徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「潮来節」 と 熊本との関係は?

2014-10-28 18:10:14 | 音楽芸能
 ザ・わらべ の得意な演目の一つとなっている「潮来音頭」と「潮来甚句」。ひっくるめて「潮来節(曲)」と呼ぶこともある。茨城県の潮来は、江戸時代には千葉県の銚子から利根川をさかのぼる東回りの舟運の寄港地として、また香取、鹿島、息栖の水郷三社への参詣の拠点として大いに栄えた。船乗りや参詣人相手の遊廓ができ、全盛時には妓楼9軒、引き手茶屋40余軒が軒を連ねたという。そして花柳界の座敷唄として唄われたのが「潮来音頭」と「潮来甚句」。「潮来節」は舟運に乗って江戸へ伝わり、「よしこの節」や「都々逸」へと姿を変え、江戸端唄のもとになったとも伝えられる。
 われわれ熊本人には遠い話のように聞こえるが、どっこい、実はとても関係が深いのである。潮来の船頭たちが唄う舟唄がもとになったと言われる「潮来音頭」に対し、「潮来甚句」は宮城県の「塩釜甚句」が伝わったものだという。江戸時代、明暦の大火(1657年)以後、幕府は奥州各藩から米を買い付るようになり、伊達藩の米を積んだ千石船が盛んに潮来へ入って来た。そして一緒に伝わったのが「塩釜甚句」。この「塩釜甚句」が何を隠そう、もとはと言えば、海運に乗って塩釜へ伝わった「牛深ハイヤ節」なのである。つまり、「潮来甚句」と「牛深ハイヤ節」は親戚筋に当るというわけだ。芸能文化の歴史を辿ると実に面白い話にいくつも出くわすのである。
※右の絵は「潮来図誌」より