周囲の悪弊に、心冷えることがある。
だからなのか、とても古い出来事が思い出された。
教職について6年が過ぎ、最初の人事異動があった。
だから、もう40年以上も前のことだ。
着任初日、職員会議があった。
新年度の校務分担が、案件だった。
その冒頭、企画委員の選挙が始まった。
私は戸惑っていた。
職員会議に次ぐ機関として、
企画委員会があることは承知していた。
しかし、その委員を選挙で決めるなど、
聞いたことがなかった。
選挙管理委員が配った投票用紙には、
4名の氏名を書く欄があった。
私は誰の名前も書かず、投票箱にその用紙を入れた。
その後、投票結果が発表になり、企画委員4名が決まった。
ところが、選挙管理委員の先生が強い口調で言った。
「企画委員を決める重大なこの選挙に、
白紙投票をした人がいます。」
「ナンセンス!」
数人が、声をそろえた。選管は続けた。
「これは本校が勧めてきた企画委員選挙を否定するもので、
見過ごすことができません。
白紙投票をした人は、
是非この場でその考えを述べるべきです。」
「その通り!」「発言しろ!」
いくつもの尖った声が、職員室を飛んだ。
私は、その剣幕にビックリしながらも、
手を挙げない訳にいかなかった。
「すみません。先生方の名前もよくわかりませんし、
こんなやり方は初めてだったので・・。」
再び「ナンセンス」の声が、あちこちから上がった。
「企画委員選挙の制度を軽視する行為だ。」
「反省を求めます。」
などの声が相次いだ。
「名前も分からないんですよ。
仕方ないですよ・・。」
そんな風に味方する先生はいなかった。
だが、周りには表情を堅くし、
口を閉ざしている先生方がいた。
その時だけではなかった。
機会ある毎に職員会議は紛糾した。
管理職をはじめ1部の先生へ、
批難と攻撃が集中した。
先生方は、いつ自分がその標的になるか、
それくらいならと、攻撃に荷担する人もいた。
約2年間も続いた職員室のこんな雰囲気に、
いつも不快感を抱いた。
教育の場に相応しくない。
その上、人としてのあり方に、
大きな違和感を持ち続けた。
認め合うことより、揶揄すること。
受容するより、「ダメ出し」すること。
理解するより、見ない振りすること。
歩み寄ることなどはしない。
自分たちの考え以外は排斥する。
それだけに、力をそそいでいるように見えた。
そんな貧相な発想を、
私はどう考えても受け入れられなかった。
決して同化されないようにしようと心した。
そう、あれからずっとずっと、
今も、あのザラザラした言動とは、
無縁でいたいと思っている。
明確に距離を置き続けて、今がある。
やはり、努めて心豊かでありたいのだ。
周囲の騒音をかき消し、その道を淡々と進み続けよう。
最近、拾った『心豊かな』種をいくつか記し、力にする。
▼ 4月の伊達ハーフマラソンは、途中棄権で終わった。
スタートからのオーバーワークで、バテてしまった。
家内の知り合いが、マラソンコースの沿道で、
私に声援を送ってくれていた。
その方に助けを求めた。
ご主人がマイカーで、マラソン会場まで、
送り届けてくれることになった。
ハンドルを握りながら、私よりやや年長のご主人は、
リタイアで落胆している私に、話し続けてくれた。
「走れる人が羨ましいんですよ。
もう3年前になるかな、右膝は人工関節で、
最近は左膝も痛くてね。
そろそろ左も手術かなと思って・・。
でも、まだゴルフだけは何とかできる。
だけど、どう頑張っても1キロも走れないさ。
矢っ張り羨ましいなあ。
だから、私の分もなんて言わないけど、
今日に懲りずに、走れる間は走れるところまで、
いつまでも走ってくださいよ。
羨ましがって、私見てますから・・。」
会場近くで、何度も礼を言い車を降りた。
送り届けてくれたことへのお礼だけでなかった。
さり気ない優しさが、ジワジワと心に浸みていた。
▼ 連休明けと一緒に、
洞爺湖マラソンにむけて、朝のジョギングを再開した。
「無理をしないで・・」。
「今年は辞めにしたら・・」。
そんな声が届く。
「出場か否かは、その日の朝に決める。
それまでは、可能かどうか走ってみたい。」
そう決めて、5月の風に誘われ、
一斉に花咲く野草や樹木に心寄せながら、
42キロ走破を想定し、ゆっくりと走った。
ある朝、道端の斜面を真っ黄色に染めたタンポポのそばを
散歩するおばさんを見た。
普段より一段と素敵に映り、走りながら一瞬ときめいた。
そんな光景の続くある日のこと。
中学校近くの道でだった。
まだ真新しい制服の男子3人が、横並びでやってきた。
楽しげに会話する姿が、青空によく似合っていた。
すれ違い際に、話し声が聞こえた。
「いくつ ぐらいだ?」
同時に、1人の子と目が合った。
応じる必要などなかった。
なのに、春の陽気がとっさに言わせた。
「七十一!」
「余計なことを口走った。」
少し悔いたその時だ。
すれ違いざまに、背中から声が届いた。
「すげーえ。ぼくのおじいちゃんより上だ。」
「俺のじっちゃんよりもだ。すげーえ、すげー。」
急に恥ずかしくなった。
振り向くことも出来ず、
それまでよりも少し足早に走って、照れを隠した。
なのに、いつまでも笑顔が続いていた。
▼ 3年程前、歩いて10分程の場所に理髪店ができた。
便利なので、そこを利用している。
ご夫婦2人で切り盛りし、
主にカットはご主人、顔そりは奥さんが担当している。
2人とも前回の話題をよく記憶しており、
2,3ヶ月ぶりの私でも、
すぐに「マラソンだ」「ゴルフだ」と話を向けてくれる。
まだ40歳代の2人だが、
奥さんは、結婚前まで東京八重洲口付近の美容室に、
勤務していたと言う。
なので私とは、東京のことがよく話題になる。
つい先日だ。
顔を剃り終えてすぐ、
「いらしたら、言おうと思っていたんですよ。
沈丁花が咲いている家があったんです。
いい匂い、してましたよ・・。」
「この近くですか。」
「芙蓉ホールのすぐそばの家の庭です。
まだ、きっと咲いてますよ。」
「そうですか!」
「伊達でも咲くんですね。懐かしくて、それで・・。」
私に教えよう。その気持ちがやけに嬉しい。
そして、やや興奮気味だった懐かしさに、共感しながら、
勤務校の校門にあった沈丁花の、ほのかな香りが蘇ってきた。
八重の桜色に 見とれて
だからなのか、とても古い出来事が思い出された。
教職について6年が過ぎ、最初の人事異動があった。
だから、もう40年以上も前のことだ。
着任初日、職員会議があった。
新年度の校務分担が、案件だった。
その冒頭、企画委員の選挙が始まった。
私は戸惑っていた。
職員会議に次ぐ機関として、
企画委員会があることは承知していた。
しかし、その委員を選挙で決めるなど、
聞いたことがなかった。
選挙管理委員が配った投票用紙には、
4名の氏名を書く欄があった。
私は誰の名前も書かず、投票箱にその用紙を入れた。
その後、投票結果が発表になり、企画委員4名が決まった。
ところが、選挙管理委員の先生が強い口調で言った。
「企画委員を決める重大なこの選挙に、
白紙投票をした人がいます。」
「ナンセンス!」
数人が、声をそろえた。選管は続けた。
「これは本校が勧めてきた企画委員選挙を否定するもので、
見過ごすことができません。
白紙投票をした人は、
是非この場でその考えを述べるべきです。」
「その通り!」「発言しろ!」
いくつもの尖った声が、職員室を飛んだ。
私は、その剣幕にビックリしながらも、
手を挙げない訳にいかなかった。
「すみません。先生方の名前もよくわかりませんし、
こんなやり方は初めてだったので・・。」
再び「ナンセンス」の声が、あちこちから上がった。
「企画委員選挙の制度を軽視する行為だ。」
「反省を求めます。」
などの声が相次いだ。
「名前も分からないんですよ。
仕方ないですよ・・。」
そんな風に味方する先生はいなかった。
だが、周りには表情を堅くし、
口を閉ざしている先生方がいた。
その時だけではなかった。
機会ある毎に職員会議は紛糾した。
管理職をはじめ1部の先生へ、
批難と攻撃が集中した。
先生方は、いつ自分がその標的になるか、
それくらいならと、攻撃に荷担する人もいた。
約2年間も続いた職員室のこんな雰囲気に、
いつも不快感を抱いた。
教育の場に相応しくない。
その上、人としてのあり方に、
大きな違和感を持ち続けた。
認め合うことより、揶揄すること。
受容するより、「ダメ出し」すること。
理解するより、見ない振りすること。
歩み寄ることなどはしない。
自分たちの考え以外は排斥する。
それだけに、力をそそいでいるように見えた。
そんな貧相な発想を、
私はどう考えても受け入れられなかった。
決して同化されないようにしようと心した。
そう、あれからずっとずっと、
今も、あのザラザラした言動とは、
無縁でいたいと思っている。
明確に距離を置き続けて、今がある。
やはり、努めて心豊かでありたいのだ。
周囲の騒音をかき消し、その道を淡々と進み続けよう。
最近、拾った『心豊かな』種をいくつか記し、力にする。
▼ 4月の伊達ハーフマラソンは、途中棄権で終わった。
スタートからのオーバーワークで、バテてしまった。
家内の知り合いが、マラソンコースの沿道で、
私に声援を送ってくれていた。
その方に助けを求めた。
ご主人がマイカーで、マラソン会場まで、
送り届けてくれることになった。
ハンドルを握りながら、私よりやや年長のご主人は、
リタイアで落胆している私に、話し続けてくれた。
「走れる人が羨ましいんですよ。
もう3年前になるかな、右膝は人工関節で、
最近は左膝も痛くてね。
そろそろ左も手術かなと思って・・。
でも、まだゴルフだけは何とかできる。
だけど、どう頑張っても1キロも走れないさ。
矢っ張り羨ましいなあ。
だから、私の分もなんて言わないけど、
今日に懲りずに、走れる間は走れるところまで、
いつまでも走ってくださいよ。
羨ましがって、私見てますから・・。」
会場近くで、何度も礼を言い車を降りた。
送り届けてくれたことへのお礼だけでなかった。
さり気ない優しさが、ジワジワと心に浸みていた。
▼ 連休明けと一緒に、
洞爺湖マラソンにむけて、朝のジョギングを再開した。
「無理をしないで・・」。
「今年は辞めにしたら・・」。
そんな声が届く。
「出場か否かは、その日の朝に決める。
それまでは、可能かどうか走ってみたい。」
そう決めて、5月の風に誘われ、
一斉に花咲く野草や樹木に心寄せながら、
42キロ走破を想定し、ゆっくりと走った。
ある朝、道端の斜面を真っ黄色に染めたタンポポのそばを
散歩するおばさんを見た。
普段より一段と素敵に映り、走りながら一瞬ときめいた。
そんな光景の続くある日のこと。
中学校近くの道でだった。
まだ真新しい制服の男子3人が、横並びでやってきた。
楽しげに会話する姿が、青空によく似合っていた。
すれ違い際に、話し声が聞こえた。
「いくつ ぐらいだ?」
同時に、1人の子と目が合った。
応じる必要などなかった。
なのに、春の陽気がとっさに言わせた。
「七十一!」
「余計なことを口走った。」
少し悔いたその時だ。
すれ違いざまに、背中から声が届いた。
「すげーえ。ぼくのおじいちゃんより上だ。」
「俺のじっちゃんよりもだ。すげーえ、すげー。」
急に恥ずかしくなった。
振り向くことも出来ず、
それまでよりも少し足早に走って、照れを隠した。
なのに、いつまでも笑顔が続いていた。
▼ 3年程前、歩いて10分程の場所に理髪店ができた。
便利なので、そこを利用している。
ご夫婦2人で切り盛りし、
主にカットはご主人、顔そりは奥さんが担当している。
2人とも前回の話題をよく記憶しており、
2,3ヶ月ぶりの私でも、
すぐに「マラソンだ」「ゴルフだ」と話を向けてくれる。
まだ40歳代の2人だが、
奥さんは、結婚前まで東京八重洲口付近の美容室に、
勤務していたと言う。
なので私とは、東京のことがよく話題になる。
つい先日だ。
顔を剃り終えてすぐ、
「いらしたら、言おうと思っていたんですよ。
沈丁花が咲いている家があったんです。
いい匂い、してましたよ・・。」
「この近くですか。」
「芙蓉ホールのすぐそばの家の庭です。
まだ、きっと咲いてますよ。」
「そうですか!」
「伊達でも咲くんですね。懐かしくて、それで・・。」
私に教えよう。その気持ちがやけに嬉しい。
そして、やや興奮気味だった懐かしさに、共感しながら、
勤務校の校門にあった沈丁花の、ほのかな香りが蘇ってきた。
八重の桜色に 見とれて
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