん余ってしまいます。こんな生活が2週間も続いたのでさすがに最近「体が重い」という自覚症状が出始めました。今日は久しぶりに近くの温泉に行き、体重を量ったら、いつもより2キロも体重が増えていました。恐るべしバイキング朝食・・・というところでしょうか。朝ご飯はしっかり食べることが基本ですが、体の運動量を考えた上でカロリーを考えないと大変なことになりそうです。そういえば沖縄に一緒に行った園長先生たちはしっかりバイキング料理を朝から堪能していたようですが、体調管理はいかがなのでしょうか、私より早く食べに行き、私より遅くまで食べていたようですが・・・。いろんな食べ物を選び、量も選べるバイキング方式ですが、欲張ると大変なことになりそうです。これから年末年始を控えて、体重も気にしながら会合に参加したいと思います。

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ひめゆりの塔

2012-11-19 20:33:55 | 日記

園長です。

 土曜日に無事に八戸へ帰りました。昨日の日曜日には初雪も舞い、沖縄との温度差を肌で感じてしまいました。沖縄では今でも最高気温が24℃前後あり、日中はほとんどが半袖ですみます。朝夕は少し気温が低いようですがそれでも最低気温は17度くらいです。泡盛を飲みながら島歌を歌い、興が乗ったら沖縄舞踊を踊り、のんびり過ごすには最高の環境だと思います。それにしても良く飲んだなあ。前回は甘ったるくて喉を通らなかった「オリオンビール」がアサヒビールと提携したらしく、おいしいビールに変わっていました。また、「豆腐よう」も古酒仕込みは風味もコクもあり、とてもおしくいただきました。全国保育研究大会の参加でしたが、歴史と食文化の研究もしっかりしてきました。

 さて、今回は、研修の最後に「ひめゆりの塔」に行きました。私は3回目の訪問でしたが、改めて戦争の悲惨さ、やるせなさを感じました。今回初めて、このひめゆりの塔がある「第3外科壕」の5人の生き残りである「宮良ユリ」(85歳くらい)さんの生の声を聞くことができました。大型の写真に映し出された、多くの悲惨な場面を細かく説明してくれました。聴いている人たちはほとんどがハンカチで目頭を押さえながら聴いていました。「絶対に戦争をしてはいけません。」という言葉が今も耳に残っています。

 また、この沖縄南部は沖縄地上戦の最後の舞台であり、悲惨な最期の地でもあったようです。喜屋武岬では海からアメリカの艦隊の一斉砲撃、陸からは火炎放射気、爆撃機での攻撃により多くの人たちが岬から身を投げたようです。摩文仁でも同じような岬があり、思わず合掌してしまいました。ひめゆりの塔資料館で読んだ最後の場面の記述には本当に心が痛みました。「これでひめゆり部隊を解散する。あとは自分たちで判断するように・・・・。」敵で囲まれ、圧倒的な戦力差の中、何とか生き延びてきた女学生たち。いきなり解散され、敵の中に放り出された心中はいかばかりだったのでしょうか。今の日本人は「平和ボケしている」とよく言われますが、私もそう思います。今からたった70年前の出来事なのです。そして今もその当時の生き残りが戦争の悲惨さを訴えているのいです。私たちは何か大事なものを見失っているのではないでしょうか。遠い沖縄で生きていることの尊さ、生きることの大切さを深く感じてきました。今の若者にも絶対行ってほしい沖縄です。

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はいさい

2012-11-15 21:58:26 | 日記

園長です。

 今、沖縄に来ています。全国保育研究大会が沖縄で開かれ、2泊3日の過酷な研修に参加しています。昨日の開会式では、沖縄県副知事や県議会議長など沖縄の方が、あいさつしたのですが、ことばがわからず苦労しました。沖縄弁であいさつし、その後通訳してくれたと思うのですが、それも意味がわかりませんでした。青森の南部弁と沖縄弁が話し合うとお互いが通訳をつけて話さないと理解しあえないのでは、と思いました。それにしても沖縄は暑い。気温が24℃前後。八戸では七五三の辺りは雪がちらほらちらつく時期に当たります。今日あたりは「隅の観音」へお参りに行って、記念撮影をしていたと思います。銀杏の実が辺り一面に落ちている中を、お参りに行く子供たちの姿が目に浮かびます。

 さて、こちら沖縄では、八戸と1時間くらい時差があります。夜も午後6時くらいまでは明るく、日本列島の長さを肌で感じてしまいます。八戸では午後4時半ころには暗くなり、6時には家でビールを飲んでいる時間です・・・あまり関係ないか。私達が宿泊しているのは沖縄の那覇市にある「国際通り」という繁華街の一角にあるホテルですが、夜の10時くらいまでたくさんの観光客であふれています。さすが国際観光都市沖縄です。でも外国人の姿はほとんど見ることがありませんでした。尖閣問題とオスプレイの問題が大きく影響しているようでした。

 今日は、牧志市場で食事をしましたが、すごい人でした。1回の市場で南国特有の赤や青色の魚を刺身で注文し、大きな蟹を選び、チリソースで調理してもらいました。一緒に行った仲間5人と食べたのですが、魚は北国のほうがおいしいと思いました。しかし、南国の雰囲気の中で原色の色の魚を食べるのもなかなかおつな感じがして、おいしくいただきました。周りを見ると、さっきまで同じ会場で研修していた他県の園長先生達が「泡盛」と「オリオンビール」で顔を赤くしながら飲んでいました。全国から1700人の保育関係者が集まった大会でしたが、ここにはその1割くらいが集まっていたのではないかと思われました。

 研修は、保育制度改革や新しい保育制度での保育園の役割など、これから変化していく保育と教育の在り方、福祉のネットワーク作りなど、ここ2,3年で様変わりする保育環境をいかに守り、進化させていか、事例を通して勉強をしてきました。考えさせられることがたくさんあった研修会だったと思います。認可保育園として、保育士として地域のニーズにどうこたえていくのか真剣に考えさせられました。八戸に帰ったら、職員としっかり話し合い、長坂版のネットワーク作りをしたいと思います。

 明日は、いよいよ最終日です。その後ちょっとだけ観光して帰りたいと思います。それにしても沖縄の泡盛、古酒(クース)はうまい。味見ばかりしていい気分になってしまいましたが、活気のある商売はいいものです。適当にあしらわれながら、「いいかげん」のお互いが納得する掛け合いで買い物をしました。一緒に行った先輩は買い物が上手で、うまく値切って買っていました。交渉事の楽しさを見せてもらいとても参考になりました。明日は真似をして値切って見ようと思います。きっと値切ったつもりで高い買い物をするような気がします。もうすぐ帰ります。

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北はきびしく きよきもの

2012-11-10 11:25:27 | 日記

園長です。

 今月初登場です。11月に入ったら急に忙しくなりました。園舎の改築工事もそうですが、「書類書き」の仕事と「会議」が連続であり、なかなかブログまでたどり着けませんでした。ときどき「園長先生はブログを書いている暇があっていいですね。」と言われますが、自分では「必死」になって書いています。ただ、この「書く」という作業は、気持ちにゆとりがなければ筆が進みません。長坂保育園では毎月の園だよりに「園長先生から」というコーナーが設けられていますが、30年近く書いていると「ネタ」が切れてしまいます。その時々の子供たちの様子や自分の考えなどを書いていますが、もともと少ない脳みそを最大限に膨らませ書いているので、なかなか気の利いた文章は出てきません。でも・・・たまに、どういうわけか、書きたいことがあふれるように湧いてくることがあります。「あれも書きたい、これも書きたい・・・」と思っているうちに、すっかり忘れてしまい、泥沼にはまり込みます。書くというのは後々残るので、本当に気を使います。恥をかくのは得意なのですが、ものを書くのは難しいものです。

 さて、今年はわが母校「八戸北高」が創立50年を迎えたようです。私は10回生で「史上最悪の学年」と言われました。まあ、中学の時も「お前たちみたいなでぎなしは、初めてだ。」と言われてきたので、特に私は何とも思いませんでしたが、同級生たちはその言葉に発奮し、卒業するころは「開校以来の大学合格率だ」と言われました。私も大学に合格したのでその一端を担ったと思いますが、3年間野球だけを追いかけてきた「でぎなすぼんず」には、65分授業は苦痛のなにものでもありませんでした。特に数学と英語の時間は、一度寝て起きてもまだたっぷり時間がある地獄のような毎日でした。当時、北高は地元の進学校「八戸高校」に追いつけ、追い越せという先生たちの掛け声で、それはそれは大変なものでした。部活も成績が下がるとやめさせられるほど勉強に力を入れさせられたのですが、もともと「八高に入れないから北高で」という人たちが多かったので勝てるわけがない。それを自覚していた私たちは成績が悪くても「野球をやめろ」とも言われず、3年間を楽しく過ごしてきました。ただ、当時はまだ卒業生が少なかったため、どこに行っても「お前は八高の何回生だ?」と聞かれることが多く、肩身が狭い思いもしました。しかし近年、北高の卒業生は素晴らしい人材が多く、多くの企業で大活躍しています。最近はいろんなところで北高の卒業生に出会います。学閥とは言いませんが、北高10回生だといえば、結構先輩ずらができるようになりました。

 北高の思い出で一番頭に浮かぶ情景は、校歌です。野球部に入り、一番初めに歌わされた校歌。これには訳がありました。甲子園に出ると勝てば校歌を歌うことができるのです。わが北高は、「出ると負け」の弱小チームでしたが、思いは大きく「甲子園」。練習が終わり、真っ暗くなったグラウンドで「さえたり きたぞら とどろくなみの ・・・」と大声で歌いました。最後のフレーズ「きたは きびしく きよきもの」で締めくくるのですが、キーが高くて変声期の私には苦痛の何物でもありませんでした。しかし、そのおかげで、いまでも北高の校歌は歌えます。私は校歌には恵まれていると思っています。小学校の校歌は、八戸の歴史を抒情詩的に歌い上げた素晴らしいものです。中学校の校歌は、地域と伝統を重んずる心に響く校歌です。高校にはなかなかいくことはないのですが、小学校、中学校へは入学式、卒業式で思い出の校歌を一緒に歌わせてもらっています。残念なことは「大学」の校歌がどんな歌だったか全く記憶にないことです。ただただ遊んでいたという証拠なのかもしれません。私たちの結婚式の時に大先輩のお寺の住職が歌ってくれたことがありましたが、思い出せません。保育園にも「園歌」があり、大きな行事のたびに歌っていますが、何人の子供たちが覚えているのでしょうか。長坂保育園の園歌は、亡くなった父と姉が作詞・作曲したオリジナルの園歌です。大事にしたい心の園歌です。それぞれ校歌には思いがありますが、自分が生きてきた証しでもあると思います。園歌や校歌はこれからも大事にしていきたいものだと思います。北高の創立50年を心からお祝いしたいと思います。

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