ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

軽はずみな ひと言が

2016-01-22 22:01:26 | 素晴らしい人
 再び、小さい頃の回想録から書き始める。
 確か、5年生の時だ。学芸会があった。

 今は、全員が学芸会に参加し、舞台に立つが、
当時は、選抜された者のみが演じた。
 同学年4学級の中から、各10数名が選ばれ、
何故か私もその一人になった。
 演目は、『アリババと40人の盗賊』だった。

 主にその劇を指導したのは、他の学級の担任で、
笑顔が印象的なAと言う男の先生だった。

 放課後、初めての練習で、配役が発表になった。
私は、盗賊の一人だった。
渡された台本を見ると、セリフが3つあった。
 同じ盗賊でも、「ヒラケー、ゴマー。」と、
唱える役があるが、残念ながらそれではなかった。

 何回かセリフ合わせがあってから、舞台練習が始まった。
 私の役は、盗賊のお頭と二人だけで舞台に登場し、
悪いたくらみを確かめ合うものだった。

 具体的なセリフは、思い出せない。
しかし、その言い回しは、それ程悪人くさい言い方ではなかった。
 だから、練習を重ねるごとに、子どもなりに違和感を強くした。
そして、何回かの練習を通して、
とうとう、もっと悪役らしい言い方を見つけた。
 しかし、みんながみんな、台本通りのセリフを言っていた。
セリフを変えている者は、一人としていなかった。

 言い訳がましくなるが、
当時の私は、物静かで口数の少ない子だった。
 だから、いつも私の行動は、多くの友だちにしたがった。
周囲の雰囲気、今で言う空気感に常に敏感で、
『でる釘』として、打たれることをすごく嫌った。

 その私が、このセリフにだけはこだわった。
 迷いに迷った。何度も足踏みをしたあげく、
思い切って、劇指導のA先生に提案してみることにした。
 それまで、A先生と言葉を交わしたことも、
名前を呼ばれたこともなかった。
 私にとって、大きな大きな行動だった。

 舞台練習が終わり、体育館を出ようとするA先生を呼び止めた。
 “自分のここのセリフを、
こんな言い方にしたんですけど、いいですか”
と、訊いた。
 A先生は、突然の申し出に、若干戸惑ったようだったが、
軽く「ああ、いいよ。」と、言ってくださった。 

 私は、「ありがとうございます。」と頭を下げた。
それまでに経験のない、満たされたものが、体を熱くした。
 言ってよかったと思いながら、A先生から離れた。

 その時、A先生に同じ学年のBという女の先生が近寄った。
 「どうしたんですか。」と、A先生に尋ねた。
「セリフの言い方を変えたいんだって。」とA先生が応じた。
 それを聞いて、B先生は小声で、
「そんな生意気なことを」と。

 その声は、はっきりと私に届いた。

 急に、冷たいものが全身を走った。
 どうやって体育館を後にしたのか、どうやって家に帰ったのか、
覚えがなかった
 ただ、「そんな生意気なこと」という言葉が、
私の体中、そして私の周りを駆け巡っていた。

 「生意気なこと」を、私はしたのだ。
いいことをした。勇気を出した。「いいよ。」と言ってもらえた。
そう思った行動が、「生意気」だった。
 
 『本物の絶望』の欠けらにもならないことだろうが、
私の心を逆なでするひと言だった。
 しばらく私はこの言葉に縛られ、自由を失いながら過ごした。

 B先生に、うらみ節を言うつもりは全くない。
教師の何気ない、軽はずみなひと言なのだから。

 さて、つい先日のことになる。
『植松さん国内外から共感』と題する
新聞の見出しが目に止まった。

 記事の冒頭を引用する。
『分野を問わず、豊かな発想力で活躍する人に
舞台で自身の発想や思いを語ってもらい、
ネット動画で世界に発信する「TED(テッド)」。
その札幌版に出演し、
国内外で強い共感を巻き起こしている人がいる。
町工場でロケット開発を実現した
植松電機(赤平市)専務の植松努さん(49)だ。』

 今は雪深い、旧炭鉱町である北海道赤平市の国道38号線沿い、
そこに鉛筆型の鉄骨塔をもつ工場がある。植松さんの工場である。
 家内の実家が、その隣町なので、年に何回かはその横を通る。

 新聞から得たことだが、
高さ57メートルのこの塔は、「微小重力実験」用の施設で、
世界でもドイツとここにしかないものらしい。
 ドイツでは、1回の使用料が100万円以上するが、
ここは3万円とのことだ。

 会社は社員18人で、本業はリサイクルで使う
特殊なマグネットの開発だそうだ。
 その稼ぎで、『みんなにもできる!宇宙開発』を掲げ、
宇宙事業を続けている。

 植松さんは、火薬を使わない安全なポリエチレンで飛ばす
「カムイロケット」の開発で、一躍有名になった。
 まさに、最近テレビドラマで話題を呼んだ
『下町ロケット』そのままである。

 早速、ネット動画「TED」を見た。
そこで、彼のお話を聞いた。

 彼が最初に語ったのは、
幼少期から少年時代・中学生の時までのことだった。
 3歳の時にアポロ11号の月面着陸を見た。
以来、宇宙への夢を膨らませていった。

 だがら、中学生の時に、
「飛行機やロケットの仕事をしたい。」と言った。
すると、先生から
「よほど頭が良くないと無理だ。
おまえなんかにできるはずがない。」
と、言われた。

 彼は言います。
「今できないことを追いかけることが、
夢って言うんじゃないですか。」
 少年時代の反発と孤独感を、
彼は、いつもの作業着姿で語り続けた。

 そして、涙ぐみながら、
小学校1年生の先生がよく言った
「どうせ無理」という言葉を口にした。

「この言葉は、私たちから自信と可能性を奪ってしまう。」
「どうせ無理という言葉は、とても簡単に遣える言葉で、
やったことのない人が遣う言葉だ。」
「どうせ無理がなくなると、いじめや暴力、戦争、
児童虐待がなくなるかもしれない。」
と、彼は言い続ける。

 私は、植松さんの話に耳をすましながら、
教師の軽はずみなひと言の重罪と、
言葉の持つ無限の重みを思い知らされた。

 「できるはずがない。」、「どうせ無理。」
その言葉への、レジスタンスと反骨心が、
今も彼の中で脈々と息づいていると思った。

 また、今日までの、辛く切ない道々を思った。
教職にあった者として、すごく心が痛んだ。

 そして、「そんな生意気な。」
 教師の軽はずみなひと言。
あの時、傷ついた少年が急に蘇り、目元を熱くした。





 伊達から車で30分 オロフレ峠からの洞爺湖

 

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