①
伊達に住み始めて7年になるが、
以来ずっと、散歩代わりにランニングをしてきた。
生活のリズムとして始めたが、
こんなに長く続くとは思ってもみなかった。
『伊達ハーフマラソン』大会を初め、
いくつかのマラソン大会に参加するようになった。
それが励みになり、継続できたのだと思う。
さて、5年前からマラソン大会出場の定型ができた。
それは、
4月に伊達ハーフマラソン(ハーフ)、
5月に洞爺湖マラソン大会(フルマラソン)、
6月に八雲ミルクロードレース(ハーフ)、
9月に旭川ハーフマラソン(ハーフ)、
11月に江東シーサイドマラソン(ハーフ)だった。
ところが、今年はそれに狂いが生じた。
1つは、5月の洞爺湖から6月の八雲までの期間が短く、
八雲へ出場することを諦めた。
もう1つは、出場を予定していた『江東シーサイドマラソン』だが、
エントリーが多く、抽選で外れてしまい、出場できなくなった。
その上にだ。
4月の伊達は10キロも走らずにギブアップ。
5月の洞爺湖は30キロまでがやっとで、リタイア。
ここまで、完走がないのだ。
こうなると、9月29日(日)の旭川ハーフマラソンが、
今年最後の大会出場となる。
想いはだた1つ。
今年1枚きりになるが、『完走証がほしい!』。
記録は、自己ワーストでいい。
完走者の最下位でもいい。
とにかく2時間40分の閉門までに、
21、0975キロをゴールしたい。
それだけを目標に、その日、私は走った。
② 旭川は、広い盆地の中にある。
しかも、いくつもの大きな川が流れている。
大会の主催者はあいさつで、
開口一番「皆さん、川の街へようこそ」と言った。
そんな幾筋もの川の土手道や河川敷の遊歩道と橋、
道内第2の都市の市街地の4車線、そして自衛隊駐屯地内の道路と、
バリエションあるコースが、このマラソン大会のポイントだ。
平坦な道に、土手や河川敷への上り下りが数カ所あり、
その上勾配のある橋が、体力を奪うのだ。
だが、他のマラソン大会より、コースのいたるところで、
声援を送ってくれる人々がおり、途切れない。
私は、それに励まされる。
これで出場が、5回目になる。
コースも熟知している。
例年と同じ場所で声援を送ってくれる方々の記憶が蘇った。
まずはその声援についてだ。
市街地の道路脇、7キロ付近には私設の給水所がある。
その先の交差点そばの自宅前では、簡易ベンチを出し、
家族そろって手を振り、ランナーを見送っていた。
民家の並ぶ道では、
門柱に、『みんな、ガンバレ』の看板が立っている。
旭橋では、義姉が私の名前入りのぼりを掲げて待っている。
1つ1つに、心が熱くなった。
さて、10キロを過ぎて後半に入ってからだ。
次第に足が重くなった。
走り込み不足を後悔しながら、マイペースで走った。
コースが公園の散歩道から、土手道への上りにさしかかった。
この坂では、歩きだすランナーが意外と多い。
私は、決まって呼吸を整えてから、
淡々と駆け上ることにしていた。
その坂にかかってすぐだ。
道路右脇から、声が聞こえた。
その声は、確か昨年も1昨年も聞いた気がする。
だが、この坂道に夢中で、気に止めてこなかった。
なのに、今年は耳に飛び込んできた。
その声は、つぶやくように細かった。
「これ、食べて行きなさい。食べて行きなさい。」
やや腰の曲がった女性はそう言って、
四角い缶から、小さなクッキーを差し出していた。
隣に並ぶ同世代の女性が、続いた。
「手作りです。手作り!」。
「いただきます。ありがとうございます。」
笑顔で、クッキーを1枚手にしたかった。
でも、その余裕が私になかった。
軽く会釈だけした。
通り過ぎてから、
「これ、食べて行きなさい。」
の、あの細い声が母のそれと重なり、
いつまでも耳にあった。
しばらくはそれが力になり、走り続けられた。
続いて最終版だ。
ゴールまで2キロをきった所に、
河川敷からの最後の上り坂が待っている。
ここで、3人の方が応援してくれていた。
もうヘトヘトの場面での励ましは、
そこに立って見守ってくれているだけで、
力になる。
なのに、1人の男性が何やら叫び続けていた。
聞き取れるところまで近づいた。
「もう少しで、ビールが飲めます。
もう少しで、ビールです。」
それだけをくり返し、大声で言っていた。
「そうか。ビールか。」
きっと私だけではないに違いない。
このタイミングで、この声援だ。
どれだけのランナーが、この声を聞きながら、
この坂を上ったことだろう。
今夜の宿と、夕食の生ビールを想像した。
その間に、スイスイと坂道を進んでいた。
上りきって左の橋へ曲がった。
欄干から後続ランナーを見た。
「もう少しで、ビールが・・」
と、声援が続いていた。
後1キロ余り、苦しさに変わりはないが、
明るい気持ちでゴールを目指していた。
③ 沿道からの声援は、
素敵なことばかりではなかった。
実は、昨年の大会から、
ハーフマラソンのコースが一部変更になった。
10キロまでの折り返し地点が近くなった。
その分、後半のコースが5キロ程度延長された。
それを知らずに声援を送るお年寄りがいた。
彼は、目の前を通りランナー1人1人に、
小声でくり返し言った。
私にも言ってくれた。
「ゴールまで後2キロです。ガンバレ。」
変更前は、その通りだった。
それが間違いだと瞬時に分かった。
でも、1人1人への声援が嬉しかった。
しかしだ。
そのお年寄りは、
私の後続ランナーにも同様の声援を送った。
最初に、そのランナーの弁護をする。
ゴールまでまだ7キロ、3分の1も残っていた。
辛さ、苦しさのピークが近づいているところだ、
そこで、ゴールまで2キロと言う誤った情報だ。
後続ランナーは、小声で声援するお年寄りに向かって、
声を荒げた。
「そんなはず、ないだろう!」
その声の大きさと、強さに、私まで萎縮した。
それまで長い時間、
声援を続けてくれた沿道のお年寄りが、
どんな気持ちになったか。
でも、走り続けるしかなかった。
しばらく心が傷んだ。
後続ランナーの言動を理解しつつも、
許せなかった。
71歳のランナーは、ムキになった。
「この人より先にゴールする。絶対に抜かせない。」
それしか私の気持ちを納める方法がなかった。
後続の足音を気にかけながら、走り続けた。
さて、21、0975キロの結果だが、
完走証を手にすることができた。
ほっとしてまもなく、花咲陸上競技場の門が閉鎖され、
トラックから人影が消えた。
「また来年、ここを走りたい。
そして、またあの声援を受けたい。」
そう思いながら、
夕食の生ビールをグイッと飲んだ。
「う~ん、うまい!」。
10月 伊達の遠景 何故かもの悲しい!
伊達に住み始めて7年になるが、
以来ずっと、散歩代わりにランニングをしてきた。
生活のリズムとして始めたが、
こんなに長く続くとは思ってもみなかった。
『伊達ハーフマラソン』大会を初め、
いくつかのマラソン大会に参加するようになった。
それが励みになり、継続できたのだと思う。
さて、5年前からマラソン大会出場の定型ができた。
それは、
4月に伊達ハーフマラソン(ハーフ)、
5月に洞爺湖マラソン大会(フルマラソン)、
6月に八雲ミルクロードレース(ハーフ)、
9月に旭川ハーフマラソン(ハーフ)、
11月に江東シーサイドマラソン(ハーフ)だった。
ところが、今年はそれに狂いが生じた。
1つは、5月の洞爺湖から6月の八雲までの期間が短く、
八雲へ出場することを諦めた。
もう1つは、出場を予定していた『江東シーサイドマラソン』だが、
エントリーが多く、抽選で外れてしまい、出場できなくなった。
その上にだ。
4月の伊達は10キロも走らずにギブアップ。
5月の洞爺湖は30キロまでがやっとで、リタイア。
ここまで、完走がないのだ。
こうなると、9月29日(日)の旭川ハーフマラソンが、
今年最後の大会出場となる。
想いはだた1つ。
今年1枚きりになるが、『完走証がほしい!』。
記録は、自己ワーストでいい。
完走者の最下位でもいい。
とにかく2時間40分の閉門までに、
21、0975キロをゴールしたい。
それだけを目標に、その日、私は走った。
② 旭川は、広い盆地の中にある。
しかも、いくつもの大きな川が流れている。
大会の主催者はあいさつで、
開口一番「皆さん、川の街へようこそ」と言った。
そんな幾筋もの川の土手道や河川敷の遊歩道と橋、
道内第2の都市の市街地の4車線、そして自衛隊駐屯地内の道路と、
バリエションあるコースが、このマラソン大会のポイントだ。
平坦な道に、土手や河川敷への上り下りが数カ所あり、
その上勾配のある橋が、体力を奪うのだ。
だが、他のマラソン大会より、コースのいたるところで、
声援を送ってくれる人々がおり、途切れない。
私は、それに励まされる。
これで出場が、5回目になる。
コースも熟知している。
例年と同じ場所で声援を送ってくれる方々の記憶が蘇った。
まずはその声援についてだ。
市街地の道路脇、7キロ付近には私設の給水所がある。
その先の交差点そばの自宅前では、簡易ベンチを出し、
家族そろって手を振り、ランナーを見送っていた。
民家の並ぶ道では、
門柱に、『みんな、ガンバレ』の看板が立っている。
旭橋では、義姉が私の名前入りのぼりを掲げて待っている。
1つ1つに、心が熱くなった。
さて、10キロを過ぎて後半に入ってからだ。
次第に足が重くなった。
走り込み不足を後悔しながら、マイペースで走った。
コースが公園の散歩道から、土手道への上りにさしかかった。
この坂では、歩きだすランナーが意外と多い。
私は、決まって呼吸を整えてから、
淡々と駆け上ることにしていた。
その坂にかかってすぐだ。
道路右脇から、声が聞こえた。
その声は、確か昨年も1昨年も聞いた気がする。
だが、この坂道に夢中で、気に止めてこなかった。
なのに、今年は耳に飛び込んできた。
その声は、つぶやくように細かった。
「これ、食べて行きなさい。食べて行きなさい。」
やや腰の曲がった女性はそう言って、
四角い缶から、小さなクッキーを差し出していた。
隣に並ぶ同世代の女性が、続いた。
「手作りです。手作り!」。
「いただきます。ありがとうございます。」
笑顔で、クッキーを1枚手にしたかった。
でも、その余裕が私になかった。
軽く会釈だけした。
通り過ぎてから、
「これ、食べて行きなさい。」
の、あの細い声が母のそれと重なり、
いつまでも耳にあった。
しばらくはそれが力になり、走り続けられた。
続いて最終版だ。
ゴールまで2キロをきった所に、
河川敷からの最後の上り坂が待っている。
ここで、3人の方が応援してくれていた。
もうヘトヘトの場面での励ましは、
そこに立って見守ってくれているだけで、
力になる。
なのに、1人の男性が何やら叫び続けていた。
聞き取れるところまで近づいた。
「もう少しで、ビールが飲めます。
もう少しで、ビールです。」
それだけをくり返し、大声で言っていた。
「そうか。ビールか。」
きっと私だけではないに違いない。
このタイミングで、この声援だ。
どれだけのランナーが、この声を聞きながら、
この坂を上ったことだろう。
今夜の宿と、夕食の生ビールを想像した。
その間に、スイスイと坂道を進んでいた。
上りきって左の橋へ曲がった。
欄干から後続ランナーを見た。
「もう少しで、ビールが・・」
と、声援が続いていた。
後1キロ余り、苦しさに変わりはないが、
明るい気持ちでゴールを目指していた。
③ 沿道からの声援は、
素敵なことばかりではなかった。
実は、昨年の大会から、
ハーフマラソンのコースが一部変更になった。
10キロまでの折り返し地点が近くなった。
その分、後半のコースが5キロ程度延長された。
それを知らずに声援を送るお年寄りがいた。
彼は、目の前を通りランナー1人1人に、
小声でくり返し言った。
私にも言ってくれた。
「ゴールまで後2キロです。ガンバレ。」
変更前は、その通りだった。
それが間違いだと瞬時に分かった。
でも、1人1人への声援が嬉しかった。
しかしだ。
そのお年寄りは、
私の後続ランナーにも同様の声援を送った。
最初に、そのランナーの弁護をする。
ゴールまでまだ7キロ、3分の1も残っていた。
辛さ、苦しさのピークが近づいているところだ、
そこで、ゴールまで2キロと言う誤った情報だ。
後続ランナーは、小声で声援するお年寄りに向かって、
声を荒げた。
「そんなはず、ないだろう!」
その声の大きさと、強さに、私まで萎縮した。
それまで長い時間、
声援を続けてくれた沿道のお年寄りが、
どんな気持ちになったか。
でも、走り続けるしかなかった。
しばらく心が傷んだ。
後続ランナーの言動を理解しつつも、
許せなかった。
71歳のランナーは、ムキになった。
「この人より先にゴールする。絶対に抜かせない。」
それしか私の気持ちを納める方法がなかった。
後続の足音を気にかけながら、走り続けた。
さて、21、0975キロの結果だが、
完走証を手にすることができた。
ほっとしてまもなく、花咲陸上競技場の門が閉鎖され、
トラックから人影が消えた。
「また来年、ここを走りたい。
そして、またあの声援を受けたい。」
そう思いながら、
夕食の生ビールをグイッと飲んだ。
「う~ん、うまい!」。
10月 伊達の遠景 何故かもの悲しい!
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