人で言えば「再雇用」のような形で「SLあそBOY」として、また「SL人吉」として頑張ってきたが、機関車の老朽化、部品調達や技術者の確保が難しくなった等の理由により、明日3月24日を以て「SL人吉」は101年の現役を終えることになり、今日ラストランが行われた。
釜尾町の井芹川に架かる鶴野橋の上から見送ったが、汽笛を鳴らしながら去って行くSLを見ていると、僕の生きた時代が遠い彼方へ去って行くようで万感胸に迫るものがあった。
SLの思い出で最も忘れられない一つが、高校1年(1961年)の夏、東京合宿で初めて上京した時、熊本―東京間を「急行阿蘇」で丸1日かかったこと。東京に着いた時はクタクタで顔は煤で真っ黒だった。下の映像は、その東京合宿の後のインターハイで、わが済々黌水球部が連覇し、熊本駅に凱旋した時のもの。(映像は村山憲三氏提供)
釜尾町の井芹川に架かる鶴野橋の上から見送ったが、汽笛を鳴らしながら去って行くSLを見ていると、僕の生きた時代が遠い彼方へ去って行くようで万感胸に迫るものがあった。
SLの思い出で最も忘れられない一つが、高校1年(1961年)の夏、東京合宿で初めて上京した時、熊本―東京間を「急行阿蘇」で丸1日かかったこと。東京に着いた時はクタクタで顔は煤で真っ黒だった。下の映像は、その東京合宿の後のインターハイで、わが済々黌水球部が連覇し、熊本駅に凱旋した時のもの。(映像は村山憲三氏提供)
朝からいい映像をふたつ見せていただき、わくわくしてきました。
福岡で育った子供の頃は、SLが友達みたいなものであの噴煙と汽笛は懐かしいものです。
幼児のころは一段高くなった庭から、300m
くらい先の筑肥線鳥飼駅に貨物列車の車両入れ替えの様子をいつまでも見ていたものです。
中学3年の時は、富士山の麓で開催されたボーイスカウトのアジアジャンボリーに小さなSLに引っ張ってもらって登る御殿場線も楽しい思い出です。
高校1年の春休みにはリュックを背負って、鹿児島、霧島、宮崎と博多発~博多行きの1000円弱の国鉄キップ1枚で山登りをしましたが、日豊線の登り線ではトンネルを潜るたびに噴煙予防のために客車の窓を上げたり下ろしたり・・・(笑)。
FUSAさんといっしょにSL時代に生きた世代としては郷愁を感じます。
>熊本―東京間を「急行阿蘇」で丸1日かかった・・・東京に着いた時はクタクタで顔は煤で真っ黒・・・
いやー、他のいろんな思い出も蘇ります。
熊本駅の凱旋風景はFUSAさんの宝ものですね。
上のSL動画撮影もお見事です!
有難うございました。
孫たちは動く蒸気機関車を見るのは初めてで、釜の火が見えたと喜んでいました。
SLでの旅ははるか昔の思い出です。
私たちが子どもの頃はSLが走る風景は普通に見られたものですね。
中学校の修学旅行は南九州の旅でしたが、窓を開けて景色を楽しんでいたものですが、トンネルに入るとあわてて窓を締めたりね(笑)
急行阿蘇での東京行は熊本を夕方6時に出発して東京着が翌日の夜8時でしたからね。しかも直角座席に座ったままですから、今でしたら体力的にもたないですよね。でも東京駅に近づいて有楽町あたりのネオンを見た時は「これが夢に見た大東京か!」と感動したものです。
熊本駅凱旋の映像は私も写ってはいるんですが、金沢でのインターハイ登録メンバーには入れなかったので、私は迎えに行っただけなんですよ(笑)
SLが走っている姿は何であんなに感動的なんでしょうね。きっとノスタルジックな幼い頃の思い出と重なっているんでしょうね。
立野のところのスイッチバックは思い出深いですね。SLがまるでゼェゼェと苦しそうに息を吐くように登っていましたね。
顔が煤だらけになって友人とお互いに顔を見ながら笑い合っていたものです。古き佳き時代だったのでしょうね。