次の日会社に向うため地下道を通りかかったときだった。
何気なく国道の交差点を見渡したその視線に、市の清掃車の姿が映った。
それは一瞬で視界から消えたが、私は何が起こったのかすぐに了解した。
その直感にたがわず、通り抜けた地下道はきれいに清められて靴は跡形もなかった。
「ウオーッ」
私は人目もはばからず、こぶしを虚空に突き上げて叫んだ。
間違いなくあれは芹里奈だった。私のためにあの靴はあったのだ。 . . . 本文を読む
芹里奈・・・それを言うために私のところに来てくれたのか。
私がお前に言った何倍もの優しさで、いや恨みを持たぬ慈しみの声でこの私を救ってくれるというのか・・・
私は思わず芹里奈の靴を引き寄せ胸に抱きしめた。
ジワリと胸に湿り気が伝わってきた。
「芹里奈、お前は今幸せなのか」
私は確かにこのとき、自らの肉声を発していた。
その声が地下道に反響して、私は我に返ったのだ。
芹里奈の声はもう返ってこなかっ . . . 本文を読む
「あなたが一番幸せになるところに行きなさい」
私はその言葉に少なからぬ衝撃を受けた。かつて私はこんなに優しく芹里奈に同じ言葉を投げかけはしなかった。地下水にぬれそぼる靴を目で追っていた。質素なデザインだが、つま先の花柄をカルメンの薔薇だと芹里奈は言った。私は彼女をカルメンのように好きなところに行かせたのだろうか・・・
「あなたが一番幸せになるところに行きなさい」
再び芹里奈は続けた。
私は . . . 本文を読む
「今度彼に誘われたの、どうしたらいい?」
それは芹里奈の辛そうな声だった。
二人の人生を分けてしまった、忘れようにも忘れられない言葉が悲哀をしみこませて私の中に棲みついている。
「今度彼に誘われたの、どうしたらいい?」
再び芹里奈の声が聞こえた。
行くな!行くなら俺を殺してから行け!私はそう言いたかった。
私を野の花のように愛しているのねと芹里奈は私をなじったが、私の欲望はその花を根こそぎ引き . . . 本文を読む
私の妄想なのかも知れなかった。しかし目の前の靴が踊りだすのを見て、私は不思議にもそれを当然のように受け止めた。
その靴の上にありありと芹里奈の姿を見ることが出来た。
そして、カモメのポーズをとった芹里奈が、あの時のように私に笑いかけたのだ。
「許してくれるのか・・芹里奈・・」
私は大きく両手を広げて芹里奈に向って胸を開けた。
熱い波動が体を貫いた。
心が溶鉱炉の鉄のように溶け出し、下方に流れ始 . . . 本文を読む
「すまなかった、許してくれ芹里奈」
予想もしなかった自分自身の言葉だったが、それと同時に私はその言葉の意味をも一瞬の内に理解していた。
10年前からその思考は私の中にありながら、今この時に初めて気付いたかのようだった。
私は芹里奈を恨んでいたのだ。
芹里奈が幸せになることだけを願ってきたとも言える私のこれまでの生は、自分を犠牲にすることで彼女を苦しめようとする、芹里奈への呪詛だったのだ。
そう気 . . . 本文を読む
「芹里奈、お前なんだな」
言葉に出して叫んだのか、心の中だけの叫びなのか私には分からなかった。
私は手に持った写真を取り落として目の前の靴を凝視し、そしてそこから虚空に目を移した。
靴を履いた見えない芹里奈が私を見つめていた。
<シャ!ラーン・・・>
私の全身の恐怖が、芹里奈への思いに切り替わる音を心の中で聞いたような気がした。
「ありがとう来てくれて」
心の底のそこから搾り出すような声がうめき . . . 本文を読む
地下道の奥からぬめっとした霊気が漂ってくるように思われた。
私は迷わずその恐怖の中に入っていった。それはこれまでにない勇気だったと今も思う。
私は肝をつぶす思いでその中心に進んだ。
一足の靴が薄汚れ、滴る地下水に濡れながら私を出迎えた。
私の背後に得体の知れないものが立っている・・・ぞっとする思いに囚われたが振り返ることも出来ない。
私はあらためて芹里奈の写真とその靴を見比べた。
つま先にある花 . . . 本文を読む
私は芹里奈の写真を握ったまま国道の地下道に向って行った。
そんなバカな・・・
こんなことがどうして・・・
驚きと不安と恐れが胃の辺りでかき回され、血液が凍りついたように全身鳥肌立っている。
体がこわばり冷や汗にまみれたが、足だけは前に進んでいく。事実を確かめなければ納まらない気持ちが私を地下道に導かずにはおかなかったのだ。
深夜の国道は通過する自動車もまばらだった。地下道を歩く人などさらにいる . . . 本文を読む
紛れもなくそれは芹里奈の靴だと思った。
アルバムを見直した。その頃の芹里奈の写真はどれも同じ靴を履いていた。しかもどこか誇らしげに・・・そう考えをたどっているうちに私は思い出した。
芹里奈が珍しくショーウィンドーの前で立ち止まった。マネキンの履いている靴に魅せられたというのだ。そんな芹里奈を見て私はとっさに店に入り、交渉してその靴を手に入れた。確か展示品だけで在庫はないと言うことだったのか、嫌 . . . 本文を読む