ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

学校経営 私の心がけ

2016-10-28 22:19:45 | 教育
 平成23年3月までの12年間、
東京都で小学校長を勤めた。

 その間、石原都政のもと、
都教委は様々な教育改革を進めた。
 教員の勤務時間の厳正化、
自己申告と業績評価を柱とした人事考課制度の導入、
そして主幹教諭・主任教諭の新設などが、主なそれである。

 また、学力向上が強調され、
3学期制から2学期制へ、
学校週5日制から土曜授業の復活等の見直しが、
各区市町村教委で進んだ。

 さらに、ICTの普及により、
職員室では教職員の机に、1人1台のパソコンが置かれ、
事務や成績の処理の一切が、それで行われ始めた。
 教室では電子黒板が活用され、
インターネットの接続も容易になった。
 教育の基本的なシステムが、
アナログからデジタルへと進行している。

 さて、その成果は、いかがなものか。
ここで多くを語るのは、早過ぎる気がする。

 しかし、どんな改革・見直し・導入が進もうと、
学校が歩む基本姿勢には、不動のものもある。
そう信じている。

 時に、学校では『不易と流行』なる言葉が語られる。
今だからこそ、その『不易』について強調したい。
 その視点から、校長として心がけた学校経営の一端を述べる。


 1、コンセンサスを重視し

 移住してまもなく、
寒冷地仕様のマイカーに買い換えることにした。
 ご近所さんが、カーディーラーの営業マンを紹介してくれた。

 その上、昔の経験だと言って、
営業マンへの値引き交渉までしてくれた。
 再三の値引き要望に音を上げた営業マンは、
「これ以上は、上司に訊いてから。」と、中座した。

 きっと営業マンには、
値引き裁量の限度額があるのだろう。
それをこえた場合には、上司の指示を仰ぐ。
 これがルールなのだと思う。

 さて、これを学校に置き換えたらどうなるだろう。
例えば、授業中に子ども同士の言い争いが始まった。
 教師が仲裁に入ったが、中々収まらない。
これ以上、授業を中断して、
二人に関わっていいのかどうか。

 「ちょっと待って、どうしたらいいか、
校長先生の指示を仰いでくるから。」
 こんなことは、学校現場ではあり得ない。

 教員は、その場のその状況で、最善と思う手段を即断する。
それが、学校における原則である。

 だから、教員は、教育活動のあらゆる時と場において、
こうあるべきと言う判断力と、
それへの揺るぎない確信を、持っていなければならない。
 
 しかも、その判断と確信は、同じ学校のすべての教員が、
共有できるものでなければならない。
 不揃いの判断と確信は、
子どもに混乱をもたらすだけである。

 だからと、近年こんな動きがある。

 それは、学校を確かな縦組織にすること。
そして、上下関係による指示命令系統を徹底し、
学校を一枚岩にしようする経営手法である。

 これは、「迷ったら。上司の判断を仰ぐ。」
という前述の行為を生みかねない。

 教師の判断力と確信を弱め、
子どもからは、「なんて頼りない先生だろう。」と、
映るに違いない。

 私は、コンセンサスを重視した。
コンセンサスの語源はラテン語で、
「お互いが同様に感じる」の意である。
 お互いの意見が同じになること、
つまり合意することである。

 考えや感じ方が同じであれば、
指導は共有され、同一歩調が実現する。
 上意下達とは大きく違った、
連帯感のある教育活動が実践できるのである。

 1人1人の判断と指導は、
他の先生方から必ず同意を得られる。共感される。
 コンセンサスと言う確固たる指導が、
学校教育のあるべき姿だと思う。

 最近、職員会議や各種校内会議が、
連絡調整だけの場になっている。
 合意形成の場からは縁遠いように思う。
これでは、指導と言う裁量権を持っている教師の
正しい判断と確信は得られない。

 過去には、職員会議での多数決が、
学校の最終判断とされていた時代があった。
 それとは決別した今、
コンセンサスの場として職員会議等は、
機能していい。


 2、どの教員にも活躍の場を

 教頭時代の事例である。

 教職経験20年を超える女性教員が異動してきた。
前評判が悪い。

 今までの学校では、
毎年のように保護者とトラブルがあった。
その主なものは、指導のあいまいさによるもので、
それが、保護者の不信へと発展した。

 どんな教員でも、
自信のない指導はあいまいなものになる。
それを指摘されると、
さらにあいまいな指導になるのが常である。
 校長は、彼女になんとか胸を張って、
仕事をしてもらいたいと思った。

 当然、学級担任を決める上で頭を痛めた。
彼女の希望を最優先に担任を決めた。
 そして、校務分掌では、
思い切って、図書室の管理運営を任せる図書主任にした。

 主任という重責に、
彼女なりに想うところがあったのだろう。
 毎日にように、図書室に足を運んでいた。

 さらに、週1回、『朝の読み聞かせ』を行う
ボランティアの方々への対応も、労をいとわず進めた。
 私もそんな彼女を励まし、それとなく手助けした。

 図書主任と言う
学校の根幹を支えていることの自覚とやりがい。
 その生き生きとした姿は、
次第に教室へも持ち込まれていった。
 指導のあいまいさ、自信のなさは影をひそめた。

 保護者とのトラブル等、心配はいらなかった。
『立場が人を造る』と言う。彼女はそれだった。

 彼女に限ったことではない。
人は、自分が活躍できる場を欲しているように思う。
 有用感と呼ぶが、
誰かの役に立っていると言った自覚が、
自信や意欲につながる。

 確かに、教員は直接子どもの指導を行うことが、
大きな役割である。
 だから、学校運営の多くは、
管理職と学校職員に託されることになる。

 しかし、現実には校務分掌により、
学校運営の役割が、教員にも分担される。
 それが通例である。

 起案、そして決裁のシステムは確立してきているが、
教員による、各分掌でのアイディアに富んだ提案と、
その実践が、学校に活気を生む。
 その上、その教員自身をも生き生きとさせる。

 だから、全ての教員が、
自信と意欲をもって活躍できる場を設けることが、
学校経営の重要なポイントなのである。

 まさか、「先生方は子どもの指導とその事務処理、
学校運営の全ては管理職と幹部教員がする。」
 そんな狭い料簡の校長はいないと思うが、
さてどうだろう。



 3.ちょっとした心配りだが

  ① 異動をチャンスに

 3月末、定期異動で学校を去る先生方に、
毎年定まりの言葉を贈った。
 「異動は最大の研修です。それを励みに頑張って。」

 学校によって様々なシステムや、有形無形の校風に違いがある。
今まで当然と思っていたことが、
大きく違ったりすることも、稀ではない。

 その戸惑いが、教師としての足元を見つめさせる。
変化を促す貴重な切っ掛けになる。
 こんな研修の機会は、異動をおいて他にはない。

 とは言うものの、
異動は、教員に大きな不安を抱かせる。
 通勤経路の変更、学校環境、地域性、子供や保護者の実態の違い等々、
気がかりは多い。

 半面、中には、
環境を積極的に変えて、再出発を決意する教員もいる。

 私は、異動予定の教員から、
異動先等の希望を十分に聞き取った。
 そして、その願いが叶うよう努力した。

 しかし、校長が異動について力を発揮できる場は限られる。
人事担当の教委職員によるヒアリングの場のみである。

 私は、毎年、その場で言い続けた。
「来年度、私の学校に着任す
る先生の要望は、一切ありません。
どのような先生においでいただいても、一緒に頑張ります。

 だけど、異動していく先生の希望は、
是非叶えてやってください。
 それは、私の学校で今日まで、
私と一緒に頑張ってくれた先生への、
せめてもの感謝の気持ちなんです。」

 全ては叶わないが、
多くの先生が、希望する地域、学校へ異動していった。

 残った教員は、それをしっかりと見届けている。
これが、意欲につながらない訳がない。
 私はそう思っていた。


  ② ほめ方の 工夫

 子どもも大人も同じだ。
例えば、悪いことやできないことを、
指摘されたり、注意を受けたりしても喜べない。
 しかし、良かったことやできたことを、
認められたり、ほめられたりすると、
決して嫌な気はしない。
 その場でのあり方はともかく、心中は喜びを感じる。

 だが、年齢を増すにつれ、
ほめられても素直に喜ばない傾向はないだろうか。
 パッと表情を明るくしていた頃に比べ、
少し照れたりはにかんだり、
やがて「そんな、おだてられても・・。」と、
かわしたりと変わったのでは。

 それでも、実は誰からでもいいのだが、
頂く好評・ほめられることは、
いくつになっても、嬉しいはずである。
 そのことは、日々のエネルギーや意欲に、
大きく影響するのも確かだ。

 私は、子ども、保護者、教職員を問わず、
肯定的な評価に心をくだいた。
 そして、その素晴らしさを口にした。

 しかし、教員には、
そんなほめ言葉を直接伝えることが少なかった。
 主には、副校長を通して伝えた。
「昨日の授業、すごく良かったって、校長先生、言ってたよ。」
こんな調子である。

 私なりの経験なのだが、そんな伝え方のほうが、
教員は、ほめ言葉を素直に受け入れると思う。

 時には、その先生のいない職員室で、
その先生の指導を、心からほめた。
 それを聞いていた教員らが、
いつかそれをその先生に伝える。
 きっと素直に嬉しく思うはずだ。
インパクトが強いに違いない。




   ビートの収穫作業が始まった
 

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