文学碑には「海の捨児」の前半の部分が刻まれていた。
私はこの静かな哀切の詩が好きだった。それは早くから故郷を出た私の心情とよく合い、故郷に愛着し、その愛着は決して帰らないこと知っている冷めた私を甘く悲しく包んでしまう。伊藤整もまたそのような思いでこの海鳴りの聞こえる丘を遠い空の向こうから見つめ続けていたに違いない。そして今、こうして私が踏みしめている雪の一握でさえ、伊藤整にあってはひそかに恋 . . . 本文を読む
伊藤整の文学碑は4~5メートルはあろうかと思われる褐色の自然石を立てたものだった。その前面には方形の大理石が埋め込まれ、そこには伊藤整の詩の一節が刻まれていた。
その詩は伊藤整の詩集「冬夜」の中におさめられている「海の捨児」と題する次のような詩であった。
私は波の音を守唄にして眠る
騒がしく絶え間なく
繰り返して語る灰色の年老いた浪
私は涙も涸れた壮絶なその物語を
次々と聞かされ . . . 本文を読む
国道を海側に寄れるだけよってわずかに覗いている石の頭をよく見ようと背伸びして目をこらした。そうするまでもなく私はそれが伊藤整の文学碑であることを確信していた。
しかしここからは上りようがなかった。石碑の覗いている丘は道路から3メートルは超えるだろう垂直に削り取られた雪の壁の上にあった。車の排気ガスが付着して黒く染まり固まった雪で、到底そこをよじ登る気持ちを起こさせるものではなかった。
かと . . . 本文を読む
男が前を通り過ぎようとしたとき、私は軽い会釈をして伊藤整の生家のことを聞いてみた。
「家はもうないがね、その文学碑ならこの上だ。」
彼は今しがた私が歩いて来た道を指して言った。私が、そこから来たのだが判らなかったと言うと男はさらに詳しく説明してくれた。彼が指さすところに、ちょうどタクシーが止まった道路があり、そこに電柱が立っていた。その電柱から左へ、つまり小樽の方向に戻って4本目の電 . . . 本文を読む
「葡萄園にて」の哀切な世界はこの海に向かう斜面から生まれたのだろう。そう思ってみれば眼下に広がる海は静かで、しかし明るかった。その明るさは青年の心を突き動かしていくエネルギーであったのかも知れない。
考えが落ち着くと、私はようやく動き出した。民家の背戸を回って、その吹きだまりの雪に悩まされながら、やがて国道に出た。ブーツの中は湿って冷たかった。
「やはりなかったな。」そう思って、私はあの運 . . . 本文を読む
道から50センチは積み上がった雪の上に立つと、そこには古い足跡がその斜面をぶどう棚に沿いながら下っているのが見えた。雪はまだ深く私の足を奪い、ブーツの中にも構わず冷たいものが入り込んだ。
私は斜面をまっすぐに下って国道に出ようと思っていた。人家に出れば何かが聞けるかも知れない。ぶどう棚の杭を支えにして注意深く足を運んだ。雪の肌に全身を集中させなければ、吹きだまりに足を奪われて雪まみれになるの . . . 本文を読む
「見えないなぁ、ここらあたりに文学碑があるはずなんですがねぇ・・」
運転手は車から降りようともせず、ハンドルを握りながら窓の外を窺う格好をして言った。
言われるままに辺りを見回したがそれらしきものはなく、私は少し運転手に疑いを持ち始めた。
しかし車はそれ以上私を乗せて動く気配を見せず、彼はとにかくここから少し歩いた所だと主張した。
私はその話を信用しなかったが、しかしどこでもいいだろ . . . 本文を読む
しばらくタクシーは無言で走り、塩谷駅という表示板を通り越した。
おや?と思っていると、そこから国道をそれる小道に入り、ぬかるんだ山道を上って行った。道はやっと車が一台通れる程の狭い地道だった。
私は塩屋駅に行ってくれと言った筈だったが、運転手が気を利かせてその生家まで連れて行ってくれるらしかった。
タクシーは歩くようなスピードで車を転がして進み、運転手は右手に見える雪の斜面にあちらこち . . . 本文を読む
再び小樽の駅についた私は、伊藤整の生家のあった塩谷に行こうと思った。時刻表をみると二時過ぎまで列車がないことが分かった。駅の時刻は一時を回ったところであったので、私は少し逡巡してタクシーを拾うことに決めた。
小樽の駅前には国道が並行して走っており、その道路標識には駅から左の方向、つまり小樽商科大学とは反対の方向に蘭島、余市と表示されていた。塩谷はその蘭島よりも手前にあるはずだった。車は多く . . . 本文を読む
伊藤整が「若い詩人の肖像」で描いた時代にはテレビはありませんでした。
人との交流はもっぱら手紙と直接対面することで成り立っていたのです。そこから生まれた恋歌は互いに体温の伝わる温かさが伝わるようです。
下って「忍路」の時代は、まだ携帯電話のない時代でした。公衆電話が町のいたるところに置かれていて、10円玉は貴重な通信手段だったのです。恋人たちは時間のかかる手紙よりも電話に触手が伸びる時代でも . . . 本文を読む