藤岡は不届きにも、志穂の両脇を抱えた。引き摺ってでも連れ去ろうという算段である。彼女の両脇を抱えるなど、誠に不届き千万である。
「離してください。嫌っ!」
「失礼ね」
氷に閉ざされた海のように重く冷たい美咲の声が、彼らの動きを止めた。痩せた手を固く握り絞めている。興奮を必死で堪えているのだ。
「あなたは、あなたは何もわかってない。あなたは何一つわかってないわ。死んだらいいと。ええ。死んだらいいって、私も、いつか思ったことがあるかも知れない。でも、死んだらいいと、心の中で思うのと、実際に死なれるのとは、全然、全然違う問題なのよ。どんなに嫌っていても、やっぱり自分の片割れなのよ、夫というものは。死なれるってことは、失うことなの。失うことなのよ。苦しいの。ちょっと驚くぐらい苦しいの。そう。夜寝る時も、朝目覚めるときも、何をしてても、何もしていなくても。好きだったとか嫌いだったとか関係なくて、愛していたとか憎んでいたとか、そんなことまったく関係なくて、どうしようもなく苦しいの。自分がまるで、半分死んだ気持ちになるの。それが夫婦というものなのよ」
砂利の音。
「私の母は、死んで苦しむ人もいませんでした」
「あなたのお母さん? 生きているとき、すでに私を苦しめたじゃない」
それに対する志穂の返事は、言葉にならなかった。ほとんど叫び声であった。藤岡が強引に引き摺っていったせいでもある。対話は崩壊した。志穂と藤岡の二人は泥地を転がるようにして門の向こうに消えた。
志穂が激昂するのも当然である。美咲の夫婦論は良しとしよう。それには不覚に私も涙しかけた。しかし最後の台詞はどうだ。あまりにひどい。雪音が生前お前を苦しめていただと? どういうことだ。どういうことだ美咲。我々の不倫が、お前には明々白々だったということか。お前は、一体、いつから雪音の存在を、私の背後に嗅ぎとっていたのだ。
門の向こうで、タクシーのドアが激しく閉まる。
美咲と大仁田は寒さに震えながらその音を聞いている。
タクシーがゆっくりと門前に姿を現した。後部座席の窓が開く。「待って、運転手さん、止めて」「やめなさい、こら、運転手行ってくれ!」車内はもみくちゃである。両手で押さえつけようとする藤岡に抵抗して暴れ回りながら、志穂が車窓から顔を見せた。髪の毛が無残に乱れている。
不倫し、別れ、頓死した母親の遺した娘は、刺すように玄関を睨んだ。
睨む先には、夫に裏切られ、先立たれた妻たる女が、体を固くして立つ。
不意に志穂が笑ったように私には思えた。泣きそうになったのかも知れない。
「裁かれるのは、私だけじゃないわ」
日は完全に没した。タクシーが去り際に起こした風で、残った者はそうと知らされた。
(夏休みをはさんで、いつかまたつづきます)
「離してください。嫌っ!」
「失礼ね」
氷に閉ざされた海のように重く冷たい美咲の声が、彼らの動きを止めた。痩せた手を固く握り絞めている。興奮を必死で堪えているのだ。
「あなたは、あなたは何もわかってない。あなたは何一つわかってないわ。死んだらいいと。ええ。死んだらいいって、私も、いつか思ったことがあるかも知れない。でも、死んだらいいと、心の中で思うのと、実際に死なれるのとは、全然、全然違う問題なのよ。どんなに嫌っていても、やっぱり自分の片割れなのよ、夫というものは。死なれるってことは、失うことなの。失うことなのよ。苦しいの。ちょっと驚くぐらい苦しいの。そう。夜寝る時も、朝目覚めるときも、何をしてても、何もしていなくても。好きだったとか嫌いだったとか関係なくて、愛していたとか憎んでいたとか、そんなことまったく関係なくて、どうしようもなく苦しいの。自分がまるで、半分死んだ気持ちになるの。それが夫婦というものなのよ」
砂利の音。
「私の母は、死んで苦しむ人もいませんでした」
「あなたのお母さん? 生きているとき、すでに私を苦しめたじゃない」
それに対する志穂の返事は、言葉にならなかった。ほとんど叫び声であった。藤岡が強引に引き摺っていったせいでもある。対話は崩壊した。志穂と藤岡の二人は泥地を転がるようにして門の向こうに消えた。
志穂が激昂するのも当然である。美咲の夫婦論は良しとしよう。それには不覚に私も涙しかけた。しかし最後の台詞はどうだ。あまりにひどい。雪音が生前お前を苦しめていただと? どういうことだ。どういうことだ美咲。我々の不倫が、お前には明々白々だったということか。お前は、一体、いつから雪音の存在を、私の背後に嗅ぎとっていたのだ。
門の向こうで、タクシーのドアが激しく閉まる。
美咲と大仁田は寒さに震えながらその音を聞いている。
タクシーがゆっくりと門前に姿を現した。後部座席の窓が開く。「待って、運転手さん、止めて」「やめなさい、こら、運転手行ってくれ!」車内はもみくちゃである。両手で押さえつけようとする藤岡に抵抗して暴れ回りながら、志穂が車窓から顔を見せた。髪の毛が無残に乱れている。
不倫し、別れ、頓死した母親の遺した娘は、刺すように玄関を睨んだ。
睨む先には、夫に裏切られ、先立たれた妻たる女が、体を固くして立つ。
不意に志穂が笑ったように私には思えた。泣きそうになったのかも知れない。
「裁かれるのは、私だけじゃないわ」
日は完全に没した。タクシーが去り際に起こした風で、残った者はそうと知らされた。
(夏休みをはさんで、いつかまたつづきます)
夏休みなんていわないで、
時々で結構ですので、
更新して下さいな。
だから
時々で結構ですので、
これからも見守ってくださいな。