昨日は三枚町から西谷駅まで歩きました。
そのあと病院に行って、指のレントゲン写真を撮ってもらうと、
結果は何と骨折していたようで、しばらくは不自由が続くこととなった。
いいことない一年の初めだと、やや落ち込み気味となるが仕方ない。
途中聴いた曲は1480年頃または1490頃生まれのフェスタの作品である。
彼の生まれた場所については不詳だが、ピアモンテとも考えられている。
ジョスカンとパレストリーナの中間に位置する作曲家で、
その当時フランドル出身の作曲家たちが得意とする
ポリフォニックな声楽曲の分野でイタリア人として初めて成功した。
「だれが私たちの目に涙の泉を(Quis dabit oculis nostris)」は、
1538年ゼンフルの名で公表され、彼の作品と思われてきたが、
実はコンスタンツォ・フェスタの作であることがCDの解説には書かれている。
原詩はアン王女の死に関係した作と考えられているようである。
今回聴いたCDはニコラウス・アルノンクール指揮、
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクム、ウィーン合唱団による演奏となっている。
「だれが私たちの目に涙の泉を(Quis dabit oculis nostris)」は、
深い悲しみを歌った曲で、CDでは少年合唱団を含む合唱団で歌われる。
ポリフォニックな作品となっており、曲はイタリア的であるが、
フランドルの作曲家たちの作品の影響を受けているだろうことは感じさせる。
ここでの内容は、マキシミリアン皇帝の死を悼み、
ドイツ・オーストリアの人々の嘆きが歌われる。
最後はその冥福を祈るように静かに消え入るように終わる。
そのあと病院に行って、指のレントゲン写真を撮ってもらうと、
結果は何と骨折していたようで、しばらくは不自由が続くこととなった。
いいことない一年の初めだと、やや落ち込み気味となるが仕方ない。
途中聴いた曲は1480年頃または1490頃生まれのフェスタの作品である。
彼の生まれた場所については不詳だが、ピアモンテとも考えられている。
ジョスカンとパレストリーナの中間に位置する作曲家で、
その当時フランドル出身の作曲家たちが得意とする
ポリフォニックな声楽曲の分野でイタリア人として初めて成功した。
「だれが私たちの目に涙の泉を(Quis dabit oculis nostris)」は、
1538年ゼンフルの名で公表され、彼の作品と思われてきたが、
実はコンスタンツォ・フェスタの作であることがCDの解説には書かれている。
原詩はアン王女の死に関係した作と考えられているようである。
今回聴いたCDはニコラウス・アルノンクール指揮、
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクム、ウィーン合唱団による演奏となっている。
「だれが私たちの目に涙の泉を(Quis dabit oculis nostris)」は、
深い悲しみを歌った曲で、CDでは少年合唱団を含む合唱団で歌われる。
ポリフォニックな作品となっており、曲はイタリア的であるが、
フランドルの作曲家たちの作品の影響を受けているだろうことは感じさせる。
ここでの内容は、マキシミリアン皇帝の死を悼み、
ドイツ・オーストリアの人々の嘆きが歌われる。
最後はその冥福を祈るように静かに消え入るように終わる。