人間の思考には二つの方法がある。
右脳、左脳と呼ばれたりするが、私は感性思考と理念思考という言葉を使う。
そのとらえ方はほとんど同じだろう。しかし思考は単純に脳を分割して成り立っているようには思えないので、思考の機能をとらえた言葉の方が混乱を招かないと考えるのだ。
今日、朝の草引きをしていて、心が大きく開かれるようなことが起こった。
握り拳大のマーブルがしき詰れれた海岸に蔦性の草が密生しているところがある。
茎はもろくて触るだけで千切れるような蔓が石の間から無数に立ち上がっていて、それを引き抜くのは至難の業が必要だ。
私はこれまで、それを根っこまで見たことがなかった。ぶちぶちとちぎって葉の部分だけを取り除くしかなかったのだ。とりあえず葉を取ってみても、数ヶ月たつと元の群生が現れる。
今回その場所を除草するのは2度目だった。
空しい作業だが、私はその空しさが起こってくる自分の思考を見つめ続けていた。空しさの感覚が起こってくると、今この瞬間を生きるという考え方をそれに重ねてみた。草をつまんで、出来るだけ蔓を切らないように優しく上に引っ張る。その作業だけが頭に満ちてくる感覚を満ち続けた。
するとふと、硬い蔓が手に触った。そっと握りしき上げると、そのまま上に乗っている石ころを跳ね除けてどんどん深く続いていった。
その蔓をたどっていくと、地面から10センチほどの深さに、大きな株のようなものに行き当たったのだ。
私は上に敷いているマーブルを取り除いて見た。そこにはびっしりと敷き詰められた根の絨毯が現れたのだ。そのときの驚きはおそらく覚醒する一瞬と同じではなかっただろうか。
驚きと共に、恐れを感じた。こんなものを相手にしていたのかという思いが頭を巡ったのだ。
私はその根っこの絨毯に手を差し入れて上に引き上げた。想像もしなかった株が現れてきた。私は夢中でその株を引き抜き始めた。
私の中にある不純なもの、それがヘドロのように掻き出されるようなそんな思いが重なっていく。
星空が白み始め、東の空がオレンジ色に染まり始めた。
作業を切り上げないといけない時間だ。
このとき私は理念思考と感性思考が合体しているような感じを持った。
本来思考はひとつのものなのだ。
それは生きる瞬間の現れに他ならない。
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