2012年のマーブルビーチ
手袋の話をしたら、5年前どんな記事を書いていたのか気になって当時の記事を探してみました。
バックナンバーで検索できる機能を使うと、2012年5月で簡単に出てきました。すっかり忘れていましたが、初日から一月あまりにわたって草引き日記をかいている過去の私に出遭逢いました。こんな記事を書いていたのかと当時を思い出しながら読んでみました。
自分 . . . 本文を読む
人生の素人さんこと、折師さんの折り紙、へび太
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今日はこのへび太が主人公の物語です。
その昔、ちょうど一週間前のことでした。
筆触法が話題 になっておりました折に、
こんなコップが案内役をつとめたのです。
ご来場のお客様はみなさん、小さなアリになって、このコップの上を自 . . . 本文を読む
私の最も古い苦悩の記憶は母の涙だった。
炬燵があったので、まだ寒い日だったのだろう。両親の激しい喧嘩の末、母が横にいた弟を炬燵の向こうに座っていた父に投げ、私の手を引いて家を飛び出した。
「この子だけいたらええ」その時の母の言葉がこびりついている。
私は母の連れ子だったということを知ったのは随分後のことだったが、母との特別な関係を体の方から先に覚えたのだ。
母は私の手を握ったまま、川べりの . . . 本文を読む
苦悩から目をそらさずみつめ続けていると見えてくることがある。
苦悩は神=いのちを正しく生きるためのシグナルだということだ。
しかしこの理解の道筋にはまだその奥があった。
「苦悩は神=いのちに向かう道しるべ」という理解のその奥にこんな真実に行き当たった。
つまり苦悩は、まさにこの苦悩そのものが起こっている場所、その場所を私に指示しているのだということだ。
そう理解したとき、私は苦悩を生み出 . . . 本文を読む
自分を大切に思う者ほど自己嫌悪に陥ることが多いように思います。
嫌悪、自己否定の代償は大きな苦悩です。
そんな時、迷いの中で私たちは何を信じ、どこに向えばいいのでしょうか。
そんな時こそ私たちに必要なものは、手に触れられる実感と現実です。
最も確かなことは、何でしょうか。
それはただ一つ。自分は今ここにこうして生きているということです。そしてまさにこの苦悩を味わっているという現実です。そ . . . 本文を読む
不安と恐れは、とらえどころのない苦悩の一つでしょう。
大きな社会不安から、個人の小さな不安まで、あらゆるものが不安の対象になります。
不安は恐れを伴います。恐れはさらに大きな不安を生み出します。
逃れるすべはありません。
しかしこの不安苦も、私たちを正しい道に導こうとする神の計らいだと考えることが出来るのです。
答は一つ。今この瞬間を生きるということです。
不安は、未来を生きるために起 . . . 本文を読む
失意には心が張り裂けるような強い苦悩が伴いますね。
失恋、失敗、失格・・・・
身の置き所のない心の痛み、自己嫌悪。
失意の苦悩は、壁にぶち当たって進めないのに、そのまま進もうとしている。そんな姿が想像されますね。
出来ないことをやろうとする。出来ないことを未練に思う。
それは、いのちの道を踏み外した生き方なのですね。
苦悩がそれを教えてくれているのです。
しあわせの道は別にあるのだと . . . 本文を読む
見慣れた風景、いつもの生活、平凡な人生・・・・・
新鮮なものは何もない。
これも一つの苦です。気付かないぐらい緩やかな苦。退屈。
この苦を眺めていると分かってくることがあります。
それは、退屈の中に「私」を忘れてしまっているということです。
私たちは、風景に出合うと見ているようで見ていないことがよくありますね。
それは習慣が働いて本当の私を眠らせているのです。
退屈の苦悩は、分の生き . . . 本文を読む
悟りを得るというと、何か高尚な、私たち凡人には手の届かない偉人の境地のように思えます。
しかしそれは誤りです。
私たちは誰でも例外なく、永遠から続いてきた命を生きています。
この命の流れの中で、偉人も凡人もありません。
私たちはいつも、悟りと背中合わせに生きているのです。
そのことを私たちに教え導いてくれているのが、苦悩に他ならないのです。
単純に考えてみて下さい。
私たちから苦悩が . . . 本文を読む
私たちの本質はなんでしょうか。
それは命(いのち)ですね。私たちのもっとも根源をたどれば、この生命にほかなりません。
苦はそこからやってきます。
何のためでしょうか。
いのちを守るために他なららないでしょう。
苦は私に受け継がれたこのいのちを守るためにあるのです。
そう考えると、苦痛はすぐに理解できます。
いのちの器である身体の健全を守るためですね。
痛みは、身体の危険を知らせるシ . . . 本文を読む