現在、『楽書きの会』には、12名の同人がいる。
昨年1年関で、地元紙「室蘭民報』の土曜文化欄「大手門」に、
32の随筆が掲載された。
最初に、その中から、強く心惹かれた2作品を紹介する。
* * * * *
頭が下がる
南部 忠夫
日々介助に明け暮れている。
介助に必要なものは多々あるだろうが、
我が家の様に自宅介護している者にとっては、
何よりも介護する側の「体力」が必要とされる。
体力勝負の面があるからだ。
体力維持のため、
年齢を顧みず「早朝ウオーキング」に取り組んでいる。
家事に時間を取られ、出発が遅れる事がある。
幾つかの歩行コースの内、図書館前を通る順路がある。
図書館横の青柳通りに横断歩道がある。
通学路になっている。
出発が遅れると学校の登校時間と重なることがしばしばある。
そこでは自治会の有志の方々が、
文字通り雨が降ろうが槍が降ろうが、
登下校する子ども達のために、
交通安全の見守りと挨拶の声かけを続けてくれている。
大風であろうと大雨であろうと、
大雪・猛吹雪であろうと学校へ通う子がいる限り、
交通安全の緑の旗を打ち振って事故防止に努めておられるのだ。
メンバーは皆さん古希を超えておられるそうだが、
子ども達と挨拶を交わす笑顔は生き生きしている。
自治会の単独事業で、
自治会員の「志」によって交通安全運動を続けている。
立派としか言いようのない篤志活動だ。
その地区では四カ所で登下校の見守りに気を配っているそうだ。
真似できない崇高な行為だ。
出会う度に「ご苦労様」「有り難う御座います」とお礼を申し上げるが、
「いや何も、暇してますから」のお返事。
この度量の広さとユーモアのセンス。
凄い人たちだなーと改めて感じ入った。
頭が下がる。
美しい大人の行為だ。
<令和2年8月15日(土) 掲載>
モ ズ の 夏
加賀谷 仁左衛門
今年もモズが来ている。
小鳥の中ではすこしだけ大型、
利休鼠の羽織と墨色の風切り。
淡い樺色の胸を張って、
あたりを窺う精悍な目は細長いサングラス。
短く鋭い声はたまにしか聴けない。
ホバリングから急な降下、
夏草の刈り跡から何かを啄んで一直線に飛び去る。
毎年同じ個体なのかわからないけど、
あの風貌、小さいがりゅうと張った胸元は、
彼が持っている矜持そのもの。
カラスが幅寄せしてもスズメが騒いでもわれ関ぜず、
いつも一人いや一羽。
孤独な鳥だと思っていたら近くから飛び立ってもう一羽が並んで止まった。
つがいなのか、この鳥の違う一面を垣間見た。
剣豪武蔵に寄り添うお通の風情か。
食性は小型猛禽そのものでなんでも食べる。
モズの早贄で名を馳せ、食べ残しなのか、
なわばりの証なのか、獲物を枯れ枝に突き刺しておく。
煮干しのようなトカゲ、
釈迦の苦行像のように肋骨が浮いて干乾びたカエル、
樹のまたに挟み込まれたヘビの子供。
究極はシジュウカラの頭だけが尖った樹の枝にどうだとばかり刺してあった。
戦利品のような、自らの血のたぎる証しなのか。
肉食の血が騒ぐ生贄の儀式だ。
クルクルと尾羽を回し、どこ吹く風ながら虎視眈々と獲物を狙い、
あたりを睥睨する小悪魔。
いつもは家の前の電線、近くのサクランボ、
クリの大木だが今日はブドウの葉陰だ。
夏、低く飛び、秋は見晴らしの利く枝先で寒風にキキッと鋭い高啼く。
身の丈に合わせたニッチに住みつき、
堂々と主役を張って、豊かな生き物の世界の多様性の役割を担っている。
<令和2年8月29日(土) 掲載>
* * * * *
さて、今年の私だが、すでに1月と4月の2度、
「大手門」欄に、載せてもらった。
実は、その度、東京圏で暮らす2人の息子に、
それをLINEで送っている。
身内ならではの、飾らないコメントが楽しみになっている。
2つを転記し、反省の意を込めて、そのコメント(◎印)も添える。
* * * * *
耐性と自己表現
小学2年のA君が、万引きをしました。
担任の先生はA君へ個別指導を行いました。
約30分間にわたって、いかに万引きがいけないことか、
泥棒が悪いことか、切々と説き諭しました。
そして、A君もよく理解し、「もうやらない」と言ったのです。
そこで、先生は最後に念押しをしました。
「それじゃ、A君!いいですか。
A君がお店に行きました。
大好きなカードがありました。どうしますか?」。
A君はすかさず答えます。
「お金を出して買う」。
「そう、そうだね。
だけど、お金がありませんでした。そうしたらどうする?」。
A君はしばらく考えてから言います。
「ぬすむ!」。
30分にわたる指導が全く効果ありません。
そこで先生はもう一度同じ質問をします。
再び答えは「ぬすむ!」。
先生は3度目も同じ質問をします。
「だけど、お金がありません。どうするの?」。
じっと考えて、A君はようやく言います。
「がまんする!」。
「そうだよ。がまんするんだよ。」
先生はそう言って、指導を終えました。
A君はどこにでもいそうな子ですが、このやりとりを聞いて、
私は『耐性と自己表現』について思い至りました。
自己表現とは、例えば小さな子が砂場で遊んでいて、
シャベルを横から取られそうになった時、
「いやだ。」と言えることです。
それに対し、耐性は同じ砂場で遊んでいてシャベルを貸してと言われて、
まだ自分は使いたいのに渡してあげることです。
A君は、3度も先生から質問され、
「ぬすむ」と「がまんする」の狭間で揺れ、
やっと「がまんする」と言う耐性にたどり着きます。
ある調査では、日本の子どもはA君とは違い
自己表現の度合いが低く、耐性が発達しており、
欧米などの子供は両方がよく発達しているそうです。
どの子もどの人も、耐性と自己表現をシーソーに乗せると、
均等ではありません。
でも、極端に一方に偏らないよう子育てすることは、
コロナ禍だからこそ大事なのでは・・。
<令和3年1月31日(土) 掲載>
◎ 今回は随筆というより説明文だな。
何とか字数内にまとめた感じが・・・。【長男】
ああ 思い込み
10年以上も前になる。
4月に勤務先が変わった。
都内K駅からバスで10分、徒歩なら25分の所だった。
私は、健康のためと称して、往復を徒歩にした。
駅から数分も歩くと、川を改修した親水公園があった。
朝夕の徒歩通勤には、とても快適な道だった。
思い込みは、駅から公園までの賑やかな駅前通りでのことだ。
通りには、大きなホテルやコンサートホールがあり、
反対側にはコンビニや美容室が軒を並べていた。
その一角に、定食中心の24時間営業のレストランがあった。
私は毎朝、その前を定時に通った。
同じ時間に、必ずその店に入る女性がいた。
いつも地味な服装で、同じ手提げ鞄を持っていた。
私とは反対方向から来て、店のドアを押した。
いつ頃からかしっかりと顔も覚えた。
物静かで、まじめな感じがした。
毎朝同じ時刻に、店に入っていく様子を見て、
「ここで朝食を済ませてから、出勤するのだ。」
と理解した。
女性が1人で朝食をとるのには打ってつけ、
明るい店構えだった。
そんな朝食習慣も、大都会での1人暮らし女性には、
珍しくないのだろうと納得した。
それにしても毎朝同じ店で、いったい何を食べているのだろう。
私には関わりないが、通勤の道々、そんなことを思ったりした。
半年が過ぎた頃だった。
丁度お昼時だ。
出張からの帰り、そのレストランの前を通った。
何気なく、大きなウインドー越しに店内を見た。
すると、そこに毎朝出会うあの女性の姿があった。
思わず歩みが遅くなった。
女性は窓際のテーブルに近づき、手に持っていた食器を置いた。
突然足取りが止まりそう・・。
もう一度ゆっくり店内を見た。
「なに!彼女はお客じゃない! ここのウエイトレスか!」。
だから、毎朝この店に入った。
「朝食のためではなく、出勤だった!」。
勝手に独身女性の朝食習慣と・・。
「何という思い込みだ!」。
私は、人混みにまぎれ一人顔を赤くし、
緩めた歩調を元に戻すのに必死になった。
<令和3年4月24日(土) 掲載>
◎ らしくない作品ですね~。なんというか、やけに論理的な話で。
序盤で、従業員なんだろう、と普通に思ってしまったし・・・。
もっと、こう、いつもの情緒を湛えた作品の方がいい。【二男】
可 憐 『オオバナノエンレイソウ』
※次回のブログ更新予定は5月15日(土)です
昨年1年関で、地元紙「室蘭民報』の土曜文化欄「大手門」に、
32の随筆が掲載された。
最初に、その中から、強く心惹かれた2作品を紹介する。
* * * * *
頭が下がる
南部 忠夫
日々介助に明け暮れている。
介助に必要なものは多々あるだろうが、
我が家の様に自宅介護している者にとっては、
何よりも介護する側の「体力」が必要とされる。
体力勝負の面があるからだ。
体力維持のため、
年齢を顧みず「早朝ウオーキング」に取り組んでいる。
家事に時間を取られ、出発が遅れる事がある。
幾つかの歩行コースの内、図書館前を通る順路がある。
図書館横の青柳通りに横断歩道がある。
通学路になっている。
出発が遅れると学校の登校時間と重なることがしばしばある。
そこでは自治会の有志の方々が、
文字通り雨が降ろうが槍が降ろうが、
登下校する子ども達のために、
交通安全の見守りと挨拶の声かけを続けてくれている。
大風であろうと大雨であろうと、
大雪・猛吹雪であろうと学校へ通う子がいる限り、
交通安全の緑の旗を打ち振って事故防止に努めておられるのだ。
メンバーは皆さん古希を超えておられるそうだが、
子ども達と挨拶を交わす笑顔は生き生きしている。
自治会の単独事業で、
自治会員の「志」によって交通安全運動を続けている。
立派としか言いようのない篤志活動だ。
その地区では四カ所で登下校の見守りに気を配っているそうだ。
真似できない崇高な行為だ。
出会う度に「ご苦労様」「有り難う御座います」とお礼を申し上げるが、
「いや何も、暇してますから」のお返事。
この度量の広さとユーモアのセンス。
凄い人たちだなーと改めて感じ入った。
頭が下がる。
美しい大人の行為だ。
<令和2年8月15日(土) 掲載>
モ ズ の 夏
加賀谷 仁左衛門
今年もモズが来ている。
小鳥の中ではすこしだけ大型、
利休鼠の羽織と墨色の風切り。
淡い樺色の胸を張って、
あたりを窺う精悍な目は細長いサングラス。
短く鋭い声はたまにしか聴けない。
ホバリングから急な降下、
夏草の刈り跡から何かを啄んで一直線に飛び去る。
毎年同じ個体なのかわからないけど、
あの風貌、小さいがりゅうと張った胸元は、
彼が持っている矜持そのもの。
カラスが幅寄せしてもスズメが騒いでもわれ関ぜず、
いつも一人いや一羽。
孤独な鳥だと思っていたら近くから飛び立ってもう一羽が並んで止まった。
つがいなのか、この鳥の違う一面を垣間見た。
剣豪武蔵に寄り添うお通の風情か。
食性は小型猛禽そのものでなんでも食べる。
モズの早贄で名を馳せ、食べ残しなのか、
なわばりの証なのか、獲物を枯れ枝に突き刺しておく。
煮干しのようなトカゲ、
釈迦の苦行像のように肋骨が浮いて干乾びたカエル、
樹のまたに挟み込まれたヘビの子供。
究極はシジュウカラの頭だけが尖った樹の枝にどうだとばかり刺してあった。
戦利品のような、自らの血のたぎる証しなのか。
肉食の血が騒ぐ生贄の儀式だ。
クルクルと尾羽を回し、どこ吹く風ながら虎視眈々と獲物を狙い、
あたりを睥睨する小悪魔。
いつもは家の前の電線、近くのサクランボ、
クリの大木だが今日はブドウの葉陰だ。
夏、低く飛び、秋は見晴らしの利く枝先で寒風にキキッと鋭い高啼く。
身の丈に合わせたニッチに住みつき、
堂々と主役を張って、豊かな生き物の世界の多様性の役割を担っている。
<令和2年8月29日(土) 掲載>
* * * * *
さて、今年の私だが、すでに1月と4月の2度、
「大手門」欄に、載せてもらった。
実は、その度、東京圏で暮らす2人の息子に、
それをLINEで送っている。
身内ならではの、飾らないコメントが楽しみになっている。
2つを転記し、反省の意を込めて、そのコメント(◎印)も添える。
* * * * *
耐性と自己表現
小学2年のA君が、万引きをしました。
担任の先生はA君へ個別指導を行いました。
約30分間にわたって、いかに万引きがいけないことか、
泥棒が悪いことか、切々と説き諭しました。
そして、A君もよく理解し、「もうやらない」と言ったのです。
そこで、先生は最後に念押しをしました。
「それじゃ、A君!いいですか。
A君がお店に行きました。
大好きなカードがありました。どうしますか?」。
A君はすかさず答えます。
「お金を出して買う」。
「そう、そうだね。
だけど、お金がありませんでした。そうしたらどうする?」。
A君はしばらく考えてから言います。
「ぬすむ!」。
30分にわたる指導が全く効果ありません。
そこで先生はもう一度同じ質問をします。
再び答えは「ぬすむ!」。
先生は3度目も同じ質問をします。
「だけど、お金がありません。どうするの?」。
じっと考えて、A君はようやく言います。
「がまんする!」。
「そうだよ。がまんするんだよ。」
先生はそう言って、指導を終えました。
A君はどこにでもいそうな子ですが、このやりとりを聞いて、
私は『耐性と自己表現』について思い至りました。
自己表現とは、例えば小さな子が砂場で遊んでいて、
シャベルを横から取られそうになった時、
「いやだ。」と言えることです。
それに対し、耐性は同じ砂場で遊んでいてシャベルを貸してと言われて、
まだ自分は使いたいのに渡してあげることです。
A君は、3度も先生から質問され、
「ぬすむ」と「がまんする」の狭間で揺れ、
やっと「がまんする」と言う耐性にたどり着きます。
ある調査では、日本の子どもはA君とは違い
自己表現の度合いが低く、耐性が発達しており、
欧米などの子供は両方がよく発達しているそうです。
どの子もどの人も、耐性と自己表現をシーソーに乗せると、
均等ではありません。
でも、極端に一方に偏らないよう子育てすることは、
コロナ禍だからこそ大事なのでは・・。
<令和3年1月31日(土) 掲載>
◎ 今回は随筆というより説明文だな。
何とか字数内にまとめた感じが・・・。【長男】
ああ 思い込み
10年以上も前になる。
4月に勤務先が変わった。
都内K駅からバスで10分、徒歩なら25分の所だった。
私は、健康のためと称して、往復を徒歩にした。
駅から数分も歩くと、川を改修した親水公園があった。
朝夕の徒歩通勤には、とても快適な道だった。
思い込みは、駅から公園までの賑やかな駅前通りでのことだ。
通りには、大きなホテルやコンサートホールがあり、
反対側にはコンビニや美容室が軒を並べていた。
その一角に、定食中心の24時間営業のレストランがあった。
私は毎朝、その前を定時に通った。
同じ時間に、必ずその店に入る女性がいた。
いつも地味な服装で、同じ手提げ鞄を持っていた。
私とは反対方向から来て、店のドアを押した。
いつ頃からかしっかりと顔も覚えた。
物静かで、まじめな感じがした。
毎朝同じ時刻に、店に入っていく様子を見て、
「ここで朝食を済ませてから、出勤するのだ。」
と理解した。
女性が1人で朝食をとるのには打ってつけ、
明るい店構えだった。
そんな朝食習慣も、大都会での1人暮らし女性には、
珍しくないのだろうと納得した。
それにしても毎朝同じ店で、いったい何を食べているのだろう。
私には関わりないが、通勤の道々、そんなことを思ったりした。
半年が過ぎた頃だった。
丁度お昼時だ。
出張からの帰り、そのレストランの前を通った。
何気なく、大きなウインドー越しに店内を見た。
すると、そこに毎朝出会うあの女性の姿があった。
思わず歩みが遅くなった。
女性は窓際のテーブルに近づき、手に持っていた食器を置いた。
突然足取りが止まりそう・・。
もう一度ゆっくり店内を見た。
「なに!彼女はお客じゃない! ここのウエイトレスか!」。
だから、毎朝この店に入った。
「朝食のためではなく、出勤だった!」。
勝手に独身女性の朝食習慣と・・。
「何という思い込みだ!」。
私は、人混みにまぎれ一人顔を赤くし、
緩めた歩調を元に戻すのに必死になった。
<令和3年4月24日(土) 掲載>
◎ らしくない作品ですね~。なんというか、やけに論理的な話で。
序盤で、従業員なんだろう、と普通に思ってしまったし・・・。
もっと、こう、いつもの情緒を湛えた作品の方がいい。【二男】
可 憐 『オオバナノエンレイソウ』
※次回のブログ更新予定は5月15日(土)です
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます