① 10月23日の朝日新聞『折々のことば』(鷲田清一・著)を、
転記する。
今日一日がないみたいというのは、こんなに
も楽なのか
角田光代
短編小説「こともなし」から。聡子は家
族のために作った料理の写真とレシピをブ
ログに載せる。こんなに幸福な毎日ですと
ばかりに。ある日友人に、自分を捨てた男
に読ませたいから(?)と指摘されてふと
我に返り、その日はブログを更新しなかっ
た。自分は幸せだと自分に確認するために
書いていたのか。苦い思い出から放たれる
日がきたらブログもやめるのか……。
短編小説「こともなし」は読んだことがない。
しかし、ブログへの想いを鷲田さんの一文から読み取り、
無性に心が冷えた。
ブログへの動機は、様々だろう。
「さて、私はどうか?」。
ふと、考えさせられた。
心動かされたこと、動いたことを、
できうる限り確かなものにしたかった。
そんな機会をブログがくれた。
それが楽しくて、続いている。
それだけ・・・。
いずれにしても、コラムにある猜疑心のようなものとは、
無縁でいたい。
それよりも、素直に、
日々の暮らしにある宝物を探せたら、
なんていいのだろう。
今は深まりゆく秋に心騒ぐ時間を見つけたい。
② 息子達が幼い頃、
定期購読していた絵本に、彼岸花が載っていた。
地方によって、その花の呼び方に違いがあると書かれていた。
曼珠沙華の他に、痺れ花、剃刀花、狐の松明、
はっかけばばあ、天上の花など多彩だった。
呼び名だけでなく、田んぼのあぜ道や川の土手を、
真っ赤に染める様を、その絵本から知った。
以来、秋を華やかに彩るものとして、
毎年、彼岸花に目が止まった。
だが、伊達で彼岸花を見ることはない。
同じ時期、ここでは道端や家々の庭に、
淡い紫色をした『コルチカム』が一斉に咲く。
小さく可憐な花だが、あざやかさは彼岸花に及ばない。
その2つの花を比べ、秋に違いがあるように思えてならない。
例えば、彼岸花は言うだろう。
「ほうら、待っていた秋が来ましたよ。
存分に、楽しみましょう」と。
一方、コルチカムは、
「秋になってしまいました。
すぐ冬が来ます。急いで急いで・・。」
そうつぶやくのでは・・。
追記すると、
彼岸花の花言葉「情熱」に対し、
コルチカムのそれは、英国で「私の最良の日は過ぎた」、
仏国で「美しい日々は過ぎた」だと聞いた。
くり返しになるが、
私は、コルチカムと一緒に秋を迎えている。
③ この時季の『だて観光物産館』は、
いつになく賑わっている。
伊達市民だけでなく、全道各地からの来客者が多い。
おめあては、秋の伊達野菜のようだ。
それに応じるかのように、
館内には、旬の野菜が豊富に並ぶ。
農家さんごとに仕切られた棚には、
様々な種類の野菜が置かれている。
カボチャだけでも、きっと7,8種はあるだろう。
その1つ1つの棚を見るだけで楽しい。
つい先日のことだ。
「これはどうだろう。」「あれもいいかも。」と、
館内のショッピングカゴを抱えながら、家内と歩き回った。
ここ数年、年中行事の1つになった。
決まって毎年、家内は言う。
「もらっても迷惑なんじゃない。」
私は、少し不機嫌そうに応じる。
「それでもいい。
それより送ってあげたいんだ。この野菜を!」。
紅くるり大根、辛味大根、小粒キュウリ、生食白菜、生とうがらし、
それから、カボチャに長いも、ゴボウ等々。
きっと頂いた友人は、呆れているのだろう。
でも、色とりどりの野菜に、
きっと伊達の秋を感じてくれるに違いない。
そんな友人の奥様から、
またお礼の野菜入り絵手紙が来ることだろう。
それを待つのも、秋ならではのこと。
④ また無知をさらす。
伊達ではじめて秋を迎えた年だ。
有珠山の山肌が、次第に変わり始めた。
他の山々は、濃い緑のままだった。
なのに北西にあるその山だけは様相が違った。
定期的に噴火をくり返す山だ。
山頂付近は、火山特有の灰色をしているが、
中腹辺りからは、木々が育ち、
いつもは緑色におおわれている。
ところが、その色が徐々に変わっていくように感じた。
実に恥ずかしいことだが、正直に書く。
街路樹や公園の樹木、校庭の木々が、
紅葉したのを見てきた。
日光などの景勝地を旅して、
車窓から紅葉の赤に歓声を上げた。
だが、間近にある山が、
上から下までまるごと赤と黄に染まっていく様子など、
目撃した覚えがなかった。
だから、有珠山の色が変わっていくのが、不思議だった。
「やっぱり違う。昨日までとは少しだけ違う色だ。
どうしてなんだろう。」
密かにその変化に不安が増していった。
時には、火山活動の前ぶれではと、考えたりした。
「そうならもう誰かが気づいてもいい。」
密かにそんなことを思う日が続いた。
ところが、空が真っ青な朝だった。
ジョギングしながら、次第に大きくなった有珠山が、
朝日を浴びで、赤や黄色に輝いていた。
「噴火の前兆じゃないのか?」。
そんなことを口走らなかったことに安堵しながら、
山の秋に、目も心も釘付けになった。
今年も、周りの山は見事な秋色になった。
次第に衣替えする山々、その目撃者の1人に私もいた。
洞爺湖畔の紅葉と裸婦像
※次回のブログ更新予定は 11月9日(土)です
転記する。
今日一日がないみたいというのは、こんなに
も楽なのか
角田光代
短編小説「こともなし」から。聡子は家
族のために作った料理の写真とレシピをブ
ログに載せる。こんなに幸福な毎日ですと
ばかりに。ある日友人に、自分を捨てた男
に読ませたいから(?)と指摘されてふと
我に返り、その日はブログを更新しなかっ
た。自分は幸せだと自分に確認するために
書いていたのか。苦い思い出から放たれる
日がきたらブログもやめるのか……。
短編小説「こともなし」は読んだことがない。
しかし、ブログへの想いを鷲田さんの一文から読み取り、
無性に心が冷えた。
ブログへの動機は、様々だろう。
「さて、私はどうか?」。
ふと、考えさせられた。
心動かされたこと、動いたことを、
できうる限り確かなものにしたかった。
そんな機会をブログがくれた。
それが楽しくて、続いている。
それだけ・・・。
いずれにしても、コラムにある猜疑心のようなものとは、
無縁でいたい。
それよりも、素直に、
日々の暮らしにある宝物を探せたら、
なんていいのだろう。
今は深まりゆく秋に心騒ぐ時間を見つけたい。
② 息子達が幼い頃、
定期購読していた絵本に、彼岸花が載っていた。
地方によって、その花の呼び方に違いがあると書かれていた。
曼珠沙華の他に、痺れ花、剃刀花、狐の松明、
はっかけばばあ、天上の花など多彩だった。
呼び名だけでなく、田んぼのあぜ道や川の土手を、
真っ赤に染める様を、その絵本から知った。
以来、秋を華やかに彩るものとして、
毎年、彼岸花に目が止まった。
だが、伊達で彼岸花を見ることはない。
同じ時期、ここでは道端や家々の庭に、
淡い紫色をした『コルチカム』が一斉に咲く。
小さく可憐な花だが、あざやかさは彼岸花に及ばない。
その2つの花を比べ、秋に違いがあるように思えてならない。
例えば、彼岸花は言うだろう。
「ほうら、待っていた秋が来ましたよ。
存分に、楽しみましょう」と。
一方、コルチカムは、
「秋になってしまいました。
すぐ冬が来ます。急いで急いで・・。」
そうつぶやくのでは・・。
追記すると、
彼岸花の花言葉「情熱」に対し、
コルチカムのそれは、英国で「私の最良の日は過ぎた」、
仏国で「美しい日々は過ぎた」だと聞いた。
くり返しになるが、
私は、コルチカムと一緒に秋を迎えている。
③ この時季の『だて観光物産館』は、
いつになく賑わっている。
伊達市民だけでなく、全道各地からの来客者が多い。
おめあては、秋の伊達野菜のようだ。
それに応じるかのように、
館内には、旬の野菜が豊富に並ぶ。
農家さんごとに仕切られた棚には、
様々な種類の野菜が置かれている。
カボチャだけでも、きっと7,8種はあるだろう。
その1つ1つの棚を見るだけで楽しい。
つい先日のことだ。
「これはどうだろう。」「あれもいいかも。」と、
館内のショッピングカゴを抱えながら、家内と歩き回った。
ここ数年、年中行事の1つになった。
決まって毎年、家内は言う。
「もらっても迷惑なんじゃない。」
私は、少し不機嫌そうに応じる。
「それでもいい。
それより送ってあげたいんだ。この野菜を!」。
紅くるり大根、辛味大根、小粒キュウリ、生食白菜、生とうがらし、
それから、カボチャに長いも、ゴボウ等々。
きっと頂いた友人は、呆れているのだろう。
でも、色とりどりの野菜に、
きっと伊達の秋を感じてくれるに違いない。
そんな友人の奥様から、
またお礼の野菜入り絵手紙が来ることだろう。
それを待つのも、秋ならではのこと。
④ また無知をさらす。
伊達ではじめて秋を迎えた年だ。
有珠山の山肌が、次第に変わり始めた。
他の山々は、濃い緑のままだった。
なのに北西にあるその山だけは様相が違った。
定期的に噴火をくり返す山だ。
山頂付近は、火山特有の灰色をしているが、
中腹辺りからは、木々が育ち、
いつもは緑色におおわれている。
ところが、その色が徐々に変わっていくように感じた。
実に恥ずかしいことだが、正直に書く。
街路樹や公園の樹木、校庭の木々が、
紅葉したのを見てきた。
日光などの景勝地を旅して、
車窓から紅葉の赤に歓声を上げた。
だが、間近にある山が、
上から下までまるごと赤と黄に染まっていく様子など、
目撃した覚えがなかった。
だから、有珠山の色が変わっていくのが、不思議だった。
「やっぱり違う。昨日までとは少しだけ違う色だ。
どうしてなんだろう。」
密かにその変化に不安が増していった。
時には、火山活動の前ぶれではと、考えたりした。
「そうならもう誰かが気づいてもいい。」
密かにそんなことを思う日が続いた。
ところが、空が真っ青な朝だった。
ジョギングしながら、次第に大きくなった有珠山が、
朝日を浴びで、赤や黄色に輝いていた。
「噴火の前兆じゃないのか?」。
そんなことを口走らなかったことに安堵しながら、
山の秋に、目も心も釘付けになった。
今年も、周りの山は見事な秋色になった。
次第に衣替えする山々、その目撃者の1人に私もいた。
洞爺湖畔の紅葉と裸婦像
※次回のブログ更新予定は 11月9日(土)です
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます