※こういう所に載せる物としては少し長いですので、ご了承ください。
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水道工事会社のパート事務員である浅田久美子はこの夏、アパートに帰りつくやいなや冷蔵庫を開けて悪態を吐くのが日課になっている。悪態は日によって上司に対してであったり、ふた月前に別れた元夫に対してであったりする。ごく稀ではあるが自己批判のときもある。「あんたいったい何のために生まれてきたのさ」とか。一通り悪態を吐き終わると、発泡酒を一缶取り出して右手に握りしめる。それから汗まみれのひたいに当てる。吊り目を閉じ、唇をへの字に結ぶ・・・。
はっと気がついたように、彼女は缶を手放す。彼女を現実に引き戻したのは、一人息子の英明のピアノ教室である。五時半のレッスン開始まであと三十分。保育園まで迎えに行かなければ。彼女はかぶりを振って缶ビールを冷蔵庫に戻し、代わりに冷水出しのウーロン茶の入った二リットルガラスポットを取り出してグラスに注ぐ。そして世の中を罵る言葉を吐きながらぐっとウーロン茶を飲み干すのである。
グラス二杯を立て続けに空けて、冷蔵庫を睨みつけていたら、おもちゃ箱をひっくり返したような音楽が鳴り響いた。携帯電話の着信音である。深い井戸でも見下ろすような目つきで、ナンバーディスプレイを見つめる。グラスに三杯めのウーロン茶を注ぎ、ゆっくりと半分まで喉に流す。長い溜息をつき、自分の親にも見せたことのないような盛大なげっぷを添えたあと、久美子はようやく携帯電話を取り上げた。
「すっごくおひさ。元気?」
☆
ところで浅田久美子に電話したのは、本島里子である。
私立大学の非常勤司書を去年お払い箱になり、現在24時間営業のスーパーマーケットで朝八時から夕方三時までレジ係をしている彼女は、親友の久美子より帰宅が二時間ほど早い。帰宅すると、誰もいないのに「ただいま」とつぶやく。鍵を鍵掛けにかけるように、そっとつぶやくのである。一人暮らしの八畳1DKは、いつも小ざっぱりとしている。玄関で靴を揃えた後、ベランダに直行し、ジョロにたっぷり二杯分の水を、朝顔やハーブやミニトマト、職場で貰ってきた枯れかけた観葉植物、山歩きをして偶然見つけた名前も知らない植物などに順番に遣る。ゆっくり、撫で回すように水をかける。それから窓辺に腰を下ろし、眼鏡を外す。赤い縁の眼鏡。強度の乱視である里子には、眼鏡がなければ世界は手ぶれを起こした写真のようにしか見えないのだが、何も見えないことを彼女は密かに楽しむのである。 もう少し背が高くて、もう少し目もとがぱっちりしてればね、と彼女を産んだ母親に言われたことがある。そんなところね、と当時小学五年生だった彼女は答えた。
瞑想するように、窓辺でじっとしている姿は、長いときには小一時間に及ぶ。
普段はそれから立ち上がって夕食の準備に取り掛かる。ところが今日は、両手で顔を覆って泣き始めた。涙が、痩せた指の隙間から、植木鉢に注がれることもなく幾筋も落ちた。
表通りの歩行者用信号のメロディが、かすかに聞こえてくる。公園では子どもが何やら言い合いをしている。車のクラクション。西日が一段と低くなる。
ようやく泣き止むと、立ち上がって台所に行き、凄まじい音を立てて洟をかんだ。眼鏡を掛け直し、ちゃぶ台の前に体育座りをして携帯電話を取り上げる。しばらく手に握りしめていたが、諦めたように電話をちゃぶ台に戻す。再び手に取り、また戻す。それからやっぱり取り上げ、涙で濡れた親指を震わせながらボタンを押す。携帯電話を耳に押し付けると、本島里子は、虚ろな目を窓辺に向け、音も立てずに吊り下がっている色あせた風鈴を見つめた。
「すっごくおひさ。元気?」
「ごめんなさい」
蚊の鳴くようなその声で、浅田久美子は、肺の空気を全部抜きとるほどに長い鼻息をついた。
「何で謝るのさ」
「だって」
「何で謝るのさ」
「ごめん」
「もうとっくに時効だよ」
電話の向こうは泣き声を上げた。久美子はひたいに手を当てた。
「ねえサト、サト。時効という言葉が悪かった。悪かったわ。あたしが謝る。だってサトは何にも悪いことしてないんだもの。そうでしょ? ねえ。言ったじゃない。あたし何にも気にしてないって。あのね、サト。あんたに罪はないの。あんたがやったことは、罪じゃないし、女として普通のことなの。とっても普通。女だったらさ、何て言うか、愛し合うことに関しちゃ、誰に遠慮もいらないでしょ? 」
泣き声が大きくなった。久美子は憤慨して冷蔵庫を睨みながら声を張り上げた。
「ねえ。ねえサト。いい加減にしな。こら。ちょっと。あたしの話聞いてる? あたしは自分で言うのもなんだけど、ほんとさっぱりした性格なのよ。全然根にもってないし。とにかく、これで繰り返し言うのはかれこれ八度目くらいだろうけど、いい? あれは、あたしたちの関係が終わってから、あれがあったのよ。あんたと貴彦のことがあったのは、あたしと貴彦が決裂したあと。あたしたちの関係は、そんときはもうきっぱりさっぱり終わってたの。終わってたの。わかる? 離婚届けに署名こそまだしてなかったけど。でももう、明日あさってには市役所に行こうって話になってたの」
「でも」
「とにかくサトに責任はないの。ないの。ナッシング。そのとき貴彦と何しようが、離婚の前提が揺らぐ可能性はなかったし。むしろおかげでスムーズに行ったくらいよ。いいきっかけって感じ。ねえ、だから泣かないでよ」
「私、クミと貴彦君に離婚してほしくなかったから、説得しに行ったのに」
「そうね。そうよ。サトこそお気の毒よ。腹いせにもてあそばれたみたいな感じでさ。あんた強姦されたのよ、貴彦に。被害者よ。あいつほんとにずうずうしいからね。信じがたい奴だからね。新聞の料金を徴収しにきた女だって口説き落とそうって思うんだから。獣が服着てたようなもんよ。あたしたちがジ・エンドを迎えることは、四年も前にはすでに、四年後のオリンピック開催国みたいにばっちり決まってたの。結局、早かれ遅かれだったのよ。サトとのことがいいきっかけ。あんときにゃもうオリンピック開会式一週間前のリハーサル状態。そりゃあさ」
気がつけば久美子は、しゃべりながらテーブルに点いた焦げ跡を爪でこそげ落とそうとしていた。はっと指を引っ込め、爪についた汚れを点検する。
「そりゃあ、まあ、サトのおかげでさ、最終的には一日から三日分くらいスムーズに事が運んだかも知れない。かも知れないけど、けど、その分あたしのストレスが三日分軽減されたわけよ。そう。ストレスから来るいろんな、胃潰瘍やら自律神経失調症やら肝硬変やらを回避することができたんだから。感謝したいくらいよ、ほんとに」
「肝硬変はアルコールでしょ」
「ストレスで飲み過ぎるんだから同じよ」
里子は初めて笑い声を洩らした。その声を聞き、久美子も口を開けて短く笑った。
☆
風鈴が音を立てる。赤い眼鏡の里子は少しだけ安心したような表情をして、座布団の上で両脚を伸ばした。携帯電話を耳に当てたまま前屈のような真似をする。ほとんど骨と皮だけの脛である。衣装箪笥の上に乗る金魚鉢で、出目金が跳ねた。
久美子は凝りをほぐすように首をひねり、顔をしかめた。足で冷蔵庫を開けて缶ビールを再び取り出す。右手で缶を転がしながら壁時計を見上げる。鼻息をついて缶をまた冷蔵庫に仕舞う。足で冷蔵庫のドアを閉める。
二人の女はそれぞれ、次の相手の声を待って携帯電話を強く耳に押し当てた。
☆
里子のアパートの隣は小さな公園である。すずかけの木にやってきた鳥の鳴き声を、里子は目を閉じて聞いた。
「この一か月、ずっと死にたいと思ってたよ」
里子のこの告白に対し、彼女の親友はしばし、仏像のように沈黙した。「そう」右足のかかとを手のひらで擦りながら、彼女は言葉を付け足した。「じゃあ、これからは生きたいと思って過ごしな」
「うん。そうする。ねえ、クミ」
「何?」久美子は時計を見上げた。「そろそろ英明を迎えに行かなくちゃいけないんだけど」
「あ、ごめん。じゃあまたにする」
「いいよ。ちょっとだったら。何さ」
「うん、またにするよ。またでいいから」
「言いかけて止めるなよ。気持ち悪いじゃんか。何さ」
「うん」
ちゃぶ台の上に乗っているペン立てを、里子は無意識に引き寄せた。鉛筆やらボールペンやら蛍光ペンやら筆ペンやら色鉛筆やらが、これ以上新規のペンは受け付けないぞとばかりにぎゅうぎゅうにおし込められている。里子はそのどれを抜き取るわけでもなく、自分のひたいをペンの束に押し当てた。それからペン立てを元に戻し、携帯電話に頬を寄せた。
「クミ」
「お?」
久美子は空いた手で手鏡を出して鼻毛の有無を点検していた。「何さ」
「クミ、貴彦君のこと嫌いなの」
北風が吹きつけるような豪快な音が里子の耳に届いた。久美子のため息である。
「好きだったら離婚してないわよ」
「そうかな」
「何だよ。あんたはまだ未練があんの」
「そんなこと」誰にも見られていないのに、里子は懸命にかぶりを振った。「私は本当に、あの日のことがなかったらって思うよ」
「まあとにかくろくな男じゃないよ。調停に来た女友達を手ごめにするんだから」
「クミ」
「笑ってるの? 泣いているの?」
「笑ってるんだよ。クミ。クミ。クミ。相変わらず口が悪いなあって」
久美子の耳には、しかし、嗚咽のような音が届いた。
「クミ。でもね」と里子は鼻を啜りながら続けた。
「でも、貴彦君、クミのこと話しながら大泣きしたんだよ」
「あ、そう」
「あそう、じゃないでしょ」
「最低だね」
「何それ、クミ。クミ、どうしてそういうこと言うの」
「トイレに行きたいだけだよ」
「もう。クミ」
「下世話だけど、ほんと行きたいんだよ。ウーロン飲んだからさ。そいで、もううちのこぶを迎えに行かなきゃいけないからさ」
「そんな言い方やめて、クミ」
「いやほんとに、ピンチなんだ。英明のピアノがあるから、急いで保育園まで迎えに行かなくちゃいけないの。その前にトイレ、トイレ。やばいよ。サトが今ここに居てあたしの青ざめた顔見たら、納得してくれるわよ。ごめん。とりあえず今日はここまで」
「うん。わかった。ごめんね、クミ」
「こっちこそ。また、またね」
「うん。クミ?」
「どうした?」
「ありがとう」
「どういたしまして。アディオス」
「うん」
本島里子は携帯電話を親指で切った。浅田久美子もその音を確認してから、親指を動かした。
二人の女性の間に、町二つ分の距離が戻る。
☆
薄暗いダイニングルームは冷蔵庫の音しかしない。浅田久美子は椅子の背もたれに体重をかけながら黙然としていたが、不意に身体を起こし、食卓を手のひらで思い切り叩いた。それから痛そうに手を振り、立ち上がった。
「裏切り者」
急いで鍵を持ち、バッグを肩に掛けながらも、彼女は独り言を止めない。
「死にたいなら死んじゃえ。え? 死んじゃえどいつもこいつも。糞ったれが」
☆
風鈴が狂ったように鳴り始めた。夕刻の風がベランダに差し込んできたのであろう。本島里子はいまだちゃぶ台の前に座り込んだまま、両手で握り絞めた携帯電話に見入っている。ディスプレイに映る写真が次々と変わる。雪山が映る。久美子の特大の顔とVサインが映る(見ている里子は小さく笑った)。写真の久美子は、今よりも痩せていて若い。久美子のVサインが三回続けて映る。それから、帽子の位置を直しながら、カメラマンに要求されて眼だけこちらに向けた瀬川貴彦の全身像が映る。久美子のVサインがまた映る。里子自身が映る。やはり今より若いが、妙に緊張している。脇に抱えるボードの重みに戸惑っているようにも見える(自分の写真を見つめる里子の目は冷ややかである)。写真はさらに替っていく。リフトに乗ってチョコポッキーを口にくわえた久美子の横顔。手ぶれをおこして何が映っているのかわからない画像。山の上から眺め下ろす雄大な冬景色。最後に、三人がそれぞれのボードを抱え、並んで立っている写真。三人とも命令されたように突っ立っているだけである。左から瀬川貴彦、それにくっつくようにして浅田久美子、少しだけ離れて本島里子。
宵闇が部屋の中に急速に広がりつつあった。画像は何度か自動的に消えたが、その都度里子はボタンを押して三人の写真を復活させた。視線を落とし、うつむく。しばらくそのまま項垂れていたかと思うと、顔を上げ、親指を動かし、帽子の位置を直す瀬川貴彦の写真のところまで戻った。
携帯電話を鼻にくっ付きそうなほど近づけて見入る。ディスプレイの明かりが、赤い眼鏡をかけた里子の顔を照らす。口をへの字につぐんで眉根を寄せる彼女の頬に、また涙が細い筋となって伝った。
☆
☆
とにかく狭い居酒屋であった。酒がどこでこぼれようが床に落ちた割りばしを誰が踏みしめようがそれどころではなかった。カウンター五席と二人掛けテーブル一台はすべて酢漬けにしたような酔っ払いたちで埋まっていた。酒のにおいに正体のわからない饐えたにおいが混ざり、耳鳴りがするほどの喧騒が店内を満たしていた。そうそう、奥のトイレに行く途中に三畳ほどの座敷もあるにはあったのだが、すでに二人の酔いつぶれた男共で占領されていた。客の構成は以下の通りである。商店街の暗い先行きと明るい夢物語について気炎を上げる、地元商工会の若手グループが五人(そのうち二人が座敷で寝ているので、現在はカウンターに三人)。入口付近の残り二つのカウンター席では、水商売風の女二人組が煙草をふかしながらけらけら笑い転げている。そして壁際の、両肘も突けないほど狭いテーブル席に、学生時代の後輩の宇藤庄司を前にはべらせて、瀬川貴彦がいた。
彼は夕立ちを浴びたようなひどい顔で泥酔していた。鷲鼻に太い眉に細い顎というもともと精悍な顔立ちは今や脂汗にまみれ、今朝丹念に櫛解いたはずの髪は無残に乱れ、目は殺人を犯した直後の人のように血走っていた。なおたちの悪いことに、くだを巻いていた。
「お前! 友香ちゃんといつ結婚するんだよ」
「まだしませんよ」
「え? 早くしてしまえこら。うかうかしてると俺が取っちゃうぞ」
「止めてくださいよ」
「でもなあ。でもなあ宇藤。言っとくが、結婚だけはやめとけ」
「瀬川さん、それもう何回も聞きました」
「うるせえ。宇藤聞け。恋人同士のときが一番だぞ。結婚はなあ。結婚てのは、ひでえもんよ」
説教する貴彦の首は、しゃべりながら時折下がる。「結婚は、はっきり言う。泥棒と一緒だ。奪われるんだよ。結婚するときに奪われ、結婚が失敗したときにも奪われる。二度奪われる。ろくなもんじゃねえ。」
「何を奪われるんですか」
「あ? 何を奪われるんですか? あ、当ててみろ」
「知りませんよ」
「馬鹿野郎。当ててみろ」
「金ですか」
「そんなちんけなもんじゃねえ」
「ちんけですか、金が。そうだなあ。二度奪われる・・・結婚するときと離婚するとき? まさか、童貞とか処女とかじゃないですよね、このご時世に」
「馬鹿野郎」
「あ、わかった。自由とか」
「自由? 離婚すりゃむしろ自由が手に入るじゃねえか」
「未来とか」
「けっ、そんな薄っぺらなもんじゃねえって」
「はあ」
「自由とか未来とか、どーでもいいんだよ。どーでもいいんだそんなもの。自由なもんはもとから自由だし、不自由なもんは不自由なんだよ。未来だ? 未来なんてほっといてもやって来るんだ。ほんとお前は昔から薄っぺらだなあ宇藤」
宇藤庄司はさすがにむっとした表情を隠さない。
「じゃあ何ですか」
「尊厳だ。尊厳だよ」
「はあ」
「はあじゃねえだろ。尊厳だよ。結婚するときも、離婚するときも、人間としての尊厳ってやつを奪われるんよ」
「なるほど」
「なるほどじゃねえよ。わかったようなこと言うな。え? 尊厳を奪われるんだよ。結婚してひもで首つながれるときに奪われる。家畜化されるわけよ。つまり。そんでもって、離婚すれば、もうそうなったら目茶苦茶に、とことん、徹底的に尊厳を奪われる。使えない家畜みたいに扱われるわけだ。病気持ちの豚みたいなもんだ。ハエやアブよりも邪魔者扱いされるわけだよ。とんでもねえ。だから結婚なんて絶対やめとけ」
宇藤は苦笑しながら先輩のお猪口に酒を注ぐ。
「でもそれは離婚したらの話でしょ」
貴彦は両肘を突いて頭をかきむしる。
「ある種の女と結婚したら、絶対離婚する」
「どんな種ですか」
小皿に残る竹輪の揚げ物を、貴彦は、必死に焦点を定めようとする目つきで睨み、爪楊枝で刺した。
「許さない女だ」
「許さない女?」
リンチのように何度も貴彦の爪楊枝に刺される竹輪を、宇藤もぼんやり見つめながら聞き返した。
そこへ韓国人の女将が熱燗を持って現れた。
「セガワサーン、ダイブヨッパラッテルネー」
貴彦は幽霊のお岩のような笑顔を女将に向ける。
「酔っ払えないんだよ」
「ダイジョウブー?」
「大丈夫でしょう、多分」宇藤が貴彦の代わりに、女将の心配に答えて熱燗を受け取った。
☆
壁と天井の境に取り付けられた年代物のテレビが、誰も聞かない六時のニュースを終えた。
カウンターでは何やら共通の話題で全員がつながり、下卑た哄笑が沸き起こった。
「許さない女だ」
貴彦は話の続きに執着する。
「許さない女ですか」
「許さない女だ。結婚してから一度も、どんなことでも俺が勝手にするのを許したことがない。常に何か文句を言わなきゃ気が済まないたちなんだ」
宇藤はキャベツを二三切れ口に放り込み、顔をしかめて咀嚼する。「そうですか」
「例えば、例えばだぞ、俺がこうやって一人で飲みに出ると文句をつける。そもそも俺とあいつは飲み屋で知り合った仲だ。酒の世界、酒の文化ってものを、互いによくわきまえているはずだろ。なのに、なのに、結婚した途端に、不寛容だ。不寛容っても、あれだぞ。おめえ、自分は女友達と平気で深夜まで飲みに行くんだぞ。それなのに俺がお前とか同僚とかと飲み会で出かけると、すごく不機嫌なんだ。男の飲み会はすぐキャバ嬢といちゃいちゃするコースに流れるから嫌だとさ。ふざけんじゃねえよ」
キャバ嬢、という言葉に、カウンター席の女二人組が反応してちらりとテーブル席を振り向いた。
貴彦はしゃっくりとげっぷの混ざったような音を出した。
「それから、金だ。金の管理。俺が稼いだ金なのに、全部巻きあげといて、とにかく渡さねえ。一月の小遣いが五千円って時もあったんだぞ。え? 五千円だぞ。五千円。信じられねえだろ。え? 今どきゃガキの小遣いだってそれより多いぞ。そんときゃいくらなんでも月の半ばにもっと出させたけどよ。やっていけるわけねえだろ、五千円で。泣きたくなるよな。とにかく、とにかくだな、あいつは俺を信用してなかったんだ。全然信用してなかった。いつでも共産主義国のスパイかなんぞみたいに疑り深い目つきで、監視してたんだ」
なみなみ酒の注がれたお猪口を震える手で持ち、口に運んだが、半分かたはテーブルにこぼれた。
苛立ちの音を立ててお猪口を置く。
「俺があいつを裏切ったのは、はっきり言おう。別に言ったって構わねえよ。二度。たった二度だ。一度はあいつが妊娠中に、酔っ払った勢いの出来心だ。これは俺が悪かった。認める。俺はそんとき、最低の男だった。認める。何度も詫びたし、土下座までしたよ。ああ。二度としないって約束した。二度目は、もう離婚することに話し合いで決まってからだ。だからそっちに罪はない。だから、正確に言えば、あいつを裏切ったのはたった一度だ。たった一度。後はキャバクラだろうがテレクラだろうが何にもねえよ。わあわあ言ってるけど、ほんと何にもねえんだ。女は好きだし助平なことも言うけど、俺なりに反省して我慢してきたんだ。たった一度なんだ。畜生。一度。それも酔っぱらってよくわかんなくなってだ。畜生。もちろん一度でも罪は罪だ。ああ。でも、そんとき花瓶投げつけて怒りゃいいわけで、何も、洗濯物を分けて洗うくらい毛嫌いすることはねえだろ?」
「洗濯物を分けて洗うって、どういうことです?」
「おれのパンツと自分の下着を一緒に洗わねえってことだよ」
宇藤はしばらくお品書きを見上げて口をポカンと開けていた。カウンター席に座る何人かが再び貴彦の方に振り向いている。誰かの忍び笑いが聞こえるに及んで、宇藤はようやく視線を自分の学生時代の先輩に戻した。
「ほんとですか」
急激な酔いと眠気に襲われて項垂れていた貴彦は、土気色の顔を起した。
「ほんとって何がだよ」
「洗濯、別々に洗ってたんですか」
「ああ。最後の五年間くらいはな」
「五年間も」
「五年間だ」
「五年間」
「びっくりするだろ」
「びっくりしました」
「そういう女だったんだ。あいつは」
貴彦は両肘を突いたまま乱れた髪に両手を入れ、さらにもみくちゃにした。
「嫌悪感だけで生きてきたんだよ、あいつは。愛情が少しでも残っていたんなら、許せるだろ。でも全く嫌いになったものに対しては、許せるわけねえんだ。あいつは俺をゴキブリの死骸みたいに嫌ってたんだ。ほんとだぞ。ほとんど結婚生活を通じてずっと。あいつは憎しみの塊なんだよ」
宇藤は顔をしかめて貴彦の顔を覗き込んだ。
「先輩、顔色悪いですよ。出ましょう」
貴彦は髪の毛が抜けるほど強く頭をかきむしり始めた。箸が音を立てて転がり落ちていった。
「それなのに」
「先輩」
「それなのにさ」
「先輩、ここを出ましょう。飲み過ぎましたよ」
「それなのに、何で俺はあいつが愛しいんだ? 愛しいんだよ。笑えよ瀬川。笑え。俺は別れたくなかったんだ。あんな毒蜘蛛みたいなやつとでも、結婚生活を続けるよう努力したんだ。努力したんだよ。英明がいたからだ。英明がいたからだよ。英明があんまりにも不憫だろ? こんなことでこんなになってさ、まったく大人の勝手だろ? 久美子なんてどうでもいいんだ。どうでもいいんだあんなやつ。あんなやつどぶ板に足挟んでひっこ抜けなくなって死んじまえばいいんだ。でも英明があんまりにも不憫だろ。」
「先輩」
「うるせえ。お前先に帰れ」
「先輩。そんなに奥さんを」
「うるせえ! 帰れ!」
貴彦は叫び、邪険に宇藤の手を払いのけた。宇藤は弾みで後ろによろめいた。
☆
☆
<つづく>
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水道工事会社のパート事務員である浅田久美子はこの夏、アパートに帰りつくやいなや冷蔵庫を開けて悪態を吐くのが日課になっている。悪態は日によって上司に対してであったり、ふた月前に別れた元夫に対してであったりする。ごく稀ではあるが自己批判のときもある。「あんたいったい何のために生まれてきたのさ」とか。一通り悪態を吐き終わると、発泡酒を一缶取り出して右手に握りしめる。それから汗まみれのひたいに当てる。吊り目を閉じ、唇をへの字に結ぶ・・・。
はっと気がついたように、彼女は缶を手放す。彼女を現実に引き戻したのは、一人息子の英明のピアノ教室である。五時半のレッスン開始まであと三十分。保育園まで迎えに行かなければ。彼女はかぶりを振って缶ビールを冷蔵庫に戻し、代わりに冷水出しのウーロン茶の入った二リットルガラスポットを取り出してグラスに注ぐ。そして世の中を罵る言葉を吐きながらぐっとウーロン茶を飲み干すのである。
グラス二杯を立て続けに空けて、冷蔵庫を睨みつけていたら、おもちゃ箱をひっくり返したような音楽が鳴り響いた。携帯電話の着信音である。深い井戸でも見下ろすような目つきで、ナンバーディスプレイを見つめる。グラスに三杯めのウーロン茶を注ぎ、ゆっくりと半分まで喉に流す。長い溜息をつき、自分の親にも見せたことのないような盛大なげっぷを添えたあと、久美子はようやく携帯電話を取り上げた。
「すっごくおひさ。元気?」
ところで浅田久美子に電話したのは、本島里子である。
私立大学の非常勤司書を去年お払い箱になり、現在24時間営業のスーパーマーケットで朝八時から夕方三時までレジ係をしている彼女は、親友の久美子より帰宅が二時間ほど早い。帰宅すると、誰もいないのに「ただいま」とつぶやく。鍵を鍵掛けにかけるように、そっとつぶやくのである。一人暮らしの八畳1DKは、いつも小ざっぱりとしている。玄関で靴を揃えた後、ベランダに直行し、ジョロにたっぷり二杯分の水を、朝顔やハーブやミニトマト、職場で貰ってきた枯れかけた観葉植物、山歩きをして偶然見つけた名前も知らない植物などに順番に遣る。ゆっくり、撫で回すように水をかける。それから窓辺に腰を下ろし、眼鏡を外す。赤い縁の眼鏡。強度の乱視である里子には、眼鏡がなければ世界は手ぶれを起こした写真のようにしか見えないのだが、何も見えないことを彼女は密かに楽しむのである。 もう少し背が高くて、もう少し目もとがぱっちりしてればね、と彼女を産んだ母親に言われたことがある。そんなところね、と当時小学五年生だった彼女は答えた。
瞑想するように、窓辺でじっとしている姿は、長いときには小一時間に及ぶ。
普段はそれから立ち上がって夕食の準備に取り掛かる。ところが今日は、両手で顔を覆って泣き始めた。涙が、痩せた指の隙間から、植木鉢に注がれることもなく幾筋も落ちた。
表通りの歩行者用信号のメロディが、かすかに聞こえてくる。公園では子どもが何やら言い合いをしている。車のクラクション。西日が一段と低くなる。
ようやく泣き止むと、立ち上がって台所に行き、凄まじい音を立てて洟をかんだ。眼鏡を掛け直し、ちゃぶ台の前に体育座りをして携帯電話を取り上げる。しばらく手に握りしめていたが、諦めたように電話をちゃぶ台に戻す。再び手に取り、また戻す。それからやっぱり取り上げ、涙で濡れた親指を震わせながらボタンを押す。携帯電話を耳に押し付けると、本島里子は、虚ろな目を窓辺に向け、音も立てずに吊り下がっている色あせた風鈴を見つめた。
「すっごくおひさ。元気?」
「ごめんなさい」
蚊の鳴くようなその声で、浅田久美子は、肺の空気を全部抜きとるほどに長い鼻息をついた。
「何で謝るのさ」
「だって」
「何で謝るのさ」
「ごめん」
「もうとっくに時効だよ」
電話の向こうは泣き声を上げた。久美子はひたいに手を当てた。
「ねえサト、サト。時効という言葉が悪かった。悪かったわ。あたしが謝る。だってサトは何にも悪いことしてないんだもの。そうでしょ? ねえ。言ったじゃない。あたし何にも気にしてないって。あのね、サト。あんたに罪はないの。あんたがやったことは、罪じゃないし、女として普通のことなの。とっても普通。女だったらさ、何て言うか、愛し合うことに関しちゃ、誰に遠慮もいらないでしょ? 」
泣き声が大きくなった。久美子は憤慨して冷蔵庫を睨みながら声を張り上げた。
「ねえ。ねえサト。いい加減にしな。こら。ちょっと。あたしの話聞いてる? あたしは自分で言うのもなんだけど、ほんとさっぱりした性格なのよ。全然根にもってないし。とにかく、これで繰り返し言うのはかれこれ八度目くらいだろうけど、いい? あれは、あたしたちの関係が終わってから、あれがあったのよ。あんたと貴彦のことがあったのは、あたしと貴彦が決裂したあと。あたしたちの関係は、そんときはもうきっぱりさっぱり終わってたの。終わってたの。わかる? 離婚届けに署名こそまだしてなかったけど。でももう、明日あさってには市役所に行こうって話になってたの」
「でも」
「とにかくサトに責任はないの。ないの。ナッシング。そのとき貴彦と何しようが、離婚の前提が揺らぐ可能性はなかったし。むしろおかげでスムーズに行ったくらいよ。いいきっかけって感じ。ねえ、だから泣かないでよ」
「私、クミと貴彦君に離婚してほしくなかったから、説得しに行ったのに」
「そうね。そうよ。サトこそお気の毒よ。腹いせにもてあそばれたみたいな感じでさ。あんた強姦されたのよ、貴彦に。被害者よ。あいつほんとにずうずうしいからね。信じがたい奴だからね。新聞の料金を徴収しにきた女だって口説き落とそうって思うんだから。獣が服着てたようなもんよ。あたしたちがジ・エンドを迎えることは、四年も前にはすでに、四年後のオリンピック開催国みたいにばっちり決まってたの。結局、早かれ遅かれだったのよ。サトとのことがいいきっかけ。あんときにゃもうオリンピック開会式一週間前のリハーサル状態。そりゃあさ」
気がつけば久美子は、しゃべりながらテーブルに点いた焦げ跡を爪でこそげ落とそうとしていた。はっと指を引っ込め、爪についた汚れを点検する。
「そりゃあ、まあ、サトのおかげでさ、最終的には一日から三日分くらいスムーズに事が運んだかも知れない。かも知れないけど、けど、その分あたしのストレスが三日分軽減されたわけよ。そう。ストレスから来るいろんな、胃潰瘍やら自律神経失調症やら肝硬変やらを回避することができたんだから。感謝したいくらいよ、ほんとに」
「肝硬変はアルコールでしょ」
「ストレスで飲み過ぎるんだから同じよ」
里子は初めて笑い声を洩らした。その声を聞き、久美子も口を開けて短く笑った。
風鈴が音を立てる。赤い眼鏡の里子は少しだけ安心したような表情をして、座布団の上で両脚を伸ばした。携帯電話を耳に当てたまま前屈のような真似をする。ほとんど骨と皮だけの脛である。衣装箪笥の上に乗る金魚鉢で、出目金が跳ねた。
久美子は凝りをほぐすように首をひねり、顔をしかめた。足で冷蔵庫を開けて缶ビールを再び取り出す。右手で缶を転がしながら壁時計を見上げる。鼻息をついて缶をまた冷蔵庫に仕舞う。足で冷蔵庫のドアを閉める。
二人の女はそれぞれ、次の相手の声を待って携帯電話を強く耳に押し当てた。
里子のアパートの隣は小さな公園である。すずかけの木にやってきた鳥の鳴き声を、里子は目を閉じて聞いた。
「この一か月、ずっと死にたいと思ってたよ」
里子のこの告白に対し、彼女の親友はしばし、仏像のように沈黙した。「そう」右足のかかとを手のひらで擦りながら、彼女は言葉を付け足した。「じゃあ、これからは生きたいと思って過ごしな」
「うん。そうする。ねえ、クミ」
「何?」久美子は時計を見上げた。「そろそろ英明を迎えに行かなくちゃいけないんだけど」
「あ、ごめん。じゃあまたにする」
「いいよ。ちょっとだったら。何さ」
「うん、またにするよ。またでいいから」
「言いかけて止めるなよ。気持ち悪いじゃんか。何さ」
「うん」
ちゃぶ台の上に乗っているペン立てを、里子は無意識に引き寄せた。鉛筆やらボールペンやら蛍光ペンやら筆ペンやら色鉛筆やらが、これ以上新規のペンは受け付けないぞとばかりにぎゅうぎゅうにおし込められている。里子はそのどれを抜き取るわけでもなく、自分のひたいをペンの束に押し当てた。それからペン立てを元に戻し、携帯電話に頬を寄せた。
「クミ」
「お?」
久美子は空いた手で手鏡を出して鼻毛の有無を点検していた。「何さ」
「クミ、貴彦君のこと嫌いなの」
北風が吹きつけるような豪快な音が里子の耳に届いた。久美子のため息である。
「好きだったら離婚してないわよ」
「そうかな」
「何だよ。あんたはまだ未練があんの」
「そんなこと」誰にも見られていないのに、里子は懸命にかぶりを振った。「私は本当に、あの日のことがなかったらって思うよ」
「まあとにかくろくな男じゃないよ。調停に来た女友達を手ごめにするんだから」
「クミ」
「笑ってるの? 泣いているの?」
「笑ってるんだよ。クミ。クミ。クミ。相変わらず口が悪いなあって」
久美子の耳には、しかし、嗚咽のような音が届いた。
「クミ。でもね」と里子は鼻を啜りながら続けた。
「でも、貴彦君、クミのこと話しながら大泣きしたんだよ」
「あ、そう」
「あそう、じゃないでしょ」
「最低だね」
「何それ、クミ。クミ、どうしてそういうこと言うの」
「トイレに行きたいだけだよ」
「もう。クミ」
「下世話だけど、ほんと行きたいんだよ。ウーロン飲んだからさ。そいで、もううちのこぶを迎えに行かなきゃいけないからさ」
「そんな言い方やめて、クミ」
「いやほんとに、ピンチなんだ。英明のピアノがあるから、急いで保育園まで迎えに行かなくちゃいけないの。その前にトイレ、トイレ。やばいよ。サトが今ここに居てあたしの青ざめた顔見たら、納得してくれるわよ。ごめん。とりあえず今日はここまで」
「うん。わかった。ごめんね、クミ」
「こっちこそ。また、またね」
「うん。クミ?」
「どうした?」
「ありがとう」
「どういたしまして。アディオス」
「うん」
本島里子は携帯電話を親指で切った。浅田久美子もその音を確認してから、親指を動かした。
二人の女性の間に、町二つ分の距離が戻る。
薄暗いダイニングルームは冷蔵庫の音しかしない。浅田久美子は椅子の背もたれに体重をかけながら黙然としていたが、不意に身体を起こし、食卓を手のひらで思い切り叩いた。それから痛そうに手を振り、立ち上がった。
「裏切り者」
急いで鍵を持ち、バッグを肩に掛けながらも、彼女は独り言を止めない。
「死にたいなら死んじゃえ。え? 死んじゃえどいつもこいつも。糞ったれが」
風鈴が狂ったように鳴り始めた。夕刻の風がベランダに差し込んできたのであろう。本島里子はいまだちゃぶ台の前に座り込んだまま、両手で握り絞めた携帯電話に見入っている。ディスプレイに映る写真が次々と変わる。雪山が映る。久美子の特大の顔とVサインが映る(見ている里子は小さく笑った)。写真の久美子は、今よりも痩せていて若い。久美子のVサインが三回続けて映る。それから、帽子の位置を直しながら、カメラマンに要求されて眼だけこちらに向けた瀬川貴彦の全身像が映る。久美子のVサインがまた映る。里子自身が映る。やはり今より若いが、妙に緊張している。脇に抱えるボードの重みに戸惑っているようにも見える(自分の写真を見つめる里子の目は冷ややかである)。写真はさらに替っていく。リフトに乗ってチョコポッキーを口にくわえた久美子の横顔。手ぶれをおこして何が映っているのかわからない画像。山の上から眺め下ろす雄大な冬景色。最後に、三人がそれぞれのボードを抱え、並んで立っている写真。三人とも命令されたように突っ立っているだけである。左から瀬川貴彦、それにくっつくようにして浅田久美子、少しだけ離れて本島里子。
宵闇が部屋の中に急速に広がりつつあった。画像は何度か自動的に消えたが、その都度里子はボタンを押して三人の写真を復活させた。視線を落とし、うつむく。しばらくそのまま項垂れていたかと思うと、顔を上げ、親指を動かし、帽子の位置を直す瀬川貴彦の写真のところまで戻った。
携帯電話を鼻にくっ付きそうなほど近づけて見入る。ディスプレイの明かりが、赤い眼鏡をかけた里子の顔を照らす。口をへの字につぐんで眉根を寄せる彼女の頬に、また涙が細い筋となって伝った。
とにかく狭い居酒屋であった。酒がどこでこぼれようが床に落ちた割りばしを誰が踏みしめようがそれどころではなかった。カウンター五席と二人掛けテーブル一台はすべて酢漬けにしたような酔っ払いたちで埋まっていた。酒のにおいに正体のわからない饐えたにおいが混ざり、耳鳴りがするほどの喧騒が店内を満たしていた。そうそう、奥のトイレに行く途中に三畳ほどの座敷もあるにはあったのだが、すでに二人の酔いつぶれた男共で占領されていた。客の構成は以下の通りである。商店街の暗い先行きと明るい夢物語について気炎を上げる、地元商工会の若手グループが五人(そのうち二人が座敷で寝ているので、現在はカウンターに三人)。入口付近の残り二つのカウンター席では、水商売風の女二人組が煙草をふかしながらけらけら笑い転げている。そして壁際の、両肘も突けないほど狭いテーブル席に、学生時代の後輩の宇藤庄司を前にはべらせて、瀬川貴彦がいた。
彼は夕立ちを浴びたようなひどい顔で泥酔していた。鷲鼻に太い眉に細い顎というもともと精悍な顔立ちは今や脂汗にまみれ、今朝丹念に櫛解いたはずの髪は無残に乱れ、目は殺人を犯した直後の人のように血走っていた。なおたちの悪いことに、くだを巻いていた。
「お前! 友香ちゃんといつ結婚するんだよ」
「まだしませんよ」
「え? 早くしてしまえこら。うかうかしてると俺が取っちゃうぞ」
「止めてくださいよ」
「でもなあ。でもなあ宇藤。言っとくが、結婚だけはやめとけ」
「瀬川さん、それもう何回も聞きました」
「うるせえ。宇藤聞け。恋人同士のときが一番だぞ。結婚はなあ。結婚てのは、ひでえもんよ」
説教する貴彦の首は、しゃべりながら時折下がる。「結婚は、はっきり言う。泥棒と一緒だ。奪われるんだよ。結婚するときに奪われ、結婚が失敗したときにも奪われる。二度奪われる。ろくなもんじゃねえ。」
「何を奪われるんですか」
「あ? 何を奪われるんですか? あ、当ててみろ」
「知りませんよ」
「馬鹿野郎。当ててみろ」
「金ですか」
「そんなちんけなもんじゃねえ」
「ちんけですか、金が。そうだなあ。二度奪われる・・・結婚するときと離婚するとき? まさか、童貞とか処女とかじゃないですよね、このご時世に」
「馬鹿野郎」
「あ、わかった。自由とか」
「自由? 離婚すりゃむしろ自由が手に入るじゃねえか」
「未来とか」
「けっ、そんな薄っぺらなもんじゃねえって」
「はあ」
「自由とか未来とか、どーでもいいんだよ。どーでもいいんだそんなもの。自由なもんはもとから自由だし、不自由なもんは不自由なんだよ。未来だ? 未来なんてほっといてもやって来るんだ。ほんとお前は昔から薄っぺらだなあ宇藤」
宇藤庄司はさすがにむっとした表情を隠さない。
「じゃあ何ですか」
「尊厳だ。尊厳だよ」
「はあ」
「はあじゃねえだろ。尊厳だよ。結婚するときも、離婚するときも、人間としての尊厳ってやつを奪われるんよ」
「なるほど」
「なるほどじゃねえよ。わかったようなこと言うな。え? 尊厳を奪われるんだよ。結婚してひもで首つながれるときに奪われる。家畜化されるわけよ。つまり。そんでもって、離婚すれば、もうそうなったら目茶苦茶に、とことん、徹底的に尊厳を奪われる。使えない家畜みたいに扱われるわけだ。病気持ちの豚みたいなもんだ。ハエやアブよりも邪魔者扱いされるわけだよ。とんでもねえ。だから結婚なんて絶対やめとけ」
宇藤は苦笑しながら先輩のお猪口に酒を注ぐ。
「でもそれは離婚したらの話でしょ」
貴彦は両肘を突いて頭をかきむしる。
「ある種の女と結婚したら、絶対離婚する」
「どんな種ですか」
小皿に残る竹輪の揚げ物を、貴彦は、必死に焦点を定めようとする目つきで睨み、爪楊枝で刺した。
「許さない女だ」
「許さない女?」
リンチのように何度も貴彦の爪楊枝に刺される竹輪を、宇藤もぼんやり見つめながら聞き返した。
そこへ韓国人の女将が熱燗を持って現れた。
「セガワサーン、ダイブヨッパラッテルネー」
貴彦は幽霊のお岩のような笑顔を女将に向ける。
「酔っ払えないんだよ」
「ダイジョウブー?」
「大丈夫でしょう、多分」宇藤が貴彦の代わりに、女将の心配に答えて熱燗を受け取った。
壁と天井の境に取り付けられた年代物のテレビが、誰も聞かない六時のニュースを終えた。
カウンターでは何やら共通の話題で全員がつながり、下卑た哄笑が沸き起こった。
「許さない女だ」
貴彦は話の続きに執着する。
「許さない女ですか」
「許さない女だ。結婚してから一度も、どんなことでも俺が勝手にするのを許したことがない。常に何か文句を言わなきゃ気が済まないたちなんだ」
宇藤はキャベツを二三切れ口に放り込み、顔をしかめて咀嚼する。「そうですか」
「例えば、例えばだぞ、俺がこうやって一人で飲みに出ると文句をつける。そもそも俺とあいつは飲み屋で知り合った仲だ。酒の世界、酒の文化ってものを、互いによくわきまえているはずだろ。なのに、なのに、結婚した途端に、不寛容だ。不寛容っても、あれだぞ。おめえ、自分は女友達と平気で深夜まで飲みに行くんだぞ。それなのに俺がお前とか同僚とかと飲み会で出かけると、すごく不機嫌なんだ。男の飲み会はすぐキャバ嬢といちゃいちゃするコースに流れるから嫌だとさ。ふざけんじゃねえよ」
キャバ嬢、という言葉に、カウンター席の女二人組が反応してちらりとテーブル席を振り向いた。
貴彦はしゃっくりとげっぷの混ざったような音を出した。
「それから、金だ。金の管理。俺が稼いだ金なのに、全部巻きあげといて、とにかく渡さねえ。一月の小遣いが五千円って時もあったんだぞ。え? 五千円だぞ。五千円。信じられねえだろ。え? 今どきゃガキの小遣いだってそれより多いぞ。そんときゃいくらなんでも月の半ばにもっと出させたけどよ。やっていけるわけねえだろ、五千円で。泣きたくなるよな。とにかく、とにかくだな、あいつは俺を信用してなかったんだ。全然信用してなかった。いつでも共産主義国のスパイかなんぞみたいに疑り深い目つきで、監視してたんだ」
なみなみ酒の注がれたお猪口を震える手で持ち、口に運んだが、半分かたはテーブルにこぼれた。
苛立ちの音を立ててお猪口を置く。
「俺があいつを裏切ったのは、はっきり言おう。別に言ったって構わねえよ。二度。たった二度だ。一度はあいつが妊娠中に、酔っ払った勢いの出来心だ。これは俺が悪かった。認める。俺はそんとき、最低の男だった。認める。何度も詫びたし、土下座までしたよ。ああ。二度としないって約束した。二度目は、もう離婚することに話し合いで決まってからだ。だからそっちに罪はない。だから、正確に言えば、あいつを裏切ったのはたった一度だ。たった一度。後はキャバクラだろうがテレクラだろうが何にもねえよ。わあわあ言ってるけど、ほんと何にもねえんだ。女は好きだし助平なことも言うけど、俺なりに反省して我慢してきたんだ。たった一度なんだ。畜生。一度。それも酔っぱらってよくわかんなくなってだ。畜生。もちろん一度でも罪は罪だ。ああ。でも、そんとき花瓶投げつけて怒りゃいいわけで、何も、洗濯物を分けて洗うくらい毛嫌いすることはねえだろ?」
「洗濯物を分けて洗うって、どういうことです?」
「おれのパンツと自分の下着を一緒に洗わねえってことだよ」
宇藤はしばらくお品書きを見上げて口をポカンと開けていた。カウンター席に座る何人かが再び貴彦の方に振り向いている。誰かの忍び笑いが聞こえるに及んで、宇藤はようやく視線を自分の学生時代の先輩に戻した。
「ほんとですか」
急激な酔いと眠気に襲われて項垂れていた貴彦は、土気色の顔を起した。
「ほんとって何がだよ」
「洗濯、別々に洗ってたんですか」
「ああ。最後の五年間くらいはな」
「五年間も」
「五年間だ」
「五年間」
「びっくりするだろ」
「びっくりしました」
「そういう女だったんだ。あいつは」
貴彦は両肘を突いたまま乱れた髪に両手を入れ、さらにもみくちゃにした。
「嫌悪感だけで生きてきたんだよ、あいつは。愛情が少しでも残っていたんなら、許せるだろ。でも全く嫌いになったものに対しては、許せるわけねえんだ。あいつは俺をゴキブリの死骸みたいに嫌ってたんだ。ほんとだぞ。ほとんど結婚生活を通じてずっと。あいつは憎しみの塊なんだよ」
宇藤は顔をしかめて貴彦の顔を覗き込んだ。
「先輩、顔色悪いですよ。出ましょう」
貴彦は髪の毛が抜けるほど強く頭をかきむしり始めた。箸が音を立てて転がり落ちていった。
「それなのに」
「先輩」
「それなのにさ」
「先輩、ここを出ましょう。飲み過ぎましたよ」
「それなのに、何で俺はあいつが愛しいんだ? 愛しいんだよ。笑えよ瀬川。笑え。俺は別れたくなかったんだ。あんな毒蜘蛛みたいなやつとでも、結婚生活を続けるよう努力したんだ。努力したんだよ。英明がいたからだ。英明がいたからだよ。英明があんまりにも不憫だろ? こんなことでこんなになってさ、まったく大人の勝手だろ? 久美子なんてどうでもいいんだ。どうでもいいんだあんなやつ。あんなやつどぶ板に足挟んでひっこ抜けなくなって死んじまえばいいんだ。でも英明があんまりにも不憫だろ。」
「先輩」
「うるせえ。お前先に帰れ」
「先輩。そんなに奥さんを」
「うるせえ! 帰れ!」
貴彦は叫び、邪険に宇藤の手を払いのけた。宇藤は弾みで後ろによろめいた。
<つづく>
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