後年コアラの絵を見たときに、ああ、これが彼女の目だ、と思った。彼女は草食動物のような黒目がちの目をしていたのだ。可愛い目をしばたたかせて、丸いあごに手を当て、ううん、と考え込みながら話すのが、何とも好印象だった。私との会話を大事にしてくれている、と私は一人合点した。実際には、いついかなるときでも、いかなる相手に対しても、彼女は「ううん」と考え込みながら話していたのだが。性急な人をじらす子であった。はっきりとものを言わないので、勘ぐりの強い人には不正直だと思われた。私はしかし、言葉を選びながら宙を見つめる漆黒の瞳の奥にあるものを、信用した。
「誰かを好きになるだけじゃ、ううん、どうかな、幸せにはなれないと思いますよ」
私は苦笑いしながらコーヒーに口をつけた。内心少し傷ついたのだ。誰かを好きになる人は幸せだ、と私が言った直後のことだった。
「それは幸せの観点が違うよ」と私は言い返した。「幸せの観点が違う。いや、ぼくの言っているのはだね・・・ぼくの言いたいのは、誰も好きになれないよりは、誰かを好きになった方が、人生は面白い、と、この、面白い、という意味で、幸せだと言ったんだよ。うん。もちろん、一方的に好きになるだけじゃ幸せはつかめないさ」
「ううん」
彼女はコアラの黒目を左だけ少しゆがめた。花園に吹くほんのかすかなそよ風のようで、私は彼女の悩める表情を見るのがとても好きだった。
「どうなんでしょう。そういう意味でもないんだけど」
「そういう意味じゃないって?」
「いえ、その・・・・。幸せになるには、好きになる、ってだけじゃ足らないような気がするんです」
「ほう」
私は大袈裟に相槌を打った。「足らないって、何が?」
「ううん。わかんないです」
さらにしばらく考え込んでから、彼女は思考を諦めたように顔を上げて、私に向かって微笑んだ。「□□さんは、誰も女の人を好きになれないんですか」
いや、ちがう。そう答えようとして、私はとっさの言葉に逡巡した。私は沈黙した。彼女に感染されたように、うーん、と唸って頭を抱えた。
そのとき私は気づいたのだ。まったく偶然に。私は誰も好きになれないのではなく、現にそのとき目の前にいた彼女に強く心を惹かれていたにも関わらず、私は、まるで心すさんだ殺人鬼のように、好き、という言葉を心の辞書から失っていたのだと。私はいつの頃からか、好きなものを好きであると言えない人間になっていたのだと。言えないのではなく、言わない人間になっていたのだと。私は、誰かを好きであると言えるための努力すら怠ってしまっていたのだと。彼女がそういう意味ではない、と言っていたことも、おそらくこういう意味のことなんだろう、と。
私は有袋類のつぶらな瞳が注ぎかける好奇の視線を前にして、苦笑いしながら戸惑うばかりであった。
あれから三年が経った。彼女は職場が変わり遠くに行ってしまった。彼女の黒い瞳を見返しながら気づいた自分なりの結論は、不幸にも、いまだ変わらずにある。
「誰かを好きになるだけじゃ、ううん、どうかな、幸せにはなれないと思いますよ」
私は苦笑いしながらコーヒーに口をつけた。内心少し傷ついたのだ。誰かを好きになる人は幸せだ、と私が言った直後のことだった。
「それは幸せの観点が違うよ」と私は言い返した。「幸せの観点が違う。いや、ぼくの言っているのはだね・・・ぼくの言いたいのは、誰も好きになれないよりは、誰かを好きになった方が、人生は面白い、と、この、面白い、という意味で、幸せだと言ったんだよ。うん。もちろん、一方的に好きになるだけじゃ幸せはつかめないさ」
「ううん」
彼女はコアラの黒目を左だけ少しゆがめた。花園に吹くほんのかすかなそよ風のようで、私は彼女の悩める表情を見るのがとても好きだった。
「どうなんでしょう。そういう意味でもないんだけど」
「そういう意味じゃないって?」
「いえ、その・・・・。幸せになるには、好きになる、ってだけじゃ足らないような気がするんです」
「ほう」
私は大袈裟に相槌を打った。「足らないって、何が?」
「ううん。わかんないです」
さらにしばらく考え込んでから、彼女は思考を諦めたように顔を上げて、私に向かって微笑んだ。「□□さんは、誰も女の人を好きになれないんですか」
いや、ちがう。そう答えようとして、私はとっさの言葉に逡巡した。私は沈黙した。彼女に感染されたように、うーん、と唸って頭を抱えた。
そのとき私は気づいたのだ。まったく偶然に。私は誰も好きになれないのではなく、現にそのとき目の前にいた彼女に強く心を惹かれていたにも関わらず、私は、まるで心すさんだ殺人鬼のように、好き、という言葉を心の辞書から失っていたのだと。私はいつの頃からか、好きなものを好きであると言えない人間になっていたのだと。言えないのではなく、言わない人間になっていたのだと。私は、誰かを好きであると言えるための努力すら怠ってしまっていたのだと。彼女がそういう意味ではない、と言っていたことも、おそらくこういう意味のことなんだろう、と。
私は有袋類のつぶらな瞳が注ぎかける好奇の視線を前にして、苦笑いしながら戸惑うばかりであった。
あれから三年が経った。彼女は職場が変わり遠くに行ってしまった。彼女の黒い瞳を見返しながら気づいた自分なりの結論は、不幸にも、いまだ変わらずにある。
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