「一緒になってくれないか」
事前にいくつかの気の利いた文句を考えていたが、向き合って口に出た言葉はそんなありきたりのものだった。
その瞬間、私の心を突き刺したものは言葉の問題ではなかった。
芹里奈の顔がその一瞬、苦悩の色に染まったのだ。
それを隠すかのように、俯いてしまった。唐ゆきさんを扱った舞台を観ての帰りだった。
「悪いこと言ったかな・・・」
私は喉をからして、干からびた声をだした。
「うう . . . 本文を読む
私と芹里奈はそれから急速に近付いた。
趣味が似ていたので、映画や芝居に誘い合ってよく出かけるようになった。
大学時代に付き合っていた彼とのことはどうなったのか気にはなったが、
芹里奈はあまりそのことを話したがらなかった。
思い出したくないこともあるのだろう。私はそれで納得した。
今、目の前にいる芹里奈の笑顔だけで充分だった。私はその幸せをノートに綴り、
彼女をいかに愛しているかという事を飽きもせ . . . 本文を読む
大学を卒業してからも、私は小さな実験劇場や商業演劇を観る事が多かった。
商業演劇といってもマイナーなものに限られていたが、たまたまその年、前売りから大評判になったチケットが手に入ったので、珍しく大掛かりな芝居を観にいったのだった。
チケットの交換窓口に並んでいると、後ろからそっと肩をたたかれたのだ。
何気なく振り返ると、ドキッとする美人が立っていた。一瞬なんだか分からなかったが、「芹里奈です」と . . . 本文を読む
妻を始めて知ったのは大学のキャンパスだった。彼女は人形劇のサークルに参加していた。私が参加しているサークルとの交流の場に彼女がいたのだ。名前が芹里奈だと知ったのはそのときの自己紹介でだった。
私は一目で心動かされたが、すでに彼女には恋人がいた。
二人は同じサークルの仲間で、いつも行動を共にしていた。そんな二人を見かけるたびに私はジェラシーを感じて目を伏せるしかなかった。
大学を卒業すると、私は今 . . . 本文を読む
「今は幸せです。私のことはどうか忘れて、あなたも幸せになってください。 芹里奈」 妻からの最後の手紙だった。 三行半にも満たない短いものであったが、それまでに話尽くした後の、妻の凝縮された心が私には見えていた。差出人の住所が書かれていない手紙だった。 まだ日本にいるのか、韓国の人となったのか、さすがにそこまで知ろうとする気持ちはなか . . . 本文を読む
家に帰ると妻が出迎え、子供が駆け寄ってくる。
私はカバンを妻に預け、子供を抱え上げて肩車をする。
そんなシーンをよく夢想した。安物のドラマの刷り込みに過ぎなかったのかも知れないが、結局実現することはなかった。
結婚と破局までの5年間、妻との間に子供に恵まれることはなかったのだ。今となってはそれは幸いだったと言うべきかも知れない。
それにしても私の中ではいまだ妻という言葉が息づいている。
あれか . . . 本文を読む
私の言った言葉に偽りはなかった。確かに私はその日、家庭のぬくもりを覚えたように思えたのだ。
その後A子は、つくりすぎたのでと言っては、しばしば弁当を私に持ってくるようになった。
断る勇気もない私はいつもあいまいな言葉を発してそれを受け取った。実際なんと言っているのか私自身わかっていない、そんなあいまいな心のままにうめきが声になった感じである。
私はA子のそんな好意を疎ましいとは思わなかった。
. . . 本文を読む
私は一度だけ、弘樹をジェットコースターに乗せて欲しいと請われて遊園地に行ったことがある。
私には子供がなかったために、その日随分新鮮な感覚を覚えたものだった。弘樹の手は柔らかく、抱くとクリームの香りがした。
私は一瞬A子を妻と錯覚し、あの破綻は夢だったのかもしれないと思ったりした。
この家庭のぬくもりをどれだけ望んだことだろう。
「この子のために一日お父さんありがとう」A子は笑いながらそう言っ . . . 本文を読む
それは無感動で無感覚な私の生活の中に現れたビックバンのような波紋だった。
その波紋は私の倦み切った愛の形をかすかに揺り動かしたのだろうか。
空虚な愛、10年もの間それは私をとらえる牢獄のようなものだったのかも知れない。
A子は鉄格子の隙間からその牢獄に捕らえられた私に手を差し伸べているのかも知れなかった。
社内運動会でのことだった。
バーべキューの火力が強くてなかなか肉を取れないでいる子を見つ . . . 本文を読む
実際私はそれ以後、国道を横切るために交差点の横断歩道を使うことがなかったのである。
そんなある日、走行車の音もまばらで人気のない夜道を私は歩いていた。
その日は朝になって自転車のパンクに気付き、あわてて駅まで走ったのだった。
いつもの場所に来ると地下道の入り口から妖気が獲物を誘うように漂って来るのを感じて逡巡したが、足だけは地下道に向って行った。
夜のしじまにぽっかりと開いた口の中に飲み込まれ . . . 本文を読む