徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

喜多流のはなし。

2016-10-21 18:49:42 | 音楽芸能
 今年の熊本城薪能喜多流の出演なので喜多流にまつわる話を少しばかり。
 喜多流の流祖・北七大夫長能(二世以降「喜多」を名乗る)は、7歳の時に豊臣秀吉の前で「羽衣」を舞い「七つ太夫」と呼ばれたという天才。世阿弥の幼少時を思わせる。秀吉に召されて「喜多流」を興した。
 大河ドラマ「真田丸」は今ちょうど大坂の陣前夜というところに差し掛かっているが、七太夫は大坂夏の陣では真田幸村の配下として戦ったという。大坂城落城の時、豊臣秀頼とともに脱出し、薩摩へ落ち延びたという伝承がある。その後、二代将軍秀忠が七太夫の消息を訊ねたので黒田長政が奔走して、故郷筑前で遁世していた七太夫の復帰が許されたと伝えられる。
 熊本の能楽の歴史は、加藤清正が金春流・武家能役者中村靭負を伴って肥後入国したことに始まるが、肥後細川藩初代忠利の時、金春流桜間家とともに喜多流友枝家がご流儀となった。以後、細川家によって能楽が奨励され、熊本は金沢とともに全国で最も能楽が盛んな藩となった。明治維新によって大名というパトロンを失った日本の能楽は衰亡の危機に瀕したが、熊本から桜間伴馬友枝三郎という二人の名人が上京して活躍し日本の能楽界を支えた。
 今日、友枝家塩津家狩野家という熊本由来の能楽師たちが喜多流を支えている。


昨年の藤崎八旛宮例大祭・段山御旅所奉納能において、半能「敦盛」(シテ狩野祐一)の後見を務める
人間国宝・友枝昭世(左端)。存在感が凄い。