▼ その1
伊達に移り住んで3度目の春を過ごしている。
季節は、その美しい移ろいを、決して立ち止まらせようとはしてくれない。
次々と趣を変えていく。
私は、一日一日、大自然が見せる色とりどりの変容に、心奪われながらも、
もう少しゆっくりゆっくりと願ったりしている。
そのような空の下、朝日を浴びた草花の鮮やかさと、
整地された畑に並ぶ新芽の凜とした姿が、
ジョギングする私を、いつも励ましてくれる。
さて、17日(日)『第41回洞爺湖マラソン』があった。
国立公園にもなっている景勝地で、
しかも新緑に包まれたコースのマラソン大会である。
全道そして日本各地から、
洞爺湖一周のフルマラソンと10キロ、5キロのレースに、
9000人もの参加者があった。
私は、昨年、右腕の手術で出場を断念した。
そのリベンジもあり10キロにチャレンジした。
湖の中央に浮かぶ中の島を横目に、静かに波打つ湖畔の道を、
老若男女入り乱れて、しかも思い思いのファッションでのランニング。
その1人として、年令を忘れマイペース走の私。
それはそれで、十分に心を満たしてくれた。
沢山のランナーに抜かれ、そして私も何人かを抜いてゴールした。
シューズにつけたチップが、瞬時に私のタイムを計測した。
完走し、達成感の中にいる私に、そのタイムが届いた。
密かに目標としていた『60分切り』は、わずかの時間で叶わなかった。
悔しさがこみ上げた。
汗まみれのシャツを着替えながら、
しきりに自分の走りを振り返った。
そして、朝のジョギングの仕方まで悔やんだ。
次の機会には、必ず『60分切り』をと、
67才の自分に誓った。
次々と進む美しい季節に心奪われながら、
また明日からジョギングを続けよう。
私なりの走力アップを図ろう。
今までとは少し違う欲が芽生えた。
『大会に出場し、自分で決めた設定タイムを切ろう。』
そのために、ジョギングを継続するんだ。
身の丈に合った目標の存在が、成長の糧になることを、
私は再び、我が身をもって実感している。
▼ その2
退職時の学校では、5年間校長を務めたが、
区立幼稚園が併設されており、そこの園長も兼任した。
幼児教育に携わるのは初めてだった。
毎朝、副園長に詳しいレクチャーを求め、職責にあたった。
4歳児と5歳児が、毎朝、保護者と一緒に登園してきた。
私の朝の仕事は、その園児たちを園舎の玄関で迎えることだった。
入園直後の園児は、一人になることが不安で、
何人もが大泣きした。
私は、その子を母親から引き離し、抱きかかえ、
これまた涙を流しながら幼稚園を後にするお母さんを見送った。
しかし、そんな光景は1週間もすれば消え去り、
どの子も明るい表情で通ってくるようになった。
着任当初、私は幼稚園の毎日に、驚きの連続だった。
小学校とは様相が、大きく違っていた。
副園長には、その都度その都度くり返し質問し、教えを受けた。
当然なのだが、チャイムによる生活リズムもなければ、
ほどんど一斉指導もなかった。
集団行動より、個々の思い思い(ニーズ)による活動がメインになって、
毎日が進んだ。
そして、何よりも私が驚いたのは、
多種多彩なイベント・行事の数々であった。
毎日、必ず何かしらのイベントがあった。
毎月の誕生会、季節ごとの遠足や野外活動、
伝統行事にちなんだ催し、季節の草花や野菜の種まきと収穫、
それを使った調理や、色々な人々を招いてのふれあい会等々。
例えば、「こどもの日」パーティーを計画する。
そのために買い物に出かける。パーティー会場の飾り付けを作る。
歌の練習をする。進行の係を決め、事前の練習をくり返す等々、
その取り組みは、前日まで毎日次々と続いた。
園児たちは、その一つ一つに目を輝かせ、
買い物に行けば、買い物ができたと体いっぱいで喜びを表した。、
次の日は、手をのりだらけにしながら、
手作りの鯉のぼりをふり、完成を喜んだ。
園児たちは、毎日の多彩なイベントで貴重な体験を積み、
達成感を味わい、成長した。。
つまり、このような日々の活動こそが、成長の糧なのであった。
『多種多彩なイベント・行事という刺激と体験』が、
成長には欠かせないことを、私は幼児教育から学んだ。
▼ その3
小学校の教室には、数々の目標が掲示されている。
学校目標、学年目標、学級目標、生活目標、保健目標、給食目標、
そして週目標、個人目標等々である。
この目標の中には、通年のものもあれば、
月ごと、学期ごと、週ごとに変わるものもある。
また、目標であるにもかかわらず、達成度等の評価がされず、
目標掲示のみのものもある。
私は、この評価の伴わない目標であっても、
掲示することで子どもの目に止まり、多少なりとも意識化され、
その子の成長の糧になっていると信じている。決して無駄なことではない。
しかし、目標であるならば、
可能な限り、その評価は適宜求めたいものである。
評価の仕方は、様々である。
相互評価、自己評価、絶対評価、相対評価、
記述評価、段階評価、そして形成的評価等々がある。
評価方法の有効性はともかくとして、その評価によって、
自己の成長や前進、進化がおぼろげながらでも確認できれば、
その子は、必ずや次のステップへの意欲を燃やすであろう。
評価は、成長の糧なのである。
また、そうでない場合には、改善点をさぐる大きな動機となる。
「ならば明日からはこんなことに努力しよう。」
「こんな練習方法に変えてみよう。」
「こんなことに心がけてみる。」等々、
新しい一歩を踏み出すことにつながり、その子の目標達成に貢献する。
さて、学校生活における目標は、
多岐にわたりすぎてはいないだろうか。
さきに列記した様々な目標しかりであるが、
例えば、教室掲示でよく目に止まる学期ごとの個人目標を見ると、
そこには、今学期の「学習の目標」「生活の目標」そして
「家庭学習の目標」等までもが、記入することになっている。
どの子もその全てに目標を書き込んでいる。
担任は、その一つ一つにコメントを朱書きして励まし、
その上、月々の評価欄があり、
その達成度を自己評価することになっている事例もある。
はたして、この目標を記入した子は、
目標達成のために、どう迫ろうとしているのだろう。
設定すべき目標を精査・吟味し、精選する必要があるのではなかろうか。
子どもに限らず人の成長には、目標の設定と評価は欠くことができない。
しかし、評価の伴う目標の乱立は、全てを見失うことになりはしないだろうか。
全人格の成長を願いつつも、今はここを伸ばそうとする重点設定が、
成長の糧に直結すると、私は思うのだが。
街のいたる所 八重桜が満開 (3日前)
伊達に移り住んで3度目の春を過ごしている。
季節は、その美しい移ろいを、決して立ち止まらせようとはしてくれない。
次々と趣を変えていく。
私は、一日一日、大自然が見せる色とりどりの変容に、心奪われながらも、
もう少しゆっくりゆっくりと願ったりしている。
そのような空の下、朝日を浴びた草花の鮮やかさと、
整地された畑に並ぶ新芽の凜とした姿が、
ジョギングする私を、いつも励ましてくれる。
さて、17日(日)『第41回洞爺湖マラソン』があった。
国立公園にもなっている景勝地で、
しかも新緑に包まれたコースのマラソン大会である。
全道そして日本各地から、
洞爺湖一周のフルマラソンと10キロ、5キロのレースに、
9000人もの参加者があった。
私は、昨年、右腕の手術で出場を断念した。
そのリベンジもあり10キロにチャレンジした。
湖の中央に浮かぶ中の島を横目に、静かに波打つ湖畔の道を、
老若男女入り乱れて、しかも思い思いのファッションでのランニング。
その1人として、年令を忘れマイペース走の私。
それはそれで、十分に心を満たしてくれた。
沢山のランナーに抜かれ、そして私も何人かを抜いてゴールした。
シューズにつけたチップが、瞬時に私のタイムを計測した。
完走し、達成感の中にいる私に、そのタイムが届いた。
密かに目標としていた『60分切り』は、わずかの時間で叶わなかった。
悔しさがこみ上げた。
汗まみれのシャツを着替えながら、
しきりに自分の走りを振り返った。
そして、朝のジョギングの仕方まで悔やんだ。
次の機会には、必ず『60分切り』をと、
67才の自分に誓った。
次々と進む美しい季節に心奪われながら、
また明日からジョギングを続けよう。
私なりの走力アップを図ろう。
今までとは少し違う欲が芽生えた。
『大会に出場し、自分で決めた設定タイムを切ろう。』
そのために、ジョギングを継続するんだ。
身の丈に合った目標の存在が、成長の糧になることを、
私は再び、我が身をもって実感している。
▼ その2
退職時の学校では、5年間校長を務めたが、
区立幼稚園が併設されており、そこの園長も兼任した。
幼児教育に携わるのは初めてだった。
毎朝、副園長に詳しいレクチャーを求め、職責にあたった。
4歳児と5歳児が、毎朝、保護者と一緒に登園してきた。
私の朝の仕事は、その園児たちを園舎の玄関で迎えることだった。
入園直後の園児は、一人になることが不安で、
何人もが大泣きした。
私は、その子を母親から引き離し、抱きかかえ、
これまた涙を流しながら幼稚園を後にするお母さんを見送った。
しかし、そんな光景は1週間もすれば消え去り、
どの子も明るい表情で通ってくるようになった。
着任当初、私は幼稚園の毎日に、驚きの連続だった。
小学校とは様相が、大きく違っていた。
副園長には、その都度その都度くり返し質問し、教えを受けた。
当然なのだが、チャイムによる生活リズムもなければ、
ほどんど一斉指導もなかった。
集団行動より、個々の思い思い(ニーズ)による活動がメインになって、
毎日が進んだ。
そして、何よりも私が驚いたのは、
多種多彩なイベント・行事の数々であった。
毎日、必ず何かしらのイベントがあった。
毎月の誕生会、季節ごとの遠足や野外活動、
伝統行事にちなんだ催し、季節の草花や野菜の種まきと収穫、
それを使った調理や、色々な人々を招いてのふれあい会等々。
例えば、「こどもの日」パーティーを計画する。
そのために買い物に出かける。パーティー会場の飾り付けを作る。
歌の練習をする。進行の係を決め、事前の練習をくり返す等々、
その取り組みは、前日まで毎日次々と続いた。
園児たちは、その一つ一つに目を輝かせ、
買い物に行けば、買い物ができたと体いっぱいで喜びを表した。、
次の日は、手をのりだらけにしながら、
手作りの鯉のぼりをふり、完成を喜んだ。
園児たちは、毎日の多彩なイベントで貴重な体験を積み、
達成感を味わい、成長した。。
つまり、このような日々の活動こそが、成長の糧なのであった。
『多種多彩なイベント・行事という刺激と体験』が、
成長には欠かせないことを、私は幼児教育から学んだ。
▼ その3
小学校の教室には、数々の目標が掲示されている。
学校目標、学年目標、学級目標、生活目標、保健目標、給食目標、
そして週目標、個人目標等々である。
この目標の中には、通年のものもあれば、
月ごと、学期ごと、週ごとに変わるものもある。
また、目標であるにもかかわらず、達成度等の評価がされず、
目標掲示のみのものもある。
私は、この評価の伴わない目標であっても、
掲示することで子どもの目に止まり、多少なりとも意識化され、
その子の成長の糧になっていると信じている。決して無駄なことではない。
しかし、目標であるならば、
可能な限り、その評価は適宜求めたいものである。
評価の仕方は、様々である。
相互評価、自己評価、絶対評価、相対評価、
記述評価、段階評価、そして形成的評価等々がある。
評価方法の有効性はともかくとして、その評価によって、
自己の成長や前進、進化がおぼろげながらでも確認できれば、
その子は、必ずや次のステップへの意欲を燃やすであろう。
評価は、成長の糧なのである。
また、そうでない場合には、改善点をさぐる大きな動機となる。
「ならば明日からはこんなことに努力しよう。」
「こんな練習方法に変えてみよう。」
「こんなことに心がけてみる。」等々、
新しい一歩を踏み出すことにつながり、その子の目標達成に貢献する。
さて、学校生活における目標は、
多岐にわたりすぎてはいないだろうか。
さきに列記した様々な目標しかりであるが、
例えば、教室掲示でよく目に止まる学期ごとの個人目標を見ると、
そこには、今学期の「学習の目標」「生活の目標」そして
「家庭学習の目標」等までもが、記入することになっている。
どの子もその全てに目標を書き込んでいる。
担任は、その一つ一つにコメントを朱書きして励まし、
その上、月々の評価欄があり、
その達成度を自己評価することになっている事例もある。
はたして、この目標を記入した子は、
目標達成のために、どう迫ろうとしているのだろう。
設定すべき目標を精査・吟味し、精選する必要があるのではなかろうか。
子どもに限らず人の成長には、目標の設定と評価は欠くことができない。
しかし、評価の伴う目標の乱立は、全てを見失うことになりはしないだろうか。
全人格の成長を願いつつも、今はここを伸ばそうとする重点設定が、
成長の糧に直結すると、私は思うのだが。
街のいたる所 八重桜が満開 (3日前)
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