面白いものだなあと、ふと笑えてしまうことがありました
前回の思考の立体化について考えた図のことです
一週間も経つと意味のない図表に変わってしまいました
作成したときの、心が膨らみすぎて破裂しそうな喜びはもうありません
ではあれは嘘だったのか?
そうではないと思います。
これが人間の心の姿なんだと思えるようになった
すると繰り返しやって来る苦悩の姿に
つい笑いも出てくると
いうものです
愛
苦悩そのものが虚なのです
真実という混沌の中に虚像の世界を作り上げるのが人間の心
悲劇も喜劇も絶望も救いもそれは虚構にほかなりません
しかし大事なことは、そこにある真実のことです
前回の記事の顛末を考えると至福と巡り合ったのは確かです。そして露と消えたのも、
つまり何が真実なのかというと、
至福というのは、一瞬でも思考が実在に触れた瞬間に起こるものなのではないかということです
逆の見方をすれば、実在そのものに入ったら
至福が永遠に続くと考えるのは愚の骨頂でしょう
実在そのものに入ってしまったら人間はすでにそこにはいないのですから至福なんて意味そのものがありませんよね
それは実在と人間存在を混同した愚という訳です
人間でいる限り、悟りに至る。そしてその一瞬至福を体験する。そして消える。これは事実でしょう
詰まるところその悟りに永遠の悟りなどというのはありえないのではないでしょうか、人間でいる限りですが
つまり私達は様々な悟りを体験して実在に触れ、至福を味わう
これが人間なのではないかと思うようになったのです
愛の至福
空想の至福
創造・芸術の至福
友情・仲間の至福
感覚・運動の至福
心が実在に触れる機会は思った以上に多いいのかもしれません
人間として実在を味わい尽くす
これこそが最高の人生ではないでしょうか
人間賛歌を歌わずして何が生き甲斐となるのでしょうか
人間の側に立たずして生まれた意味を知ることもないのです
<至福とは、瞬間的に思考が実在に触れた時に起こるもの
いや、それ以前にそれを感じているのではないでしょうか?
それを思考で捉えようとした時に、正に至福感は消えてしまうのだと思います。
思考の奥の意識領域には実在と離れない、常態というものはあると思います。
しかし、言われるように、その常態のままでは、不幸というものも至福というものもなく、それを求めることも無くなるでしょう。
しかし、人間の在り方は、思考のみでも常態のままでもないところに、各々の人生のスケッチが描かれるのだと思います。
「至福とは、瞬間的に思考が実在に触れた時に起こるもの
いや、それ以前にそれを感じているのではないでしょうか?」
至福をどうとらえるかに因りますね。どうとらえるかということそのものが思考ですから、それ以前とは思考のまだ生まれていない時期であり、実在=常態。思考が生まれてあなた様の言葉「現臨」が現れる。
常態があって、思考が生まれて、人間の虚構の世界観がある。
この虚構を捨てるのか活かすのかが、ここから分かれ道となるのだと思います。捨てて実在に入るのか、虚構を生かして実在に還るのか。
前者は不幸も至福もない。しかし後者は実在の至福を味わい尽くす。
私は人間が生まれた理由がここにあるのだと思うのですが、いかがですか?人間賛歌とはそんな意味なのです。
思考の表層、意識の内奥の“間“を生きているのが本来の人間なのではないでしょうか?
そこに“持続的に感じられる“幸福の道へのヒントがあるように思います。
私もその点は同じです。
もしあるとすれば、まさに現臨体験ということでしょうね。
私の言葉で言えば、人間賛歌です。
この二つは、同じことを言っている可能性があるように思えてならないのですが、どこで私達は互いにちょっと違うと思うところがあるのでしょうか。
現に今、実在に臨んでいると考えるとするなら、臨んでいるものがいなくてはなりません。つまりそこに人間がいるのではないですか。
一方私は人間のまま実在と触れ合うと考えます。人間のままというのは人間の思考や言葉、感性全般すなわち心のことです。
私達はきっと同じ結論を持っている気がしてなりません。思い違い、行き違いを知りたいです。
だからその相異点があるのも受け入れないとならないし、私はあまり追求したいとも思いません。
あるいはそのような関係のみが生物を生かせていると言ってもいい。
獲物を捕食し、敵から逃れ、仲間と連帯することによってのみ、生物はその生存を保つことができる。
ただ、おそらく人間だけがこの関係を自己自身の内部へ対自的に取り込んで、これを「精神」
あるいは「意識」という形で内在化した。
それは言語の使用と密接に関連している。
しかし、言語的に内在化するか否かにかかわらず、他者や世界との関係のみが個体の存在を保証していることにかわりはない。
個体が存在するということは個体の現在のある場所で、個体を取り巻くさまざまな関係が個体の存在を保証する仕方で成立しているということにほかならないし、個体が生きているということは、この関係によって生かされ、この関係を生きているということにほかならない。』
木村敏 「分裂病の詩と真実」
貴方の一つ前のコメントをあらためて考えてみました。
ごめんなさい。私の方がよく考えていなかったようです。
この点、私も同感なのです。私の勝手な思い込みだったのかも知れません。
貴方の考え方では、至福を感じているのは人間の方ではなく、実在であると思えたものですから、違いを感じたのは私の勝手な思い込みだったのかもしれません。
その点お許しください。
あらためて、「思考の表層、意識の内奥の“間“」に持続的な至福がどんな形であり得るのか、互いの道程で考えてみませんか。
ここから私はそれぞれの道で互いに同士のように進んでいけるように思います。
これが素直に私の喜びたい気持ちです。
お互いの接点に帰ったという、“幸福“な感じです。
有難うございます。
自分が「幸福だ」と感じること
自分が何かを思い
自分が何かを感じること
その何かがあらわれることが
自分を自分たらしめている。
思い感じることであらわれる自分
自分とは縁によって起こること