① 清秋の北都
今年4月、満70歳を迎えた。
節目の1年が始まった正月、
私は例年以上に気合いが入っていた。
『70歳の記念に、
もう1度フルマラソンを完走したい。』
何を隠そう、密かにそんな思いを胸にしていた。
しかし、体調が整わないまま春を迎えることになった。
4月『伊達ハーフマラソン』も、
5月『洞爺湖マラソン』のフルも、
エントリーはしたものの、出場できずに過ぎてしまった。
70歳の私は、不安を大きくした。
密かな目標も、見事に摘まれてしまった。
それでも6月、八雲の『ミルクロードレース』の、
スタートラインに立った。
70歳初めてのハーフマラソンにチャレンジだ。
このマラソン大会への出場は、連続4回目だが、
10キロの部とハーフの部を合わせても、300人程度。
走り始めて間もなく、沿道に人の姿はなく、
私の近くにランナーもいなくなった。
1人淡々と足を進めた。
6月16日のブロク『70歳の 花冷えから青葉へ』は、
その時の私の変化を、こう記している。
『私の心が動きだした。
嬉しかったのだ。
遠くのゴールを信じ、前を向いて走り続けていた。
絶対に完走できると思い込んで走っていた。
そして、ゆっくりでも確かな足どりだった。
『体力の衰え』を認め、肩を落とした日。
もうマラソン大会を走る日が来ないのではと、凹んだ時。
「あれは昔の昔」と回顧するだけになると、湿った私。
ところが、胸にゼッケンをつけて走っている。
それが、嬉しいのだ。
1キロごとのラップは、どんどん落ちていった。
息が苦しい。足も重たい。
なのに、どこかがずっと弾んでいた。』
マラソン大会への参加、
その喜びを今まで以上に感じた。
「走ることができる」。
それだけで、明るい気持ちになれた。
そして、そのまま北海道の短い夏がきた。
思いがけず腰痛に見舞われた時があり、
また年令を痛感させられた。
でも、決して無理せず、
走れる時に朝のジョギングに気持ちのいい汗を流した。
9月末、北都にて、
『第10回旭川ハーフマラソン』があった。
この大会も、4年連続の参加になる。
例年より、1週間遅い開催だった。
北都の秋は早い。
公園の樹木も、街路樹も、
いつも以上に赤や黄に色づいていた。
その日、私は今までとは全く違う心境で、
競技場にいた。
いつもなら、「無事完走できるか。」
「自己ベストは出せるだろうか。」
「水分補給はどうしたらいい・・?」など、
不安や自信のなさなどから、緊張感に包まれた。
しかし、明らかにリラックスしていた。
八雲の嬉しさが、しっかりと根付いていた。
スタートの合図を、ワクワクしながら待った。
目標はたった1つ、
大会が決めた2時間40分以内にゴールすること、
それだけだった。
私は、背筋を伸ばし胸を張って、走り始めた。
この大会は、3キロから6キロ付近までを、
自衛隊の駐屯地内を走る。
そこでは、沿道の両側に等間隔で並んだ自衛隊員が、
声援を送ってくれる。
まだ『北海道胆振東部地震』の救援活動が、
続いている最中だった。
それでも、私たちランナーに時間をさいてくれた。
駐屯地から一般道へ出る時だ。
「ありがとうございました。」
思いがけず大声で叫んでいた。
すると、他のランナーも、
私と同じように、次々と叫んだ。
出入り口門の一番近くにいた他とは違う制服の隊員が、
姿勢を正し、最敬礼を返してくれた。
その後も、マイペース。
走ることの楽しさを感じながら、
市街地と河川敷のコースを進んだ。
途切れ途切れだが、沿道から声援を送る方がいた。
時々届く私への「頑張って」の声に、
必ず大きくうなずき、走り続けた。
21キロの長丁場だ。
苦しい走りになることもあった。
そんな時は、少しペースダウンして、足を進めた。
「70歳のランナーはそれでいい。」
自分に言い聞かせた。
声援には、相変わらず大きくうなずき、
胸を張った。
しばらくすると、いつもの走りが戻ってきた。
そして、ついに明るい表情のまま、競技場に戻った。
最後の150メートルは、全力疾走でゴールした。
記録は、私のワースト1の更新だった。
それより、楽しく完走できた。
それで、満足だった。
八雲の走りが、そのまま続いていた。
この大会の特徴は、年代別のエントリーだ。
男子70歳代以上の部は、35人が完走した。
その中で、24番目のゴールだった。
十分、満足した。
② 清秋の首都
11月25日は、『第38回江東シーサイドマラソン大会』だった。
気温12度、無風、快晴とは言えないが、好天に恵まれた。
なんと言っても、北海道に比べ、日差しが明るい。
そのまぶしさに、色づいた銀杏が綺麗だった。
この大会も、4年連続の参加になる。
10キロの部とハーフの部の合計4720名がエントリーした。
会場の夢の島競技場は、多くの人で賑わっていた。
受付も、トイレも、荷物預かり場もすぐに人の列ができた。
それだけで、久しぶりに都会の活気を感じ、嬉しかった。
私と同じハーフ壮年(50歳以上)男子の部は、
755名が参加した。
実は、これまでに参加したハーフマラソンで、
この大会が一番関門が厳しいのだ。
5キロごとに、関門が設けられている。
その5キロを、1キロ平均7分以内で走らなければ、
その後の走行が止められる。
中でも最大の難関は、
スタートして最初の5キロの関門である。
そこを、スタートから35分以内に通過しなくてはならない。
ところが、私のようなランナーは、
他のランナーの邪魔にならないよう最後尾からのスタートとなる。
私らは、スタートの合図から、約1分半後に、
スタートラインをまたぐのだ。
それでも合図から35分後に、5キロの関門が閉鎖になる。
つまり、実質33分半しかないのだ。
これは、今の私の走力ではやっとのタイムなのだ。
どの大会もマイペースでゴールまで楽しく走りたい。
それが、70歳ランナーの想いだ。
しかし、この大会では、その想いは5キロ通過後になった。
競技場を出た私は、
道いっぱいに広がる沢山のランナー達に混じって、
明治通りと永代橋通りを走り、
5キロの関門へ向かった。
関門には、何人もの役員が待ち構えていた。
時計を手にした役員が叫んだ。
「関門、閉鎖まで後2分!」。
つまり、私は5キロを31分半で走ったのだ。
その速さが、私からスタミナを奪ったのだろうか。
いや、そこを無事通過でき、安堵したからなのか。
その後の私は、苦しい走りに終始した。
「きっと今にいつもの走りになる」。
そう信じて、走り続けた。
しかし、つらい走りが続いた。
呼吸がきつい。腿の筋肉が張っていた。
「10キロまで行ったら、今回は棄権しよう。」
そう決めて、進んだ。
いつもなら、この辺りから前のランナーを抜きながら進んだ。
それどころか、抜かれ抜かれの走りだ。
穏やかな気持ちではなかった。
しかし、「もう少し走れそう。」
「もう少し走れる。」
くり返し私を励まし、
1キロまた1キロと進んだ。
ついに15キロを過ぎた。
そこまで、何とか2つの関門をクリアーした。
しかし、ついに前傾姿勢で、
うな垂れながらの走りになった。
もういつ歩きだしてもおかしくなかった。
丁度、一般道から公園内の遊歩道に、
コースが切り替わるところまできた。
そこに、わずか5センチほどの段差があった。
その段差の両側に、ユニホーム姿の役員がいた。
「段差があります。気をつけでください。」
声を張り上げ、連呼していた。
近づきながら、思った。
「両側の2人は、こうして1時間以上も、
ランナーに注意を促してくれている。・・・ありがたい!」
そう思ったのなら、
気をつけて、わずかその5センチをクリアーすれはいい。
それが、2人への私の応えになるはずだ。
なのに、私は、その段差につまずいてしまった。
足が上がっていなかった。
思いっきり頭から転げそうになるのを、
必死でこらえて立ち止まった。
「大丈夫ですか」
女性の役員が駆け寄ってくれた。
「すみません。注意してもらったのに、
すみません。」
2度3度と頭をさげた。
「わずか5センチなのにこの有り様。情けない。」
一気に気持ちが沈んだ。
と同時に、
「こんな役員の方々がいるからこそ・・。
そうだゴールまで頑張れ!」
もう1度、くいしばった。
その後も、何人もが私を抜いていった。
ヘロヘロになりながら、ゴールに着いた。
まさか、涙がこみ上げるとは思わなかった。
頭からタオルをかぶった。
想像さえしなかった。
70歳の私に、少し感動していた。
14回目のハーフだった。
こんな完走も、私のキャリアの1ページ。
でも、まだ私のメンタルは軟弱じゃない。
「まだまだ、やれる。」
来年、71歳のランナーへとつながる経験だと信じた。
冬の『大雄寺』(亘理伊達家の菩提寺末寺)
※次回のブロク更新予定は 12月29日
今年4月、満70歳を迎えた。
節目の1年が始まった正月、
私は例年以上に気合いが入っていた。
『70歳の記念に、
もう1度フルマラソンを完走したい。』
何を隠そう、密かにそんな思いを胸にしていた。
しかし、体調が整わないまま春を迎えることになった。
4月『伊達ハーフマラソン』も、
5月『洞爺湖マラソン』のフルも、
エントリーはしたものの、出場できずに過ぎてしまった。
70歳の私は、不安を大きくした。
密かな目標も、見事に摘まれてしまった。
それでも6月、八雲の『ミルクロードレース』の、
スタートラインに立った。
70歳初めてのハーフマラソンにチャレンジだ。
このマラソン大会への出場は、連続4回目だが、
10キロの部とハーフの部を合わせても、300人程度。
走り始めて間もなく、沿道に人の姿はなく、
私の近くにランナーもいなくなった。
1人淡々と足を進めた。
6月16日のブロク『70歳の 花冷えから青葉へ』は、
その時の私の変化を、こう記している。
『私の心が動きだした。
嬉しかったのだ。
遠くのゴールを信じ、前を向いて走り続けていた。
絶対に完走できると思い込んで走っていた。
そして、ゆっくりでも確かな足どりだった。
『体力の衰え』を認め、肩を落とした日。
もうマラソン大会を走る日が来ないのではと、凹んだ時。
「あれは昔の昔」と回顧するだけになると、湿った私。
ところが、胸にゼッケンをつけて走っている。
それが、嬉しいのだ。
1キロごとのラップは、どんどん落ちていった。
息が苦しい。足も重たい。
なのに、どこかがずっと弾んでいた。』
マラソン大会への参加、
その喜びを今まで以上に感じた。
「走ることができる」。
それだけで、明るい気持ちになれた。
そして、そのまま北海道の短い夏がきた。
思いがけず腰痛に見舞われた時があり、
また年令を痛感させられた。
でも、決して無理せず、
走れる時に朝のジョギングに気持ちのいい汗を流した。
9月末、北都にて、
『第10回旭川ハーフマラソン』があった。
この大会も、4年連続の参加になる。
例年より、1週間遅い開催だった。
北都の秋は早い。
公園の樹木も、街路樹も、
いつも以上に赤や黄に色づいていた。
その日、私は今までとは全く違う心境で、
競技場にいた。
いつもなら、「無事完走できるか。」
「自己ベストは出せるだろうか。」
「水分補給はどうしたらいい・・?」など、
不安や自信のなさなどから、緊張感に包まれた。
しかし、明らかにリラックスしていた。
八雲の嬉しさが、しっかりと根付いていた。
スタートの合図を、ワクワクしながら待った。
目標はたった1つ、
大会が決めた2時間40分以内にゴールすること、
それだけだった。
私は、背筋を伸ばし胸を張って、走り始めた。
この大会は、3キロから6キロ付近までを、
自衛隊の駐屯地内を走る。
そこでは、沿道の両側に等間隔で並んだ自衛隊員が、
声援を送ってくれる。
まだ『北海道胆振東部地震』の救援活動が、
続いている最中だった。
それでも、私たちランナーに時間をさいてくれた。
駐屯地から一般道へ出る時だ。
「ありがとうございました。」
思いがけず大声で叫んでいた。
すると、他のランナーも、
私と同じように、次々と叫んだ。
出入り口門の一番近くにいた他とは違う制服の隊員が、
姿勢を正し、最敬礼を返してくれた。
その後も、マイペース。
走ることの楽しさを感じながら、
市街地と河川敷のコースを進んだ。
途切れ途切れだが、沿道から声援を送る方がいた。
時々届く私への「頑張って」の声に、
必ず大きくうなずき、走り続けた。
21キロの長丁場だ。
苦しい走りになることもあった。
そんな時は、少しペースダウンして、足を進めた。
「70歳のランナーはそれでいい。」
自分に言い聞かせた。
声援には、相変わらず大きくうなずき、
胸を張った。
しばらくすると、いつもの走りが戻ってきた。
そして、ついに明るい表情のまま、競技場に戻った。
最後の150メートルは、全力疾走でゴールした。
記録は、私のワースト1の更新だった。
それより、楽しく完走できた。
それで、満足だった。
八雲の走りが、そのまま続いていた。
この大会の特徴は、年代別のエントリーだ。
男子70歳代以上の部は、35人が完走した。
その中で、24番目のゴールだった。
十分、満足した。
② 清秋の首都
11月25日は、『第38回江東シーサイドマラソン大会』だった。
気温12度、無風、快晴とは言えないが、好天に恵まれた。
なんと言っても、北海道に比べ、日差しが明るい。
そのまぶしさに、色づいた銀杏が綺麗だった。
この大会も、4年連続の参加になる。
10キロの部とハーフの部の合計4720名がエントリーした。
会場の夢の島競技場は、多くの人で賑わっていた。
受付も、トイレも、荷物預かり場もすぐに人の列ができた。
それだけで、久しぶりに都会の活気を感じ、嬉しかった。
私と同じハーフ壮年(50歳以上)男子の部は、
755名が参加した。
実は、これまでに参加したハーフマラソンで、
この大会が一番関門が厳しいのだ。
5キロごとに、関門が設けられている。
その5キロを、1キロ平均7分以内で走らなければ、
その後の走行が止められる。
中でも最大の難関は、
スタートして最初の5キロの関門である。
そこを、スタートから35分以内に通過しなくてはならない。
ところが、私のようなランナーは、
他のランナーの邪魔にならないよう最後尾からのスタートとなる。
私らは、スタートの合図から、約1分半後に、
スタートラインをまたぐのだ。
それでも合図から35分後に、5キロの関門が閉鎖になる。
つまり、実質33分半しかないのだ。
これは、今の私の走力ではやっとのタイムなのだ。
どの大会もマイペースでゴールまで楽しく走りたい。
それが、70歳ランナーの想いだ。
しかし、この大会では、その想いは5キロ通過後になった。
競技場を出た私は、
道いっぱいに広がる沢山のランナー達に混じって、
明治通りと永代橋通りを走り、
5キロの関門へ向かった。
関門には、何人もの役員が待ち構えていた。
時計を手にした役員が叫んだ。
「関門、閉鎖まで後2分!」。
つまり、私は5キロを31分半で走ったのだ。
その速さが、私からスタミナを奪ったのだろうか。
いや、そこを無事通過でき、安堵したからなのか。
その後の私は、苦しい走りに終始した。
「きっと今にいつもの走りになる」。
そう信じて、走り続けた。
しかし、つらい走りが続いた。
呼吸がきつい。腿の筋肉が張っていた。
「10キロまで行ったら、今回は棄権しよう。」
そう決めて、進んだ。
いつもなら、この辺りから前のランナーを抜きながら進んだ。
それどころか、抜かれ抜かれの走りだ。
穏やかな気持ちではなかった。
しかし、「もう少し走れそう。」
「もう少し走れる。」
くり返し私を励まし、
1キロまた1キロと進んだ。
ついに15キロを過ぎた。
そこまで、何とか2つの関門をクリアーした。
しかし、ついに前傾姿勢で、
うな垂れながらの走りになった。
もういつ歩きだしてもおかしくなかった。
丁度、一般道から公園内の遊歩道に、
コースが切り替わるところまできた。
そこに、わずか5センチほどの段差があった。
その段差の両側に、ユニホーム姿の役員がいた。
「段差があります。気をつけでください。」
声を張り上げ、連呼していた。
近づきながら、思った。
「両側の2人は、こうして1時間以上も、
ランナーに注意を促してくれている。・・・ありがたい!」
そう思ったのなら、
気をつけて、わずかその5センチをクリアーすれはいい。
それが、2人への私の応えになるはずだ。
なのに、私は、その段差につまずいてしまった。
足が上がっていなかった。
思いっきり頭から転げそうになるのを、
必死でこらえて立ち止まった。
「大丈夫ですか」
女性の役員が駆け寄ってくれた。
「すみません。注意してもらったのに、
すみません。」
2度3度と頭をさげた。
「わずか5センチなのにこの有り様。情けない。」
一気に気持ちが沈んだ。
と同時に、
「こんな役員の方々がいるからこそ・・。
そうだゴールまで頑張れ!」
もう1度、くいしばった。
その後も、何人もが私を抜いていった。
ヘロヘロになりながら、ゴールに着いた。
まさか、涙がこみ上げるとは思わなかった。
頭からタオルをかぶった。
想像さえしなかった。
70歳の私に、少し感動していた。
14回目のハーフだった。
こんな完走も、私のキャリアの1ページ。
でも、まだ私のメンタルは軟弱じゃない。
「まだまだ、やれる。」
来年、71歳のランナーへとつながる経験だと信じた。
冬の『大雄寺』(亘理伊達家の菩提寺末寺)
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