思い出した物語がある。
どこの本で読んだのか、誰かから聞いたのか、定かではない。
コレラかペストか、いずれにせよ人類の滅亡につながる恐ろしい疫病が世界を席巻していた。男は、愛する女と二人、命からがら無人島に逃れた。そこには十分な食料があり、他にこの島に上陸する人もおらず、ここに留まりさえすれば自分たちは安全だと思われた。
ところがしばらくして、女が疫病に罹っていることが判明した。医学の心得がなくても、容易にわかるような特徴的な症状が現れたのだ。男は苦悩した。このまま一緒にいれば、自分も疫病に罹る恐れがある。しかし離れて生活することを選択すれば、看病の必要な彼女は食料を口にすることすらままならず、早晩死んでしまうだろう。どうするか。自分一人生き残るために彼女を見捨てるべきか。それとも彼女に救いの手を差し伸べるべきか。
結局、男は女に手を差し伸べる方を選択する。一人きりになるなら生きていても仕方ない、と考えて。物語はここで終わり、二人が愛の力で助かったような奇跡は描かれていない。かと言って、二人が死んだとも描かれていない。
私はこの話を知ったとき、詰まらない結末だと思った。ありきたりであり、陳腐である。理想化されたヒューマニズムで飾りつけられた虚構である。実際そんな場面になれば、人にはもっと葛藤があり、エゴがあり、そして何より、理詰めでどれだけ考えてみても、男一人助かる方が生物としての合理性にも叶っている。
だが最近は歳を取ったのか、別の考え方も首をもたげるようになってきた。相手に手を差し伸べなければ、そもそも自分だって助かるはずがないのではないか、と。
別に奇跡の到来を期待するわけではない。愛の力を高らかに謳い上げるつもりもない。ただ、相手を看病し、治そうと懸命の努力をしない限り、自分一人の命だって助かる見込みはない。それが、生物として本能的に選択する生き延び方であり、人類も実は、これまでそうやって生き延びてきたのではないか。
巷ではコロナウィルスの騒動が続いている。マスクを買い占めたとか、それを転売してぼろ儲けしている輩がいるとか、誰がどこで感染したかという犯人探しまがいのことが横行している。一方で医療従事者は、我が身を命の危険に晒しながら現場で懸命の医療活動を行っている。その医者たちをまた、病原菌のように中傷し遠ざけようとする人々がいる。
そのようなニュースを耳にするたび、嫌悪感や共感が境目もなく心の中を渦巻く。そして、私自身にこう問いかけるのだ。
お前は、どうなのだ。
愛する人なら手を差し伸べるのか。愛していなければ、手を差し伸べないのか。
お前はいったい、誰を守っているのだ、と。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます