彼女は小屋に近づき、入口の布をめくり上げた。
暗い。
とたんに彼女は鼻を押さえた。肉の腐ったような異臭。きゃっ、という叫び声を上げて、慌てて布を下ろした。ヒロコは、自分が見たものが信じられなかった。薄暗く狭い内部には、恐ろしくやせ細り、ほとんど骨と皮だけになった人間の、座禅を組む姿があった。数匹の蠅が周りにたかっていた。ミイラなのか、生きているのか判別できなかった。ただ眼が、ギラギラと光っていた気がした。してみると生きていたのか。
すぐにこの場から逃げたかったが、同時に、もう一度見たいという強い欲求に突き動かされた。なぜそんな気になるのか、ヒロコ自身全くわからなかった。
口と鼻を押さえ、彼女は震える手で布をもう一度めくり上げた。
飛び出してきた蠅が頬にぶつかり、気持ち悪さで腰が抜けた。それでも彼女は布を持ち上げたまま、薄暗がりの中を正視した。
男はやはり、生きていた。
あばら骨が浮き出、腹はえぐられたように凹み、顔は表情を作りようがないほどにやつれている。一突きすれば、ガラガラと崩れ落ちそうな体である。それでも、男の目には意志が宿っていた。
『燃やす女か』
耳に聞こえたのではない。心に聴こえた声であった。
『人を燃やす女か。お前がそうなのか。名はなんと言う』
やはり心に聴こえる。男の口も喉も動いていない。彼は意志の力で語りかけているのだ。
ヒロコの驚きは尋常ではなかった。心に響くその声なき声は、たとえるなら、水の中で鐘を鳴らされたような感覚であった。びりびりと神経の揺さぶられる声であった。
ヒロコは思わず後退りした。
『怖がることはない。もはや、喉を使ってしゃべる体力すら残ってないのだ。精神と精神で会話することならお前にもできる。聞こえるように語りかければよい』
『───私は、ヒロコ』
『ヒロコか。なるほど。相応しい名だ』
『あなたは、誰』
『私か。私は予言者と呼ばれていた。他の名は、ずっと昔に失った』
『予言者?』
ヒロコは耳を疑った。彼が特殊能力者であることは間違いない。しかし予言する能力の存在など、AUSP内でも聞いたことがなかった。
『未来のことが、わかるの』
表情のない顔が、少しだけ笑った気がした。
『正確に言えば、未来を意志するのだ』
『意志する?』
『こうなって欲しい、と思うように、未来がなる』
あまりに荒唐無稽な話である。ヒロコは眉をしかめた。
『じゃあ、あなたは未来を変えられるの?』
『そうではない。未来のあり方に、私の意志が従うのだ』
わけがわかんない、とヒロコは思った。<何なのこの人? ペテン師? それとも、餓死しかけて気でも狂ったのかしら?>
『どうして、あなたは、私のことを知ってるの』
『お前の出現を期待した。人を燃やす力を持つお前の出現を。そして、ここを通りかかることを望んだ。お前に会いたい、と願った。その通りになっただけだ』
『どういうこと? あなたは、私の出現を期待したの?』
答えはない。
『暗いな』
そうつぶやくと、彼は小屋の中をほんのりと明るくした。もちろん、蝋燭も電燈も使わない。彼自身は彫像のように微動だにしないままである。入口に立つヒロコは逡巡した。どこまでこの男の言うことを信じればいいのか。だがもし、もし本当に、この男に未来がわかるなら・・・。
『ユウスケ君は。ユウスケ君は無事ですか』
それは彼女にとって、最も気がかりな質問であった。
(つづく)
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