(山道に咲いていたアザミがあまりにきれいだったので)
3月末にお世話になったポラン亭に、作品を持っていきました。
亭主の車に乗って、大阪から4時間。
面白い自由な雰囲気の中に、作品もおさまりました。
今回2回目の訪問ですが、新たな発見と感動がありました、
これがポラン亭の全景(一階が宿泊施設)ですが、尾根伝いに伸びる道路と、海と山を結ぶ遊歩道の交点に建っています。 . . . 本文を読む
(のしてんてん いのちのかたち : F10号 キャンバスに鉛筆)
今月の新作です。
絵を解説する言葉はありませんが、公開する時、一番大変なことはタイトルを付ける時です。
それが、のしてんてんという言葉をつくるきっかけとなったわけですが、そのいきさつが、知性と感性のせめぎ合いをよく現わしてくれるように思えますので、恥部をさらけ出すようで恥ずかしいのですが少し紹介してみます。
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(毎日花の数が増えてきます。今八分咲き)
先日の記事のコメントを意識しながら、私が見ているイメージの世界をもう少し書いてみます。
この記事は、これを読んで下さる方々と一緒に、心の世界を、旅するという想定で書いています。心の風景を見ているのですね。
風景を前にして、私たちはわかるわからないという判断をしながら見るでしょうか。
様々な風景があります。絶景もあれば . . . 本文を読む
(ドクダミの小宇宙)
五次元宇宙、心の旅を続けながら、毎日その風景を楽しんでいます。
そのイメージの世界を書いてみる気になりました。
布団に入ってから、その世界は広がってきました。はっきりとそれは心の中に見えるのです。
それは、たとえば地球を包む青い大気の膜のように、境界の不確かな柔らかい線がどこまでも広がっています。
気を転じると、その膜は胎児を包む羊膜に変わりました。 . . . 本文を読む
(ドクダミの群生、なぜか癒されます)
昨日、慧純師(臨済宗僧侶)が作品を出品すると聞いて、出かけてきました。
難波駅から御堂筋、道頓堀川を越えてすぐ。SMBCコンシューマーファイナンスKKが運営する無料イベントスペースで作家18人が作品展示。
こんな場所知らなかった(無料で貸してくれるのですって!)
師の作品は、水墨で古代人が描いた洞窟壁画を模写 . . . 本文を読む
(ミニバラ、背景は芝桜の葉ですから、手に乗る大きさというのがわかるでしょうか)
真実というものは、体験そのものの中にしかありません。
それ以外に思い描く真実と言うものは、100%想像の世界であって、結果それは信じるか信じないかの問題となるわけです。体験でないものはすべて真実ではない。100%空想の産物です。
一方、体験は真実のど真ん中にいるということです。
言い方を変えれ . . . 本文を読む
(十薬 ドクダミが咲きはじめました)
信じるということは、そこに知性が働いているということですね。
知性は物事を己の頭脳で理解しようとします。
当然理解を超えるものごとにであったり、先の見えない事柄に対して、プラス思考が働くとそこに信じるという行為が生まれるわけです。
逆にマイナス思考が動けば、不安や恐れが先立ち、自己否定や逃避が心を支配します。
信じるという行為は、崇高 . . . 本文を読む
(落葉する葉っぱたち・・・)
昔、職場の上司で、プロ級の蝶収集家がいました。Nさんといいます。
二人しかいない係りで、Nさんがつまり私の上司、係長というわけです。
そのNさんは、きっと私は死ぬまで忘れられないだろうと思うほどの変わり者でした。
蝶の収集はプロ級ですが、驚いたのは幼虫から育てていくのです。生きものですから、世話をしなければなりません。Nさんは蝶の幼虫(毛虫)を . . . 本文を読む
(久しぶりの連鶴。A4のアートチラシで母鶴が2羽の子鶴を連れて行く姿を折りました。)
今、水面下ではジョイント「心と心」(3)が進んでいます。
物書きと絵かきの対決という軽いノリが本気になって、火がついたように作品をつくり始めました。水面下だったのが、互いに自分の退路を断つ気構えで、ジョイント「心と心」(3)を紹介します。
ことの発端は、のしてんてん絵画奉賛会 . . . 本文を読む
(どうしたわけか、庭にラベンダーがよく育つ。一年中花があって、刈り取らないとはびこるのが過ぎたる幸いです)
朝、浜まで歩きながら考えた。
信じる事(信仰)と、体験(実践)の間にはどれほどの距離があるのだろうか、と。
人はまず、いのちを体現してこの世に生まれます。何かを信じなくてはよりどころを失うというようなことはどこにもありませんね。赤ん坊はあるがままにその命 . . . 本文を読む