長いクラクションが冷え切った街の空気を切り裂いた。笛森志穂は決然として唇をかむ。その目は泣き出しそうな潤みを帯びている。頬の筋肉がかすかに震えている。隣で呆然と口を空ける藤岡などまるで眼中にない。
「私、何がしたかったんだろうって思うんです。あの男が憎かった。お母さんの人生をぼろぼろにして、お母さんを死に至らしめて────でもそれって、私の勝手な思い込みですよね。お母さんは本当に、ただの事故で死んだのかも知れない。自分から飛び込んでなんかいないのかも。どっちにしても、あの男には関係ないことよ。お母さんは、お母さんはあの男に惚れて、不倫とわかっていながら、それでも引き返せずにいて、別れて、不幸になって・・・・自業自得じゃない。わからない。でも少なくとも、娘である私に、あの男を裁く権利なんてなかった。いや、そうじゃなくて────そうじゃない。ほんとうに悔しいのは、私があんなことしたせいで、あの男が寿命より早く死んだとしても、あの男は反省なんか全然、全然しなかったってこと。私たちの親子の悲しみには何も気づかずに死んだってこと。あの男は人の痛みなんてわからない。だから死んでも、自分が死んだ理由なんてわかりっこない。わかりっこないから、呪って出るのよ。じゃあ私がしたことって何? 夜眠れなくなるほど苦しんでまで、私がしたことって何?」
泣き叫ぶような言葉であった。皮の手袋をはめた両のこぶしが見えない何かに対し、抵抗を示すように突き出され、震えていた。
笛森志穂よ、気づけ。私はここにいる。志穂よ、志穂よ。もう一度私に対して言ってみるがいい。私は、人の痛みのわからない男なのか?
生前一度も会っていないお前にまで罵倒される私は、一体何なのだ?
絶望と憤怒と、少し遅れて哄笑が、同時に私の中に湧き起こった。
そうだ。そうだ。私は一木の老松である。人の痛みなどわかるはずがない。愛しき故人の、美しき娘よ。私をもっといたぶるがよい。嫌うがよい。私はお前によってどんなに心傷ついても、木であるがゆえに膝を屈することさえできないのだ。
つねに、つねに。憤死するずっと前から、いつだって、私は役立たずの古木のようなものであった。人間的なことは何一つできなかった。誰に愛されるすべもなかった。
そのとき玄関の引き戸が開いた。
美咲が、戸口に立っていた。
(つづく)
「私、何がしたかったんだろうって思うんです。あの男が憎かった。お母さんの人生をぼろぼろにして、お母さんを死に至らしめて────でもそれって、私の勝手な思い込みですよね。お母さんは本当に、ただの事故で死んだのかも知れない。自分から飛び込んでなんかいないのかも。どっちにしても、あの男には関係ないことよ。お母さんは、お母さんはあの男に惚れて、不倫とわかっていながら、それでも引き返せずにいて、別れて、不幸になって・・・・自業自得じゃない。わからない。でも少なくとも、娘である私に、あの男を裁く権利なんてなかった。いや、そうじゃなくて────そうじゃない。ほんとうに悔しいのは、私があんなことしたせいで、あの男が寿命より早く死んだとしても、あの男は反省なんか全然、全然しなかったってこと。私たちの親子の悲しみには何も気づかずに死んだってこと。あの男は人の痛みなんてわからない。だから死んでも、自分が死んだ理由なんてわかりっこない。わかりっこないから、呪って出るのよ。じゃあ私がしたことって何? 夜眠れなくなるほど苦しんでまで、私がしたことって何?」
泣き叫ぶような言葉であった。皮の手袋をはめた両のこぶしが見えない何かに対し、抵抗を示すように突き出され、震えていた。
笛森志穂よ、気づけ。私はここにいる。志穂よ、志穂よ。もう一度私に対して言ってみるがいい。私は、人の痛みのわからない男なのか?
生前一度も会っていないお前にまで罵倒される私は、一体何なのだ?
絶望と憤怒と、少し遅れて哄笑が、同時に私の中に湧き起こった。
そうだ。そうだ。私は一木の老松である。人の痛みなどわかるはずがない。愛しき故人の、美しき娘よ。私をもっといたぶるがよい。嫌うがよい。私はお前によってどんなに心傷ついても、木であるがゆえに膝を屈することさえできないのだ。
つねに、つねに。憤死するずっと前から、いつだって、私は役立たずの古木のようなものであった。人間的なことは何一つできなかった。誰に愛されるすべもなかった。
そのとき玄関の引き戸が開いた。
美咲が、戸口に立っていた。
(つづく)
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