た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

無計画な死をめぐる冒険 98

2007年06月15日 | 連続物語
 私は額に汗していたと思う。一歩、砂音を立てて歩み寄った。
 「雪音。悪かった。思わず手が出てしまった。────動転していた。私自身。ぶつ気なんてなかったんだ」
 潮のにおいが鼻を突く。日本海は実際、臭いところである。
 「雪音。車の中に戻ろう。取り敢えずだ、車に戻りなさい。子供が見ている」
 雪音の反応は鈍い。催眠にかかったような目つきで、呆然として首を横に振る。
 「やっぱり間違っていたのよ」
 魂の抜けた声。「私たち、今に天罰が下るわ」
 「馬鹿を言うな」私は苛々して彼女の左腕を掴んだ。「車に戻るんだ」
 この御時世にいまだ天罰云々を口にする者も稀有である。しかも底抜けに人が良い。強姦もどきの真似をされても、天罰が下るのは「私たち」であって「あなた」ではない。そこまで善良な女なのだ、雪音は。あるいはどれだけ私を憎んでいても、気弱さゆえに善良にしか振舞えない女なのである。もはや哀れを通り越して滑稽である。別れ話を持ちかけられ、スカートのボタンを外され、殴られ、砂にまみれ、車に戻れと言われて、それでもなお静かに首を横に振りながら従順に随うのである。
 だがそれは私の誤解であった。

(つづく)
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