闇を奪われたコスモスたち。
めげた私の記事に、励ましのコメントを頂きありがとうございました。
私ばかりか、コスモスにまで気遣いしていただきましたし、人の心の危うさを共感するお便りもうれしかったです。
逆境の中、今も立っているコスモス姫、今朝撮った写真もへたくそで弱々しく映ってしまいましたが、実際はもっとイキイキとしているのです^よ^。
それにしましても、一種の罪悪感を感じておりましたが、いただいたコメントを読ませていただいているうちに、その罪悪感もヒトのおごりだと気付かされました。
この世に無駄なものはない。
このコスモスたちも無駄に生きているのではないのですね。
彼らは懸命に、生まれた環境の中で生きている。
哀れむのではなく学ぶことが大切だと、教えていただきました。ありがとうございます。
コスモスが教えてくれる声に、真摯に耳をかたむける。
それが植えた者の責任だと痛感いたしました。
ふと、子供時代に見ていたテレビドラマ「次郎物語」の主題歌の一節が頭をよぎりました。
便利なもので、そう思ったらすぐ調べられるネット社会。
うろ覚えの歌詞が、すぐに出てきました。
一 ひとりぼっちの次郎はのぼる
ゆらゆらゆらゆらかげろうの丘
ひとりぼっちの次郎はのぼる
ぴいろろぴいろろひばりの峠
次郎 次郎 みてごらん
松の根は岩をくだいて生きて行く
二 ひとりぼっちの次郎はころぶ
ちらちらちらちらこな雪のあぜ
ひとりぼっちの次郎はころぶ
つんつんつんつん凍った堤
次郎 次郎 みてごらん
白鳥は風に向かって飛んで行く
三 ひとりぼっちの次郎はかける
ほうろろほうろろふくろうの森
ひとりぼっちの次郎はかける
からからからから落葉の林
次郎 次郎 みてごらん
北極星はじっとひとりで光ってる
この1番の歌詞の最後にある
「松の根は岩を砕いて生きていく」
という1節は、子供時代の私の心に沁み込んでいて、今も私の生きる指針になっています。
このコスモス姫たちも、そうして生きているのですね。
思いだしついでに、岩を砕く松の話し、下村湖人「次郎物語」から紹介しましょう。
岩に根を下ろして立っている松を見て、叔父が次郎たちに語るこんな1節を引用します。
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「あの松の木だ。何百年かの昔、一粒の種が風に吹かれて あの岩の小さな裂け目に落ち込んだとする。それは、その種にとって運命だったんだ。
つまり、そういう境遇に巡り合せたんだね。
そんな運命に巡り合わせたのはその種のせいじゃない。
種自身では、それをどうすることも出来なかったんだ。
どうすることも出来ないことを恨んだりしたって何の役に立つものではない。
それよりも、喜んでその運命の中に身を任せることだ。」
「身を任せるというのは、どうなってもいいと言うんじゃない。その運命の中で気持ちよく努力することなんだ。それが本当の命だ。
あの松の木の種には、そういう本当の命があった。だから、ついには運命の岩をぶち破り、 岩をつき抜けて根を地の底に張ることが出来たんだ。
芽をだしたばかりの松は、どんなに力んでみてもすぐには、岩は割れない。岩を割る力は幹の堅さではなくて、命の力なんだ。じりじりと自分を伸ばしていく命の力なんだ。だから、運命に勝ちたければ、じりじりと自分を伸ばす工夫をするに限る。
勝つとか負けるとか言うことを忘れて、ただ自分を伸ばす工夫をしてさえ行けば、それが勝つことになるんだ。
自分を伸ばすためには先ず運命に身を任せることが大切だ。岩の割れ目で芽をだしたら、割れ目を自分の住家にして、そこで楽しんで生きる工夫をするんだ。それでこそ、本当に自分を伸ばすことができるんだ。
運命を喜ぶものだけが正しく伸びる。そして、正しく伸びるものだけが運命に勝つ。 そう信じていれば間違いはないね‥‥」
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今読んでも教えられる。
成長していないと言われればそれまでだ^が^
『次郎物語』、懐かしいですね。中高生の頃に読みました。一応、文学少女でしたから(笑)。
若い私にはいささか説教臭い気がする箇所が正直、ありましたが、あれだけストレートに大事なことを書いている若い人向けの小説は、なかなか無いかもしれませんね。逆に、大人になってからの方が、素直に納得出来るかも……とも。
次郎に強い影響を与えた旧制中学校の先生(朝倉先生…でしたっけ?)に、『悪魔の脚が汚いからって、ほうっておいては汚いままだ。たとえ砂一粒でも脚から落ちれば、それだけきれいになった……そう考えて正しいことを積み重ねてゆこう』と言われたエピソードを、ふと思い出しました。徒労、という概念と同時に、結局個人としてやっていく一番正しくて唯一の行動……己れに恥じない誇り高い行動、という概念を受け取りました。
意外と無意識に影響されている、気がします。
なかなかその通りにはいきませんけど、行動規範になっているかもしれません(笑)。
今の子供たちにはほとんど理解できない時代背景で、読まれることもないのかもしれません。
本当にいい小説ですのに、もったいない気がします。
小、中、高と、繰り返し読みましたが、面白いことに、自分が成長するごとに、見る視点が変わっていくのがわかりました。
子供にも、青年にも、親にも、それぞれの立場から教えられる教訓がある本ですね。
こんにちは!
次郎物語の主題歌も♪
すばらしいですね☆
松の根は岩をくだいて生きて行く!
どうすることも出来ないことを恨むことなく
喜んでその運命に身を任せること
身を任せるというのは、
どうなってもいいと言うんじゃない。
その運命の中で気持ちよく努力することなんだ。
それが本当の命だ。
そして、じりじりと自分を伸ばしていく工夫☆
同感です!
のしてんてん先生ほとばしる熱情波が伝播してきます。
のしてんてん学校の
コスモス先生!
次郎先生!
松の根先生!
先生も次々お出まし、
学ばせていただきまして
有り難うございます♪
感謝!感^激^で^す~☆
これがナウイズムの真髄なのです。
下村湖人がすでに昭和初期にナウイズムを提唱していたと言っていいかもしれません^ね^
運命の中で気持ちよく努力する。
何て的確な言葉でしょうね。
探究心と、植物への慈しみの心。本当に優しい方だと。そして、人々の心を幸せにすることを本当に願い歩み続ける…。
頭の下がる想いです。
最近、自分の勝手で記事を書いている私にとっては反省の一念です。
そして私なりにこの記事への出会いに報いたく、かつて農学をまなんだものとして若輩な知識を。
「花をつけ、種子を結ぶ。新たな遺伝子の組み合わせを作ること”だけ”が生物の目的ではありません。実際に、危機を迎えるまで子孫を残さず、現状の繁栄を維持する生き物は多い。」
確かにこのコスモスたちは、「街灯の明かりで、花をつける可能性を失った」かもしれません。
でも、それは彼らにとって「それが有効だと感じたからの選択」です。
ずっと日が指しているなら
「ずっと昼の状態で生きて繁栄することが、今の最善の一手」
そう感じて彼らは、選択した…今まで幾度とない絶滅の危機を乗り越えた彼らの一手。
のしてんてんさんの優しさには本当に涙ぐまされるものがあります。植物の為も思う優しさ。
コスモスたちは、花をつけるチカラは失ったかもしれないけれど、「その環境で最善の選択をした。」
花を咲かせる、命の輝きともいえる営みが見れないのは悲しい事かもしれません。
ここからは妄想ですが(失礼を)
でも、今の彼らはいわば”長い夏を謳歌している”かもしれません。今こそこの光エネルギーを糧に勢力拡大の時だと。
もしかしたら、彼らは街灯の光エネルギーを糧に冬を真正面から乗り越える気かもしれません汗。
そして最近のあなた様のナウイズムを齧らせていただけるのならば
「彼らは”今の最善の選択”をした。」
あなた様の優しさも考えも素晴らしい。
その上で
「コスモスたちは、あくまで目の前の今から、生き方を自分たちで決めた。」
だから、ご自身を責めすぎないでください。こうした記事との出会いや、あなた様の反省も含めて本当に価値があると思っている方々が大勢いらっしゃるのですから。
ありがとうございます。
また、貴重なご意見を頂きました。心の幸せを求めて、皆様と共有したい気付きを頂きましたので、記事の中で紹介させていただきました。
あなたのご意見は、きっとたくさんの人の役に立つものと信じます。
ありがとうございました。