女の腕ばかりを男は見ていた。
「エリちゃん、なんか歌おうか」
エリちゃんは歯をむき出しにして笑い転げた。男の方など見てもいなかった。男のとなりの松田さんが卑猥なことを彼女に言って、それで笑い転げたのだ。
「なあ。なんか一緒に歌おうか」
「え? シノさん歌ってよ。自分の好きなの歌えばいいじゃん」
「一緒に歌おうって言ってるんだ」
シノさんの声は掻き消された。松田さんがまたいっそう卑猥な駄洒落を言ったので、エリちゃんはそっちを向いてひーひー笑って、おまけにママさんともう一人の客まで吹き出し、エリちゃんはついに松田さんをぶつ真似までした。
シンさんは両手でグラスを握り締めた。
「シンさん歌ってよ。シンさんの曲、難しくてエリ歌えないもの」
「白い腕だな」
「え? あたし? か弱い腕でしょ。やだ、もう、松田さんこぼれるから止めて!」
「かぶりつきたいな」
エリちゃんはやっぱり松田さんの方ばかり気になっている。
「松田さん、馬鹿言って! 自分のが濡れてるんじゃない?」
突然、スナックは地鳴りのような喧噪に包まれた。誰もが青ざめて立ちすくんだ。シンさんがエリちゃんの腕にかぶりついたのだ。エリちゃんが悲鳴を上げ、松田さんやら徳山さんやらがシンさんを羽交い締めにして引き離しにかかった。
「離せこら!」
行動の自由を奪われたシンさんは、奪った相手である松田さんや徳山さんに当たり散らした。
「離せと言ってるだろうこら!」
松田さんも徳山さんも、顔を赤くして説教にかかった。
「あんたが、おい、あんたがエリちゃんの腕を噛むからだろ、自分のしたことわかってんのか?」
「エリちゃん見てみろ、ほら、エリちゃん泣いてるだろうが。なあ、自分のしたことをちゃんと見ろ!」
「うるせえ離せこら!」
シンさんはエリちゃん以上にぼろぼろ涙をこぼしていた。猿のように顔をしわくちゃにして泣いていた。もはや誰に対してというのでもなく、ただただ泣きたくて泣いていることは、そのスナックにいる誰もがひそかに理解していた。
「離せこら! 離せと言ってるだろうが! 畜生離せよこら! ぶっ殺すぞこら!」
「見ろ、血が、エリちゃん、血が出てる!」
「ぶっ殺せこら!」
誰も見ない置き時計が、食器棚の片隅で、そろそろ、今晩の閉店時刻を告げていた。(終)
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