自分とは何か
リアルタイムで
私は自分の心に見える私を伝えてきた
それはアートであり
己の風景である
自分という体があって
家や地域、国や世界があり
太陽や星が瞬く宇宙の中で
私は生かされている
それが風景となって
自分という体が
認識されるのである
宇宙の中にあって
私は肉体という個から出ることはない
肉体は空間の片隅のどこかに存在しているのである
そして肉体には心が宿っている
心は肉体から出ることはなく
たまに幽体として体を離れることはあっても
それは特殊な事と思われている
自分という風景は
広大な宇宙の中で
ささやかな命の花を咲かせている野菊のようだ
だがある時
スケールで自分を観ると
自分は宇宙の片隅にあるのじゃないことが分かった
片隅どころか
宇宙の中心にあって
自分の存在が空間の中で
無限に拡がっていくのである
スケールを素粒子に合わせて観ると
私の1秒は
何億年にも相当する素粒子宇宙が広がり
それがまがいもなくこの私と云う体なのである
スケールを大銀河に合わせると
私の何億年は
大銀河のわずか一秒だ
身体から離れて
空に意識を向けると
空はスケールを越えて
ただ一つの存在であることが分かる
空間にはどこまで行っても壁がないのである
心は肉体に宿っているのではない
空間が肉体を育み
空間そのものの中に肉体を浮かべているのだ
心とはその空間に他ならない
その空間の正体は
無限のスケールに対応するエネルギーである
無数のエネルギー波が存在する
スケールで観るのをやめたら
無数の波はたった一つの波に集約される
それがエネルギー
すなわち空間である
私は空間で生かされている
私は空体なのでる
空体が身体を包んでいる
心が身体に閉じ込められているのではなく
心が身体を育んでいるのである
時間に流されて生きているのではない
この一瞬の中に
何億年の時間が存在し
この一瞬は
何億年の時間につながっている
私は永遠の時間であり
つまりそれは永遠の空間なのである
同じ自分を眺めても
四次元思考と五次元思考では
これだけ自分というものの
存在感が違う
思考次元を超えたとき
それは新人類と言えないだろうか
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