3が日は、姉から贈られた登別温泉『滝の家』のおせちを、
食べて過ごした。
味は勿論だが、見た目が綺麗で、
ついつい食べ惜しんだり・・・。
それでも、熱燗やワインを飲みながら、大満足!
プチ贅沢を堪能した。
2日は、兄が初めて泊まりがけで我が家へ。
夜は食卓を囲みがら、昔々の思い出話に時が過ぎた。
そんな中、つい調子に乗って、
オメガの腕時計について語ってしまった。
① 形見分けのオメガ
母が亡くなって17年になる。
享年96歳だった。
葬儀が終わってから、
姉たちが兄と同居していた母の部屋に入ってみた。
几帳面な人だったから、
案の定、隅々まで整理整頓がされていた。
母の気性を一番知る長姉が、
真っ先に和箪笥の引き出しを開けてみた。
中には、娘2人と嫁3人の名が付いた大きな風呂敷包みが
5つあった。
母が着た和服と、その生地を使って縫った手製の小物入れなどだった。
それが、母からの形見分けだった。
3人の息子へ宛てた物は何もなかった。
仕方なく、母の部屋で思い出の品を探した。
老人ホームで手習いした水仙のちぎり絵があった。
兄姉から許しを得て、
それを形見分けとして頂いた。
今も、リビングの隅を飾っている。
さて、父だが、
私が30歳の時、9ヶ月間に及ぶ闘病生活の末に亡くなった。
当時の世相もあり、癌の告知はしなかった。
だから、最後の最後まで希望を捨てずに逝った。
そんな訳で、遺言などはない。
店は、一緒にやっていた次男の兄が継ぐ。
当然のことだった。
銀行口座等の蓄えも次兄へ。
誰も、異論などなかった。
葬儀がすべて終わった日、
母と兄弟家族が、居間に集まった。
父の思い出の物を形見として分けることになった。
日常生活で使っていたものが全てだった。
私は、兄弟5人の中で唯一、大学まで行かせてもらった。
例え日常品でも、思い出の詰まった貴重な品である。
「あれもこれもほしい」は言える立場ではない。
そんな気持ちで、その場に座った。
でも、密かに望んでいた物が1つだけあった。
父が愛用していた『オメガの腕時計』だった。
珍しく父を訪ねてきた方に、
わざわざ腕から外して、見せていた。
私も、1度だけ手にしたことがあった。
「これは舶来品だ。
ドイツのオメガ社製で、珍しい腕時計なんだ」。
誇らしげに、教えてくれた。
だから、狭い居間の真ん中にそれを置き、
母が「この腕時計、誰かもらって上げて」と、
言ったら、手を挙げるつもりでいた。
ところが、私より先に長兄が、
「貰うワ!」とオメガを握ったのだ。
私は、何も言えず、押し黙った。
「オレもそれ欲しい!」とは、どうしても言えなかった。
仕方なく、父が最後まで病床で使っていた毛布を、
形見分けに貰った。
以来40数年、押し入れの奥にある。
② 憧れのオメガ
もしも父のオメガを譲り受けていたら、
きっと毎日誇らしげに左腕にしていただろう。
あの日から、時折そう思い、
長兄が羨ましかった。
オメガの腕時計がどれだけ高価なものか、
全く知らなかった。
ただ、父の言葉だけが記憶にあった。
「舶来品」「珍しい腕時計」の代表がオメガだった。
当時愛用していたセイコーの自動巻とは、
雲泥の差があることだけは、容易に推測できた。
いつからか「オメガは憧れの腕時計」になっていた。
そのオメガをアメ横街の時計屋で買った。
父を亡くして10年以上が過ぎていた。
クオーツ型でオメガとしては、安価なものだった。
それでも、ついにオメガを手に入れた。
すぐに、腕につけて上野の通りを歩いた。
思わずスキップしそうになった。
「父と同じオメガ!」。
それだけで、浮かれた。
それから、20年以上もの間、
オメガは、いつも私の左腕にあった。
「お母さんが言ってたけど、
先生の腕時計って、すごく高級なんだってね」。
わざわざ私の左腕を見に来る子が、何人かいた。
その都度、言った。
「先生のはね、同じオメガでも安物。
高級品じゃないの。お母さんにそう言ってね」。
来校した保護者が、
オメガの腕時計に気づいたのだろう。
とんだ誤解だが、でも少し嬉しかった。
そのオメガが、動かなくなったのは、
伊達に移住してすぐだった。
地元の時計店に修理をお願いした。
一度は直ったが、半年もしないでまたダメになった。
もう修理も難しいと言われた。
思い切って、買い換えることにした。
札幌のデパートまで出かけ、
私にとって2つ目のオメガを買い求めた。
店員が薦めるオメガの中から、
高級そうなだが安価なものを選んだ。
その腕時計でも、
きっと私の形見になると思い、今日も使っている。
③ 偶然のオメガ
新しいオメガを購入して間もなく、
次男の結婚が決まった。
形だけでもと、結納が行われることになった。
両家の家族が集まり、料亭の畳の間で、
結納の儀を執り行った。
そんな習わしがあるのかどうかは知らなかったが、
結びに、お嫁さんから息子へ、記念の贈り物があった。
その場で、その品の紹介と披露があった。
なんとオメガの腕時計だった。
オメガへの想いを息子らに語ったことはなかった。
まったくの偶然。
でも「これも何かの縁!」。
私1人が、胸を熱くしていた。
昭和新山・有珠山 ~壮瞥・立香から
食べて過ごした。
味は勿論だが、見た目が綺麗で、
ついつい食べ惜しんだり・・・。
それでも、熱燗やワインを飲みながら、大満足!
プチ贅沢を堪能した。
2日は、兄が初めて泊まりがけで我が家へ。
夜は食卓を囲みがら、昔々の思い出話に時が過ぎた。
そんな中、つい調子に乗って、
オメガの腕時計について語ってしまった。
① 形見分けのオメガ
母が亡くなって17年になる。
享年96歳だった。
葬儀が終わってから、
姉たちが兄と同居していた母の部屋に入ってみた。
几帳面な人だったから、
案の定、隅々まで整理整頓がされていた。
母の気性を一番知る長姉が、
真っ先に和箪笥の引き出しを開けてみた。
中には、娘2人と嫁3人の名が付いた大きな風呂敷包みが
5つあった。
母が着た和服と、その生地を使って縫った手製の小物入れなどだった。
それが、母からの形見分けだった。
3人の息子へ宛てた物は何もなかった。
仕方なく、母の部屋で思い出の品を探した。
老人ホームで手習いした水仙のちぎり絵があった。
兄姉から許しを得て、
それを形見分けとして頂いた。
今も、リビングの隅を飾っている。
さて、父だが、
私が30歳の時、9ヶ月間に及ぶ闘病生活の末に亡くなった。
当時の世相もあり、癌の告知はしなかった。
だから、最後の最後まで希望を捨てずに逝った。
そんな訳で、遺言などはない。
店は、一緒にやっていた次男の兄が継ぐ。
当然のことだった。
銀行口座等の蓄えも次兄へ。
誰も、異論などなかった。
葬儀がすべて終わった日、
母と兄弟家族が、居間に集まった。
父の思い出の物を形見として分けることになった。
日常生活で使っていたものが全てだった。
私は、兄弟5人の中で唯一、大学まで行かせてもらった。
例え日常品でも、思い出の詰まった貴重な品である。
「あれもこれもほしい」は言える立場ではない。
そんな気持ちで、その場に座った。
でも、密かに望んでいた物が1つだけあった。
父が愛用していた『オメガの腕時計』だった。
珍しく父を訪ねてきた方に、
わざわざ腕から外して、見せていた。
私も、1度だけ手にしたことがあった。
「これは舶来品だ。
ドイツのオメガ社製で、珍しい腕時計なんだ」。
誇らしげに、教えてくれた。
だから、狭い居間の真ん中にそれを置き、
母が「この腕時計、誰かもらって上げて」と、
言ったら、手を挙げるつもりでいた。
ところが、私より先に長兄が、
「貰うワ!」とオメガを握ったのだ。
私は、何も言えず、押し黙った。
「オレもそれ欲しい!」とは、どうしても言えなかった。
仕方なく、父が最後まで病床で使っていた毛布を、
形見分けに貰った。
以来40数年、押し入れの奥にある。
② 憧れのオメガ
もしも父のオメガを譲り受けていたら、
きっと毎日誇らしげに左腕にしていただろう。
あの日から、時折そう思い、
長兄が羨ましかった。
オメガの腕時計がどれだけ高価なものか、
全く知らなかった。
ただ、父の言葉だけが記憶にあった。
「舶来品」「珍しい腕時計」の代表がオメガだった。
当時愛用していたセイコーの自動巻とは、
雲泥の差があることだけは、容易に推測できた。
いつからか「オメガは憧れの腕時計」になっていた。
そのオメガをアメ横街の時計屋で買った。
父を亡くして10年以上が過ぎていた。
クオーツ型でオメガとしては、安価なものだった。
それでも、ついにオメガを手に入れた。
すぐに、腕につけて上野の通りを歩いた。
思わずスキップしそうになった。
「父と同じオメガ!」。
それだけで、浮かれた。
それから、20年以上もの間、
オメガは、いつも私の左腕にあった。
「お母さんが言ってたけど、
先生の腕時計って、すごく高級なんだってね」。
わざわざ私の左腕を見に来る子が、何人かいた。
その都度、言った。
「先生のはね、同じオメガでも安物。
高級品じゃないの。お母さんにそう言ってね」。
来校した保護者が、
オメガの腕時計に気づいたのだろう。
とんだ誤解だが、でも少し嬉しかった。
そのオメガが、動かなくなったのは、
伊達に移住してすぐだった。
地元の時計店に修理をお願いした。
一度は直ったが、半年もしないでまたダメになった。
もう修理も難しいと言われた。
思い切って、買い換えることにした。
札幌のデパートまで出かけ、
私にとって2つ目のオメガを買い求めた。
店員が薦めるオメガの中から、
高級そうなだが安価なものを選んだ。
その腕時計でも、
きっと私の形見になると思い、今日も使っている。
③ 偶然のオメガ
新しいオメガを購入して間もなく、
次男の結婚が決まった。
形だけでもと、結納が行われることになった。
両家の家族が集まり、料亭の畳の間で、
結納の儀を執り行った。
そんな習わしがあるのかどうかは知らなかったが、
結びに、お嫁さんから息子へ、記念の贈り物があった。
その場で、その品の紹介と披露があった。
なんとオメガの腕時計だった。
オメガへの想いを息子らに語ったことはなかった。
まったくの偶然。
でも「これも何かの縁!」。
私1人が、胸を熱くしていた。
昭和新山・有珠山 ~壮瞥・立香から
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